山内経之 1339年の戦場からの手紙 蛇足として

〈経之の手紙はなぜ不動明王像の胎内に保存されていたのか〉
大正の終わりか昭和のはじめころに山内経之の手紙は高幡不動尊不動明王像の胎内から、正確には首部から発見された。発見されるまで、いつからかはわからないが長期間そこにあったと思われる。一体だれが何の目的で手紙を仏像の中に入れたのかはよくわかっていない。「日野市史料集 高幡不動胎内文書編」でも検討はしているが結論を出すには至ってない。ここではその胎内文書編の解説をかいつまんで紹介する。
高幡不動堂は建武2年(1335)8月4日の嵐で壊滅的に倒壊している。この大嵐は大木を根底から引き抜くほどの強烈なもので、寺の「本尊諸尊皆もって破損」したという。不動明王像も例外ではなかった。木造の仏像は不動堂もろとも被害を受けた。その後、高幡不動のある得恒郷の領主であり、寺の旦那である平(高麗)助綱を中心に寺の再建、仏像の修復作業が進められ、7年後の康永元年(1342)6月にその念願は果たされた。

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不動明王

再建までの間常陸では北朝南朝の合戦があり、その合戦で戦死した山内経之は残念ながら再建時すでに世を去っていて再建の式典に立ち会うことはなかったが、かわりに経之の書状群がその菩提を弔う目的で不動明王像に納入された、と一般には考えられている。一般に、というのは異論もあるからだ。
まず経之の追善供養が目的で胎内に納入されたとする理由として、発見された手紙の大部分が経之のものであったこと、また印仏が押されていたことなどが挙げられる。
この印仏は、手紙の裏側(紙背)に不動明王、もしくは大黒天の図柄がスタンプのように捺されたもので、不動明王像の胎内ということもあり、文書全73点のうち60点が不動明王の図であった。
このような印仏を捺した紙を仏像の胎内に納めて死者の供養を行う宗教行事は古代以来行われてきたもので、中世では一段と広く行われていた。そのため経之の手紙も同様の目的と考えるのが自然である。だが、この経之追善供養説には若干の疑問もあるようだ。
胎内に納入された文書には経之のものが大半を占めるが、一方でまだ存命である又けさ等、ほかの人の手紙も含まれている。まだ生きている人間の追善供養はおかしい。納入の目的を経之の追善供養と考えるとこの点について説明が必要だが、生者の安心立命を目的とした生前供養(逆修)と考えれば、一応疑問は解消する。
ただ疑問はまだある。高幡不動堂の旦那は平(高麗)助綱であり、不動明王像の光背部に彫られた背銘には修復作業に携わった者の筆頭に助綱の名前がある。にもかかわらず、助綱に関連した文書は胎内に納入されてない。
また印仏自体がかなり雑に捺されているのも気になる。印仏の上下が逆さまであったり、中には手紙の裏ではなく文字が書かれている表に印仏してあるものもあり、死者への敬意が感じられない。供養のためならこんな押印の仕方はしないだろう。

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これらの疑問からすると、経之の手紙をはじめとする文書群を、不動堂再建のときに経之の追善供養のために像内に納入されたとするにはためらいがある。
そこで考えられるのが、印仏が捺された紙を切り分けて呪符として配った、という説である。
印仏が捺された紙を病魔退散などの目的で呪符を患部に張ったり、丸めて飲むことで病気の平癒を願う習俗があった。そういった目的で霊験あらたかな呪符として広く信者に配られたのではないか。そのような風習は現代でも巣鴨とげぬき地蔵などがよく知られている。
病気平癒を期待して配られたのだったら経之の供養とは全く関係のないことになり、経之の書状群は単なる反故紙として利用されただけ、ということになりそうだ。
経之の戦死後、又けさや「ねうほう(女房)」は土渕郷を引き払ったと思われる。経之が死んだのは暦応2年(1339)の暮れか翌年のはじめのことで、経之の家族がすぐに在所を引き払ったのならば、高幡不動堂の再建のころ(康永元年(1342)6月)にはもう土渕郷にはいなかったことになる。であれば経之の追善供養のため、というのは時期的にも違うように思う。
経之の家族が土渕郷を退去した際、不要になったものは処分されたであろう。紙が貴重であった時代だから手紙も捨てるのではなく回収され、反故紙として再利用されたはずだ。回収された紙はのちに病気平癒を願う人々のために印仏が捺され、呪符として配られた。不動明王像の胎内に保管されたのは呪符としての効力を増すためのまじないのような措置だったと考えられる。これなら印仏が上下逆さまだったり、表面に捺されていたとしても問題はない。どうせ切り分けるのだから上下はどうでもいいことだし、死者の追悼のためでもないのだから表だろうと裏だろうと変わりはない。
個人的には経之のことを自分なりに調べ、考え、ここまで長々と書いてきて、その最後に経之の悲劇的な死を悼む家族が追悼の気持ちを込めて仏像の胎内に納入したのだ、という美しい物語をつい期待してしたくなる。それが事実なら小説の最後を飾るにふさわしい。そういう小説を書きたかった。だが実際はそんな涙を誘うような話ではなく、冷静に考えれば、主を失った家族が失意のうちに土渕の地を去る際にあわただしく処分した紙が経之とは関係のないところで再利用されただけ、だったのかもしれない。真相がそれならばちょっとがっかりではあるが、だからといって家族の経之を悼む気持ちがなかったわけではないだろう。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その21

【その後の常陸合戦】

〈駒城の落城〉
山内経之がいつ死んだのかは不明である。おそらくは最後の手紙を書いた暦応2年(1339)の12月中か、遅くても翌年のはじめのことだろう。経之が身罷ったことでこの駄文の目的も終わったが、常陸合戦そのものはこれからが本番である。以下、簡潔ではあるがその後の常陸合戦の推移をまとめておく。
年が明けてから常陸南朝勢の動きはさらに活発化した。1月11日、敵の兵粮の道を絶たんがため、関城城主関宗佑は並木渡戸に陣取った。下野国方面から鬼怒川を下って運ばれてくる敵の兵粮を押さえようという意図である。経之の手紙で見たように、ただでさえ兵粮不足に苦しんでいた北朝勢にとってはこういった締め上げはこたえたに違いない。20日には北畠親房とともに常陸に下ってきた春日顕国が、師冬軍の攻撃目標になっている駒城を救援するために駆けつけている。北畠親房北朝勢の体たらくを「駒楯辺凶徒、今春ハ以外微弱、散々」とか、「凶徒以外衰微、又無加増之勢候也」と正確に、多少の侮蔑を込めて看破したのはこの頃である。
しかし親房が喜んでいられたのもここまでであった。2月ころから北朝勢は兵力の拡充に力を入れ、新たな援軍を得て攻勢に出ている。
そして暦応3 年5月27日、いくさの開始から実に8か月も過ぎてから、駒城は30余人の死者を出してついに落城、駒城の大将で親房が駒城に送り込んだ公家の中御門少将実寛は生け捕られた。鶴岡社務記録によるとこの日駒城は「一城悉く滅亡」というから、駒城城主平方宗貞も死んだのだろう。

〈師冬、敗走、迷走〉
時間こそかかったものの、駒城を落とした北朝勢はようやく念願の常陸入りを果たせるかに見えたが、駒城が落城したその日の夜、常陸南朝勢は夜討ちを仕掛けて駒城を奪い返している。その勢いのまま、翌28日には北朝勢の拠点である八丁目、垣本、鷲宮善光寺山の城を落とすと、29日には高師冬の飯沼城まで攻略してしまった。師冬は反撃の勢いの激しさになすすべなく、陣屋を焼き払って逃走するしかなかった。
駒城周辺だけでなく別の方面でも南朝方の動きは迅速であった。駒城が落ちた直後、北畠親房は時を移さず、子息である鎮守府将軍北畠顕信を奥州へと下向させている。顕信をして北奥の南朝勢力を結集、南下させ、同時に親房が常陸から北上して陸奥国多賀国府を挟み撃ちにしようという計画である。このころ陸奥国多賀国府には石塔義房がいて北朝方の勢力下にあったが、この顕信下向は奥州の南朝勢を勇気づけ、義房の動揺を誘うことになった。義房は鬼柳義綱に宛てた書状で「無理してでも来て力を貸してください。もし急いできてくれないのなら永く恨みます(おしてのぼりて合力あるべく候、もしいそぎ打てのほらせ給はずは、ながくうらみ申へく候)」と、孤立しそうな状況に焦りを見せている。この時期、奥州ではまだ南朝方が優勢であった。
飯沼から撤退した高師冬は駒城方面から常陸入りして最短距離で親房の小田城を目指すルートを諦め、一旦常陸北部の瓜連城へ足を向けることにした。瓜連城はかつて後醍醐天皇の腹心楠木正成の甥、楠木正家によって築かれた城だが、建武3年(1336年)に北朝方の佐竹義篤によって攻め落とされてからは北朝勢が支配していた。師冬はこの瓜連城を根城として兵力の拡大に努めることになる。と同時に常陸国小田城の親房と、白河結城をはじめとする陸奥国南朝勢の間に割って入り、連絡を断つことで南朝方の勢力を分断する方針でもあった。しかしこの方針転換が現実のものとして功を奏しはじめるまではまだまだ時間を要することになる。それまではむしろ状況は悪化していったのかもしれない。
駒城が落城した翌年(暦応4年、1341年)の正月、南朝刑部少輔秀仲(親房の祐筆?)の書状によると、高師冬は京都へ常陸戦線の窮状を訴えて援軍の派遣を要請している(「師冬被廻瓜連之式、定令風聞候歟、無正躰之作法候云々、其力不可叶候旨、依愁訴于京都、可差下大将之由荒説候」)。この愁訴は北朝大将の足利尊氏に聞き入れられ、一時は高師直が関東に下向すると評定が決したが、ちょうどそのころ京でも山門(延暦寺)、南都(興福寺)が蜂起する騒動が持ち上がり、この話は立ち消えとなってしまった。結局高師冬は関東において独力で勢力を蓄えざるをえず、年が変わってもまだ瓜連城から動けずにいた。

〈小田城の攻防、藤氏一揆
ところが5月になると情勢は一変する。5月22日に師冬勢が瓜連を発ち、常陸国のほぼ中央に位置する宍戸荘垂柳城へ移った、との一報が北畠親房の耳に届いたのだ。駒城落城から約1年後のことだ。
この垂柳城への進出に親房は動揺し、白河結城親朝宛ての書状で「北朝勢は他の城を無視して今日明日にでもこの小田城を襲ってくるとの風聞がある、関東の安危はまさにこのときにかかっている(「自京都厳蜜催促之間、閣諸方直可襲当城云々、且又今明日発向之由其聞候、被待懸候、坂東之安否、宜在此時節歟」)」、と救援を求めている。しかしその頼みの綱である結城親朝の助けは例によって得られず、常陸南朝勢も兵力不足からそれぞれの城を警固するのが精一杯で積極的に打って出て戦おうしなかった。
折悪しく、時を同じくして親房の不安をさらに掻き立てるような事態が出来した。吉野の公家近衛経忠による藤氏一揆である。藤氏とは藤原一族の意味で、近衛経忠が藤原一族である小田氏、小山氏、結城氏らと語らって引き起こした、南朝内部の分裂運動である。内実は反親房運動であった。(具体的な内容は、北朝勢が今にも小田城に襲い掛かってくるとしたためた上記の手紙にくわしい。暦応2年5月北畠親房御教書)
後醍醐天皇が世を去ったあと、南朝の屋台骨を支えている中心的人物といえば北畠親房であり、後醍醐の路線を引き継いだ親房は徹底した対北朝主戦派であった。しかし親房が常陸に下向したあと、吉野に残った公家たちがみな親房と同じように好戦的で、足利尊氏率いる北朝と対決する意欲にあふれていたわけではない。むしろ主戦派は少数ではなかったか。後醍醐という絶対的な主を失ったことで、吉野まで付き従った公家たちも先行きの不安から抗戦か恭順かで揺れ動き、南朝の存続に疑義を挟む者がいたであろうことは否定しがたい。その主たる人物が近衛経忠であった。経忠は京にいたころに近衛家家督争いで敗れて行き場を失ったために失意のうちに吉野に下ってきた人物であった。そういう経歴からもわかるように、必ずしも後醍醐の反北朝、政権奪取運動に積極的に賛成、加担したのではなかった。その経忠があるとき吉野の山を下りてふと京都に戻ってきた。北朝との和解協議のためではないかと考えられる。しかしこれには京の公家たちもどう相手をしたらよいのやら困惑したようで、ただあばら家をあてがっただけでかかわりを避けている。交渉は暗礁に乗り上げていたようだ。
経忠は和解工作と並行してしなければならないことがあった。親房の処遇である。なにしろ北朝と和解しようにも主戦派の親房がいてはどうあがいても話が進まない。そこで小山氏らと共謀して関東での南朝勢の実権を握り、親房の存在を骨抜きにしようと試みたと思われる。この策動を知った親房は、「小山氏にまつわるうわさはもともとあまり信用できない話ではあるが、しかし小山氏は年少で、しかるべき補佐役もいない。もしおかしなことが起こりそうなら、よく話を聞いてあげ、教え諭してあげるべきである」、「こういう噂が口の端に上るのは痛ましいことだ。鎌倉凶徒の耳にも噂が届いてしまうではないか。小田城でも小田の家臣たちがどうふるまうべきか、と評定に及んでいる」と策動を疑いつつも影響を憂慮している。
この藤氏一揆は結局のところ結成されることはなかった。経忠の独り相撲で、小田らは乗ってこなかった。しかしこの騒動が引き起こしたさざ波は常陸南朝勢を揺さぶって疑心暗鬼を生み、のちの小田勢の寝返りへとつながってゆく。

〈小田城の陥落〉
藤氏一揆の余波が懸念されたとは言え、小田城がすぐに危機に陥ったのではなかった。師冬は小田城攻略にあたり、まずは小田城後方に控える山の上に陣を取ったが、兵力不足がたたって攻めあぐねる状況がしばらくの間続いた。小田城はいつでも師冬勢からの攻撃を受ける位置関係にあったが、6月、7月が過ぎ、8月になっても「凶徒之躰ハ難無正躰」と親房は安心しきっている。
6月23日の合戦で南朝勢は大勝し、親房は「凶徒討死手負及千餘人云々」と戦果を満足げに誇り(千人は明らかに嘘だが)、7月8日には武蔵国住人吉見彦次郎等が南朝に投降して、「まずはめでたい」と上機嫌であった。親房から見た師冬勢は「凶徒以外微々候」、「凶徒無勢之余」というありさまであり、南朝勢は戦うたびに「毎度乗勝候」のため、師冬勢は積極的に戦いを望まなかったらしく、ろくに出逢うことすらなかったという(「更不出逢候」)。小田勢が帰城すればそのすきに師冬勢は陣を出て近隣の村々で濫妨を働くが、小田勢が城から打ち出てくると陣に戻って合戦を避けた。この期に及んでも師冬はたびたび京に手紙を送って支援を求めている。わずかながら援軍が到着したようだが、今もって師冬勢にできることといえば堅固な小田城攻めではなく近隣での略奪くらいであった。他方の常陸南朝勢も兵力不足に変わりはなく、山上の敵を追い散らすまでには至らなかった。長期のにらみ合いは小田城内の人々や周辺の諸城の籠城兵の心を徐々に疲弊させ、むしばんでいった。そのため南朝勢も不慮の出来事があれば一気に崩壊してしまいそうな危険をはらんでいた(「人々心もよハ/\しき事のミ候間、若不慮之難義出来候なん後ハ、諸方落力候歟」)。
10月になると親房のかつての強気は影を潜めて悲観的になり、結城親朝への書状では、「以前は1年でも2年でも支えられないことはない、と豪語していたが、最近は苦しくなってきた」、と正直に打ち明けている。親朝本人が来れないのなら息子でよいから派兵してくれないかとも頼んでいるが、これもかなえられることはなかった。常陸南朝勢の兵力不足をよそに師冬勢は略奪に励み、常陸勢の気力はさらに削がれていった(「凶徒任雅意横行、就之よそよそしき方ハ先落気候」)。ついには東条一族の多くが変節し、下妻城中では異議を申し立てる者が現れ、長沼一族は寝返ってしまった。小田氏が師冬に城を明け渡したのは暦応4年(1341)11月10日のことであった。

常陸合戦の終焉〉
小田氏が高師冬の軍門に下ったことで、親房は関氏の関城、春日顕国は下妻氏の大宝城へと居を移すことを余儀なくされた。再々の催促にもかかわらず、結城親朝はまだ来ない。しびれをきたした親房は、親朝が遅々としているからこのような事態(小田の降伏)を招いたのだ、と愚痴っている(「依勠力之遅々、此難儀出来候了」)。この関、大宝城が常陸合戦最後の戦いの場となった。
両城はともに南北に細長い大宝沼に面しており、関城から南に2.5キロ下った位置に大宝城があり、舟でも行き来ができた。親房は大宝城の春日顕国と連携をとりながら迫りくる師冬勢に対抗しようと考えていた。

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画面中央の凸4が関城

しかし小田城落城から1ヶ月後、高師冬は小田城の本陣を焼き払い、投降した小田治久を引き連れて北へと進軍、関・大宝城の中間に陣取り、両城間の陸路を遮断、また伊佐・中郡・真壁などのほかの南朝方の諸城との道も封鎖した。さらに関城北の関城大手野口にも陣を取っておさえることに成功し、これにより東・西・南を沼に囲まれた関城は陸の孤島と化してしまった。残るは大宝沼の水路のみである。南朝勢も手をこまねいていたわけではなく、春日顕国が大宝城から討ってでて師冬勢をことごとく追い払っている(「下妻之凶徒、悉追払候」)。このころはまだ常陸南朝勢にも敵を追い払うだけの余力は残されていた。しかし関、大宝城は周囲を完全に包囲されてしまったために外からの兵糧の搬入も困難な状況に陥りつつあり、不安や動揺も広まり、関城では「羽太」と名乗る者が数人の仲間を誘ってともに城から逃げてしまった。両城はかろうじて水路を通じての往反が許されていたがそれも翌康永元年(1342)5月になると師冬勢に狙われるようになり、思うように行き来ができなくなってしまった。

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昭和13年、洪水で増水した大宝沼に浮かぶ関城跡を南から望む

親房は結城親朝に再々援軍を求めているが、親朝も敵に囲繞されていて身動きが取れない。金銭や物資を送るのが精いっぱいであったが、それも二千疋(20000文)送ったうち半分の千疋しか親房の下には届かなかった。銭は重くかさばるので見つからないように運ぶのはむつかしかったのかもしれない。ただ砂金は複数回にわたり無事に届けることができたようだ。また寒さが厳しくなる季節には衣類などを商人に託して運び込むことに成功しているが親房もこれを喜び、今後もこういう形で送ってくれないかと頼んでいる。
この年、康永元年にはたびたび戦闘が行われているが、攻める師冬勢の兵力不足と、南朝勢の奮闘もあいまって、関・大宝城は一年持ちこたえることができた。
このころの親房は、300騎でいいから援軍を送ってくれないか、とか敵は関城の正面に4、500騎、全部を合わせても千騎に満たない、などとしきりに親朝の気を引こうとしている。親朝はむつかしい判断を迫られていた。敗色濃厚の南朝方に参陣すれば結城一族の滅亡を招きかねない。親朝はすでに父宗広と弟の親光を失っていた。結城家の存続に心を砕く親朝にとってそれは受け入れがたい選択肢であった。
奥州の有力者である結城親朝に声をかけて味方に引き入れようとしていたのは何も親房だけではなかった。親朝の動向がこの常陸、ひいては関東、奥州の情勢に大きく影響することが明白である以上、敵方である北朝勢もだまっているわけがなかった。
北朝大将足利尊氏は康永2年(1343)2月、先祖代々の所領安堵を条件に結城親朝に帰順を促している。また6月には北朝奥州将軍石塔義房が親朝に対し、軍勢催促を発している。このころにはもう親朝の意は決していたようだ。
関城の楯際では昼夜を問わずぎりぎりのいくさが行われていた。師冬勢は関城の堀を埋めるため、草木を刈って堀に放り込んだ。城勢はそうはさせまいと熊手を使って取り除き、敵勢の城内への突入を防いでいた。また師冬は金堀衆を使って城内へ忍び込む横穴を掘らせていたが、城内の櫓の下まで掘り進めたところで穴が崩れて金堀衆が圧死する事故が起きたためにこれは沙汰止みとなった。そういった幸運も重なり、ここまでなんとか耐え忍んでいた籠城勢ではあったが8月になり、ついに兵糧が底をついてしまった。
8月19日、北畠親房があれほど期待していた結城親朝北朝の一員として挙兵した。親房がこの事実にいつ気づいたのかは不明だが、奥州の異変を感じ取ったのか、同月23日に「奥あたりで一体何がおきているのか(奥辺事如何か聞候らん)」と申し送ったのを最後に親房の結城親朝宛の書状は絶えた。
それから2か月半後の11月11日に関城が落城、ついで翌12日には大宝城も師冬の手に落ちた。親房は落城の際に城を脱出し、吉野へ帰還している。関城城主関宗祐と大宝城城主下妻政泰は城と運命を共にしたという。ただ春日顕国は脱出後も吉野へは帰らず、常陸に潜伏、残党兵をかき集めて4か月もの間、ゲリラ戦を展開していたが、最後は敵に捕らえられて斬首に処せられた。貴族の出である顕国が親房と一緒に吉野へ帰らなかった理由はよくわからない。


終わり

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その20

【混迷深まる城攻め、経之の最期】

〈進退窮まる北朝勢〉
駒城攻めが停滞するにともない、北朝勢のあいだで疑問や厭戦気分がただよい始めている。高師冬は、経之の主筋と思われる山内首藤時通宛の12月13日付の奉書で、「この合戦の最中に多くの軍勢がいくさを放棄して帰ってしまったなか、今もって忠節を尽くすことは神妙である」、と感謝を示している(「常州下総国凶徒誅伐事、駒館城合戦之最中、軍勢多帰国之処、至于今忠節之条尤神妙也、向後弥可被抽軍忠之状、依仰執達如件」)。大将である高師冬がわざわざ残っている武将にこのような感状を書かなければならないほど北朝勢から離反者は続出し、人心をつなぎとめることが難しくなっている。
厭戦気分は経之も同様のようで、今までは死傷者が多く出ても、家族を安心させるために、「それほどつらいとは思わないから心配してくれるな」とか、「今のところ特に変わりはない」などと書き送り、弱音を吐かずにいたが、戦況の悪化で徐々に不安に絡め取られ、諦念に似た苦衷を吐露し始めるようになっていった(45号文書)。
 「るすの事、かい/\しく候ものゝ一人も候ハてと、心もとなく候、何事も申しつかハして候へはとも、」(留守のこと、甲斐甲斐しい者が一人もいないので心もとない。戦場で起こっていることを伝えるべきだとは思っていたものの、)
 「いつとなくきら/\しくからす候あひた、ともかくも中/\申さす候」(いつの間にかだんだんといくさの先行きが怪しくなり、なかなか伝えられなかった。)
ただでさえ百姓が従わずに苦労している留守宅を案じて、経之は家族を不安にさせまいと、日々悪化していくいくさの様子を伝えられずにいた。
そんな状況下において、
 「兼又このかせんにつけ候て、三かハとのも、よろかならす悦はれ候ゑ」(この合戦について三河殿(師冬)も大変喜んでいる)
と、大将の師冬が喜んでいることを伝えている。上記の感状のことだろう。経之が直接師冬から感謝の意を伝えられたわけではないだろうが、山内時通への感状を通じて謝意が伝えられたのだろう。今も残って戦っている山内一族へまとめて礼を述べている。しかし礼を言われて経之が満足しているようには思えない。満足するどころか、経之の心労はひととおりではなく、追い込まれつつある心理状態の中で自らの死をも意識し始めている。
 「身しに候とも、大しやう、又このいきのの人/\かやうに候へハ、・・・心やすく存候」(たとえ死んだとしても大将や一揆の人々がこんなにいるのだから、家のことはよしなに計らってくれるだろう。心配はしていない。)
従容と自身の死を受け入れようとするほど激しく気分が落ち込んでいるのが見てとれる。こんなときでも「自分が死んでも大将である師冬や一揆の人々(一緒に戦っている武士たち)に家族を大切に扱ってもらえるなら・・・」、などと状況の打開を考える気力を失い、思考停止に陥っている。心身ともに疲れ切っているときに優しい言葉をかけられるとつい涙もろくなったり、場合によっては相手を必要以上に信頼して付け込まれたりすることがあるが、経之はまさにそんな精神状況に追い込まれていたのではないか。多くの武士が帰国してしまったのに律儀に残ることはないと思うのだが。戦場を後にした多くの武士たちはなんやかんやと理由、というより嘘、詭弁を並べて帰ってしまったに違いない。最後まで生き残るのは結局はそういった神経の図太い、図々しいタイプの人間だ。経之もそうすればよかったのだ。しかし経之は死を意識するまでの苦境にありながら生きるための思い切った判断、行動ができないでいる。嫌なものは嫌とはっきり言えない、流されやすいタイプのようだ。きっと真正直な人間なのだろうが、要領良く振る舞うことができない、不器用で損な性格なのだろう。そんな性格だからいくさ用途を徴収しようとしても百姓にそっぽを向かれ、又者には戦場から逃げられる。・・・胎内文書を読んでいて、経之のこういう性格をもどかしいと思うと同時に親近感も覚える。
 「仰のことくこれのしんく申はかりなく候、さりなからこれの事ハ、かねてよりおもひまうけたる事にて候、るすにかい/\しき物々一人も候はぬこそ、返々心もとなくおほえて候へ、何事よりもおとなしく、なに事もはゝこにも申あハせて、ひやくしやうともの事もあまりニふさたニて候、よく/\はからハせ給へく候」(47号文書)(おっしゃる通り辛苦は筆舌に尽くしがたいものがあります。さりながらこれもはじめから分かっていたことです。留守宅に甲斐甲斐しい従者が一人もいないのが残念でなりません。何ごとも大人らしく、百姓どものことをあまり伝えてこないが、母御と相談して、よく取り計らうように。)

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駒城周辺略図

〈山内経之の最期〉
矢部定藤軍忠状によると11月29日を最後に駒勢との衝突の記録はない。北朝勢から離脱者が増え、駒城攻略に直接兵を振り向けるのが難しくなったためか。硬直した戦況は緊張とも停滞とも受け取れた。しかしながら小競り合いは各地で続いていた。ただしそれもどちらかというと北朝勢は積極的に攻めるよりも相手を恐れて守勢にまわっているかのようである。
 「・・・ふともおはさいけニより候て、十四五日、廿もこゝらゑ候もあるへく候」(47号文書)
意味を取りにくい一節だが、逆襲を警戒して駒城より少し離れた民家に寄宿して長期、無為に過ごしていたと思われる。
 「しをもとゑむかひ候しほとに、いつれもかせんはおなし事と申なから、なんきのところにて候しうゑ、こせいにて候しあひた、・・・いまゝては事なるしさいなく候、」(48号文書)(塩本へ向かっていたとき、どこでも同じいくさに違いはないが、難儀している。小勢なので・・・今のところは無事だ。)
経之は塩本(結城郡八千代町)へと移動中に敵と遭遇したが、小勢であったために苦戦している。塩本は経之が当初布陣した山川より後方に位置する。敵の攻勢に北朝勢は前線の後退を余儀なくされ、敵はかなり大胆に結城郡へと侵入してきているようだ。経之が遭遇したこの敵は駒勢というよりは北畠親房や関宗祐の派遣した南朝方の援軍だろう。幸いなことに経之は難を逃れたようだが、敵が鬼怒川を越えて積極的に押し出してきている様子がうかがえる。
 「あらいとのゝ御かたゑも状をまいらせたく存候へともさしたる事なく候うゑ、よへこのしやうへよせ候とて、よふしんニしつ・・・」(新井殿に手紙を送りたいと思ったが特に知らせることもないうえ、昨夜この城に敵が押し寄せてくるというので、用心していた。)
北朝勢は、駒城を落とすどころか反対に夜討ちを恐れて警戒を強いられているありさまである。高師冬の常陸下向の本来の目的は、北畠親房率いる南朝勢を東国から追い払うことであった。そのために高師冬は遠く京から下ってきたのだが、常陸南朝勢征伐の前哨戦に過ぎない駒城でつまずき、いまだ常陸入りすら果たせていない。
多くの武士の死傷、離脱にもかかわらず、経之はこれまでかろうじて無事にやってこれたが、しかし不幸は経之のもとにも平等に訪れた。経之の従者のひとりが戦死したのである。
 「▢郎二郎めうたれ候」(49号文書)
残念なことに欠字があって正確な名前がわからない。該当しそうな従者は七郎二郎、四郎二郎のふたり。このどちらかだとは思うが肝心な1字が不明で明らかにできない。七郎二郎は26号文書で経之の使いとして「ぬまと」へ行った(と考えられる)従者である。
 「なに事も下候し時そう/\に候て下候し事、心もとなくこそ候へ、これもかせんのひ候ハヽ、いとまとも申候て下たく候へとも、かたきのしやうもちかく候ほとに、中/\とおほえて候、」(50号文書)(常陸へ下るとき、あれこれおざなりに済ませてしまったことが心残りです。合戦がここまで延びてしまったので、休暇をもらって帰りたいのですが、敵の城も近くにあり、なかなかそれも叶いません。)
 「こんとのかせんニハ、いき候ハん事もあるへしともおほえす候へハ、かい/\しき物々一人も候▢て候・・・こそ、返々心もとなくおほえ・・・」(このたびの合戦でわたしが生き残ることはないでしょう。甲斐甲斐しい従者が一人もいないことが返す返す残念でなりません。)
経之はもう自身の死を覚悟している。こんなときでも経之は自分の死をさしおいて家族のこれからのことが頭から離れないでいる。経之が「心もとない」と綴るのはこれで何度目だろう。かつて坂東武者とは「いくさは又おやも討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越えヽ戦ふ」者、といわれたがそれは所詮は平家物語の作り話だ。実際の武士は戦場では不安でいっぱいだし、家族の幸せを切に願ってやまない普通の人たちである。当然であろう。たかだが700年前に生きた我々の先祖なのだから、今の人間と違いなどあるまい。経之は駒城合戦のはじめこそ「それほどつらいとは思わないから心配してくれるな」とか「今のところ特に変わりはない」などと気丈なことを言っていたがそれも徐々に「辛苦は筆舌に尽くしがたい」に変わり、「たとえ死んだとしても大将や一揆の人々がこんなにいるのだから・・・」とうそぶいて自分を納得させようと試みたりするようになっていった。ほんの2ヶ月前、下河辺に着陣したときに忠ある者の行く末は急に終着点が見えてきた(「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也(34号文書)」)、と書いていたが、その時、まさか自分の終着点がこんなに早く訪れ、それが駒城になると、どこまで本気で理解していたかはわからない。あれだけ家族に心配かけまいとしていた経之が、「この合戦で私が生き残ることはないでしょう」とはっきりと告げたのはなにか予感があったからなのか。この50号文書が山内経之の最後の手紙となった。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その19

【駒城合戦第二幕】

〈第2次駒城攻撃〉
矢部定藤の軍忠状によるとこの11月7日の戦闘は前回とは違い、高師冬の北朝勢は積極果敢に攻めている。前回は破れなかった内構の矢倉を突破して戦っている(「越内構矢倉」)。この内構の矢倉とは何を意味するのかよくわからないが正面大手門を守るために築かれた矢倉のことではないかと思う。第1次の攻防では外堀に架かる橋を越えて戦っていたが、今回は橋の先にある門を打ち破って城内に侵入した。

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駒城地形図

続いて8日には鹿垣を切り破り、高矢倉の壁に取り付いた。駒城は二重の塀に囲まれていた考えられるが、その外郭を突破して侵入し、内塀の矢倉に迫った、ということか。高矢倉を囲む鹿垣はに寄せ手をそれ以上近づけない工夫である。簡単に設置できるものだが相手を足止めし、時間稼ぎにはなる。費用対効果は高い。敵がそこで戸惑っていると矢や石礫の雨あられだ。しかしその鹿垣も破られ、あとは内塀一枚隔てての攻防である。駒勢とすればここを支えきれないと落城必死である。
しかしこの二日間の戦闘では、順調に攻めていたように見える北朝勢の損耗も大きかった。42号文書によると多数の死傷者がでている。
 「人/\これほとうたれ、てをひ候に、いまゝてをおもたハす候へハ、きかせ給候ても、かせんもいかやうに候やと、心もとなくハしおもハせ給候ましく候、」(人々がこれほど討ち死にし、怪我を負っているが、今はまだつらいとは思わない。そう言って聞かせているのに、合戦の様子はどうだ、と心配しないでください。)
前回の第1次駒城合戦とは違い、城の中まで討ち入った今度のいくさではさすがに被害は避けられなかった。そんな中でも経之は家族に心配かけまいと気丈に振る舞っているのか、つらいとは思わない(「おもたハす候へハ」)と書き送っている。
 「むまも身かほしく候、むまをくせいのもちて候しを、ゑひとのゝもとより候て、とりてたひて候、かふともこのほとハ人のかし給て候へハ、それにてかせんをもきてし候也」(馬がほしい。このほどは海老名殿の御供?が所有する馬を借りた。兜も人から拝借して使っている。)
経之は馬や兜といういくさには不可欠な物までを友軍から融通してもらっている。少し前に馬に鞍を載せて百姓に運ばせよ、と命じていたがあれはどうなったのだろう。百姓に拒まれて要求通りにとどかなかったのか、それとも届きはしたが激しい戦闘の過程で失ったのか。兜に関しても事情はよくわからない。はじめから用意していないはずはないが、戦闘中に壊れたのかもしれない。
死傷者が多い中、経之自身には怪我もなく、精神的にもくじけてないようだが、従者たちはそうではないらしい。41号文書によると「又とも▢またにけて候(又どもが数多逃げた)」とあり、多くの従者が逃げている。経之は手勢の崩壊を止められないでいる。
 「ひとはかゑりなんと申候へく候、・・・・にけ候」(帰りたいと言っている人がいる。・・・逃げてしまった)
気弱になっているのは経之の従者だけでなかった。聞くところによると、参陣している武士たちの中にも、もう帰りたい、などと話している人がいるという。実際に帰郷した者もいるようだ。既述した内容だが、同じ手紙では、「申候したてはかま、すわう給るへく候」と、堅袴、素襖を要求している。もう寒い季節である。殊に鬼怒川流域は吹きさらしの北風が冷たい。
戦況は思わしくなかった。鎌倉勢は兵力不足からくる士気の阻喪、寒さ、兵糧をはじめとする物資の不足に苦しめられていた。かたや敵である北畠親房は一連の駒城をめぐる攻防を余裕を持って受け止めている。11月21日付の白河結城親朝北畠親房御教書は、
 「此間於方々合戦、毎度御方得利、凶徒多以或討死、或被疵、悉引退候了」(この間、方々で合戦があった。毎度味方が利を得て、凶徒は多くが討ち死にするか、けがを負い、ことごとく退却していった。)
親房は味方の完勝と見たようだ。

〈落ちない城〉
二重の郭と堀で囲まれた駒城は、駒館と呼ばれることもあったように、もとはといえば在地領主である平方宗貞の館で、それに手を加えた程度の小城に過ぎなかった。親房の応援の兵が入っていたが、それもたかが知れた数だろう。そんな小城すら落とせない原因はひとえに攻める北朝勢の戦力不足ゆえにほかならない。年の瀬も近づいた頃、経之は従者の一人である小三郎が持ってきた手紙に対して返事を書いて送り返した。以下43号文書。
 「仰のことくいまゝてハへちの事なく候、このしやうも▢しのうちハおち候ぬへきやうも候」(おっしゃる通り、今のところは特に変わりはありません。この城も年内に落ちることはないでしょう。)
 「いとまをも申候てのほるへく候・・・の事こそおもひやられ・・・返々も心もとなく候へ」(休暇を願い出て帰りたいのだが・・・のことが返す返す心配でなりません。)
 「あまり人々事かき候て申上候しかとも、それにも人も候ハす候うゑ、中/\ このゝちハはたさむに候、物はしとてもかない候ましく候へハ、下ましく候よしあるへく候」(人々は物資が不足していると申し上げていますが、それでも人手不足もあり、なかなか・・・。これからの季節は寒くなる、ろくに物資が手に入らないので、帰らせてもらえないでしょう。)
ついこのあいだまで、つらいとは思わない、心配しないでください、と気丈にふるまっていた経之も戦況に良い兆しが見えないこの時期、さすがに気弱になっている。最前まで、逃げてしまった又者たちを連れてこい、連れてこなければ親子の縁を切る、とまで怒りをあらわにしていた経之が、今は意気消沈して、従容とつらい現実を受け入れようとしている。
高師冬率いる鎌倉勢は、常陸国小田城にいる北畠親房を平らげるために遠征してきたはずだが、小田城どころか常陸に入る前の小城でつまずいている。小田城は駒城の後方にひかえる関、大宝城よりもはるか南東にある。師冬とてこんな小さな城にここまで手こずるとは考えていなかっただろう。駒城勢は、北朝勢の「もってのほか微弱散々」ぶりに気を良くしたのか、こののち、徐々に城から出て戦うようになった。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その18

【駒城合戦】

〈第1次駒城攻撃が始まる〉 
北畠親房常陸南朝方と高師冬の北朝方の合戦は、暦応2年(1339)10月23日、師冬率いる北朝鎌倉勢による駒城への攻撃で幕を開けた。
矢部定藤という武士の軍忠状によると北朝勢は合戦前日の10月22日、鬼怒川並木渡に布陣し 、翌23日には折立渡(現結城市上山川)から川を越え駒城へ攻め寄せている。山川館城主山川景重も参戦しているので山川に滞在していた経之もこの初戦に参加したと思われるが、胎内文書には直接その旨に触れた記述はない。この日より連日いくさ続きで手紙をしたためる余裕もなかったのだろう。この22日の合戦では敵(南朝勢)を追い散らしつつ、付近の民家を焼き払い、駒城・野口で合戦に及んでいる(「越折立渡、追散凶徒、焼払在家、同駒舘・野口之合戦」)。野口とは地名というより単に大手門前の野原ぐらいの意味か。
鎌倉勢が敵地で最初にやったことは近隣の民屋を焼き払うことであった。放火、略奪、人取り(誘拐、かどわかし)はいくさでの常套手段であった。そのために多くの住人が住む家を失い、食料・家財を奪われ、着の身着のままで逃げなければならなかった。このいくさで逃げ出した人々がどうなったのかは、どの史料を見ても黙して語らないのでわからない。いくさのありふれた光景に過ぎないのでわざわざ記録を残す価値もないということなのだろうか。これから寒い季節を迎えるにあたって家や食物を失った人々がどのようにして乗り切ったのかが気になる。

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駒城地形図

一日おいて25日、北朝勢は駒館に直接攻撃を仕掛け、一ノ堀橋を乗り越えて戦っている。一ノ堀橋は城正面の馬出しと外堀に囲繞された土塁をつなぐ橋のことだろう。この日の駒城衆は籠城して守りを固め、それ以上の侵入は許さなかった。駒勢は案外手ごわいと悟ったのか、北朝勢もそれ以上の無理攻めはせず、翌26日を付城の構築に費やし、相手の様子をうかがっている。日が変わり27日になると攻守所を変えて籠城衆が討って出てきたが、北朝勢はこれを迎え撃って堀の内に追い返している。この数日間の矢合わせにおける両軍の被害の程度は伝わっていない。経之の手勢にも被害はなかったらしく、いくさ後の手紙でも特に何も触れていない。
南朝方大将北畠親房筆まめで長い文章を書くことで知られているが、その親房もこの初戦を「今度駒楯寄勢退散候」と一言軽く触れているだけだった。あまり激しい戦いではなかったのかもしれない。この数日の戦いをまとめると、
・10月22日 
 北朝鎌倉勢鬼怒川並木渡に布陣 。
・10月23日
 鬼怒川折立渡を越え、凶徒追散、在家焼き払う。駒城に攻め寄せる。
・25日 史料6
 駒館一の堀橋を越えて戦う。
・26日 史料6
 向かいの矢倉を構える。
・10月27日夜 史料6
 堀口の間から敵(駒勢)が討ってでるも追い返す。

〈戦場からの無心〉
「かせんのニハ(合戦の庭)」にいる経之は戦場で必要となる様々なものを遠い本領の土渕郷から届けるように家族に要求している。重複もあるがここでまとめて紹介したい。
茶・干し柿・搗栗
を要求していることは前にも書いた。茶は、鎌倉時代栄西が中国から持ち帰ったのがきっかけとなって各地で栽培が始まったとされ、経之が戦っていたころはまだ貴重で主に養生の薬として飲まれていた。飲み方は現代の抹茶のように粉をお湯で溶いて飲んでいたようだ。茶を要求するにあたって経之は「こはのちやにかく候ハさらん(苦くない粉葉の茶)」と指定している。「こはのちや」は粉葉の茶か、それとも古葉の茶か、日野市史史料集高幡不動胎内文書編も判断がつきかねているが、常識的に考えればやはりここは粉葉の茶だろう。経之が茶を要求している手紙はほかにももう一通あり、苦くない茶、と品質にもこだわっているくらいだから茶は好きだったのだろう。一方で酒に関する記述はないことからすると、経之は下戸だったのかもしれない。
戦いの疲れをいやしたであろう甘味としての干し柿、搗栗。搗栗は出陣前に儀式で使われるものと聞いたことはあるが戦場で食されているとは知らなかった。
・紙
筆まめな経之は紙も求めている。識字率がそんなに高くない時代にあって、経之のようにしっかりとした手紙が書くにはそれなりの教養が必要なはずである。一介の在地領主にそれだけの教育を受けるチャンスがあったかどうか疑問だ。この点については、経之の出自は相模国鎌倉郡山内郷を本拠地とする山内首藤家であり、新井殿や高幡殿のような地名を名乗っている在地領主とは違うこと、また経之は本領の土渕郷だけでなく、「ぬまと」や「かしハバら」にも所領をもっていたこと、さらに百姓らの年貢対捍に悩まされるなど百姓との関係が希薄であることも考えあわせると、一介の在地領主で片づけられる立場ではなかったと思われる。流暢な手紙が書けるに十分な教育を受ける機会に恵まれていたことがうかがえる。
・小袖、竪袴、素襖
寒い季節への備えとして小袖、竪袴、素襖などの衣類も用意しようとしている。下着として着用する小袖を2,3着、その上に羽織る素襖、竪袴は・・・、一言でいえばズボンだ。この時代の小袖の値段は記録上、だいたい1着が1貫(1000文)から2貫が相場となっている。現代の貨幣価値になおすと10万から20万円位になる。ずいぶんと高いが布地は貴重な時代だったのでこんなものか。できることなら経之にユニクロを紹介してあげたい。安くて品質も良いので・・・それはともかく、これを2,3着手に入れるために経之は在家を一軒売却するように指示している。26号文書を見てみると経之は、「何としても在家を売って代金を2貫受け取れ」(「しろを二くハんはかりにてうけ候へく候、いかやうにも御はからひ候て、さいけをう」れ)、と命じ、続く27号文書では、「何としても在家を売って小袖を手に入れなければ(寒くて?)かなわない。茶染めにしてほしい」(「一日申候しやうに、いかにしてもさいけを一けんうらせて給へく候、こそて二,三申てき候ハてはかなうましく候、ちやそめのちかほしく候」)、と色まで指定するなど注文が細かい。2貫の代金で小袖を2,3着買うとなると相場よりも少し安いようだ。
・弓
食品や衣類のほかに、いくさだから当然といえば当然だが武具も注文している。拙文の冒頭、第1部【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で鎌倉滞在中の訴訟を取り上げたが、経之はその訴訟に勝って得た在家を売り払うように申し送っている。そしてその売却代金をまずは留守宅での種々の支払いにあて、残りがあれば弓を買って送ってくれと要求している。出征前であるから是が非でも弓を手に入れておきたいところだが、信頼できる従者のいない留守中の家のことを案じて、先に留守宅の支払いにあてている。ちなみに弓の値段は、史料不足のため上下の値幅が広くて絞り切れないが、調べた限りでは一張り200文というのと1500文というのがあった。現代の価値に直せば数万円から高いものでは10万以上といったところか。
・馬
最後に馬。経之は以前、乗り換えの馬がないことを理由に「ぬまと」行きを断念しているが、山川に到着した時点でも状況は変わっていない。攻撃開始の数日前、「百姓からなんとしても鞍具足を借りて馬に乗せて連れてこい、もし鞍具足がなければ裸馬のままでいいから引いてこい」、と指図している(「ひ▢くしやうとものかたに、いかやうにも候へ、おほせ候て、くらくそくかりて、のせて給わるへく候、くらくそくハしなく候ハヽ、かちにても、むまをはひかせて下申へく候」38号文書)。以前も乗り換えの馬がないと嘆いていたが、それは「ぬまと」へ旅する際の馬の疲労を考慮しての話。戦場では乗馬が射られて怪我でもすれば使い物にならなくなる。味方が優勢で攻めているあいだはいいが、いざ退却という場面では徒立で逃げきるのは難しい。替えの馬を用意していなければ生死に関わるので是が非でも手に入れたいところだ。この馬は無事に経之の下に届いたのかは不明。ただ経之はいくさのさなか、馬が足りなくなり味方から拝借して急場をしのいでいるとの記述がある。(42号)

〈又が逃げた〉
戦いが一段落ついた28日、経之は又けさに対し、いくさの興奮も手伝ってか、あることで感情を抑えきれない怒りに満ちた手紙を書き送っている(39号文書)。
「かせんと申、るすの事と申、心くるしさ申はかりなくこそ候へ、」(合戦のこと、留守のこと、心苦しさは言いようがない)
とまずは一言、心配の種がつきない、苦しい胸中を打ち明けてから、意外な事実を告げて怒りをぶちまけた。
 「にけて候又ともの人しゆしるしてつかハし候、この物とも一人ももらさて、とりて下すへく候」(逃げた又どもの人数を教えるからこの者どもを一人も漏らさず捕まえて連れてこい。)
なんと又者(従者の従者、つまり経之の又家来)が逃げた、というのである。いくさの最中に連れてきた又者がにげるとは信じられない、滑稽な話だ。具体的に逃げたのは越中八郎、谷、紀平次の又家来という(「ゑちう八郎か又、やつの又、きへいしか又、とり候て申へく候」)。さらに、
 「これをすこしもちかゑ候ハヽ、おやともみましく候」(少しでもこの命令に従わなければ親子の縁を切るぞ。)
親子の縁を切るとはおだやかでない。怒り心頭の経之は、又けさに八つ当たり気味に当たり散らしている。経之がここまで怒気をあらわにするのは珍しい。相当腹が立ったのだろう。しかし、又けさからしたらとばっちりもいいところだ。経之の管理が悪いから逃げられたのだろうに。
それから数日経った11月2日にも経之は逃げた又どもを連れてこいと再度催促している(「さきに申候しにけのほり候し又めら、とく一人ももらさす、とり候て下されく候、」40号文書)。加えて心もとない兵力を補うために「ぬまと(陸奥国沼津)」の佐藤三郎の子にも出陣するよう求めている(「さとう三郎わらハへめらか候し▢、あひかまへて/\、はせさせ給へきよし、おくゑも申つかはさせ給へく候」)。
そんな内紛に頭を悩まされている最中の11月7日、高師冬率いる北朝勢による第2次駒城攻撃が再開された。

〈経之はいくさ用途をいくら用意できたのか〉
第2次攻撃の話に移る前に経之の乏しい懐具合について述べておきたい。いくさが長引けばそれだけ必要となる兵糧の量が多くなるのは言うまでもない。いくさ用途(費用)に四苦八苦していた経之は十分は兵糧を用意できたのであろうか。
物資不足に関連して44号文書には「ひやうらまゐも、つきてこそ(兵糧米が尽きた)」とか「大しんハうニおほせ(大進房より金を借りよ)」という記述がある。大進房は第2部【下河辺へ】の節に出てきた例の高利貸しである。経之は鎌倉よりここに至るまで関戸観音堂の坊主や新井殿にたびたび金の無心をしているがそれだけでは足りず、いくさの真っ最中にも兵粮不足に悩まれていたらしい。経之はあといくら必要としているのだろう。山川滞在時の経之の所持金額は不明だ。そこで、経之が今までに借りた合計金額、そしてその銭でどれだけの兵粮を買えるのか、さらにはその兵粮でどのくらいの期間食いつなぐことができたのか、を考えてみたい。
経之はいくさ用途をこれまで再三にわたって百姓にもとめているが、実際にいくら徴収できたのかは詳らかではない。経之が自らの所領から賄うことができた明らかなケースは、在家を売って2貫受け取れと命じている一件(26号文書)と、用途をまた1貫ばかり送れ(30号文書)といっている2例のみだ。30号でまたというからには前にも送ってきたのだろうが、それが26号の件なのか別の件かどうか、判別できない。それはともかく、少なくとも用途として自力で確保できたとはっきり言えるのは、上記の2例を合計した3貫だけだ。また28号で、在家を2貫で売って残ったら弓を買って送ってくれと要求しているが、在家を売って得たお金をまず家の出費に充当し、そのあまりで弓を買ってしまえば、あとにはいくらも残らないだろう。残念ながらこの2貫は戦地にいる経之は期待しようがない。結局経之が自ら用意できたのは3貫のみか。
経之が何くれと厄介になっている新井殿から御秘計、つまり保証人になってもらったと思われる件(25号)については、具体的な金額は不明であるが、いくらかは借りることはできたのではないかと思われる。また、34号文書では用途を2、3貫ほしいので借上(高利貸し)の大進房から5貫借りよ、とある。これも借りたあとが怖いが借りることはできただろう。ここまですべてを合計すると8貫プラス新井殿の御秘計分、ということになる。

〈戦場での米の消費量〉
金銭のほかに経之は兵粮米を1、2駄、観音堂の坊主に無心している。1駄とは、米俵を運ぶ際、大抵馬の背に2俵は乗せるだろうから、兵粮米を1、2駄なら2俵から4俵ということになる。これだけあっても兵糧米に不足をきたしている。いったい戦場ではどのくらいの量の兵粮を消費するのだろうか。
まず兵士一人あたりの、一日の米の消費量を米5合と仮定しよう。戦場で激しく動き回るためにはそれだけでは足りず、もっと多く消費していたかもしれないが、実際には兵糧の絶対量が足りず、常に空腹でいた可能性が高い。雑兵物語の言う通り「陣中は紛れもない飢饉で」あることがいくさの常態であった。だからもっと少なく見積もるほうが正確だとは思うが、ここでは成人男性ひとりの活動を支えるに望ましい量として5合としておく。
ひとり一日5合とすると、10人いたら50合、すなわち5升。米1合はだいたい150グラムだから50合は7500グラム、7.5キログラムになる。経之勢を総勢10人と少し少なめに見積もっても米を一日7.5キロも消費する計算になる。米俵1俵約60キログラムは10人の兵士のたった8日分にしかならない。観音堂の坊主から頂戴した兵粮米1、2駄程度ではせいぜい半月からひと月分がいいところである。経之は自分の所領からも米を徴収を試みたであろうが、年貢を払おうとしない百姓たちからどのくらい取ることができたのかは分明でない。
持っていく米が足りないのなら、現地で買うしかない(奪うという手もあるが、ここでは考慮に入れない)。では米1俵はいくらで買えるのだろうか。こればかりは時代、地域によってまちまちだろうし、その年の作柄の良し悪し、季節によっても左右される。すなわち収穫期と端境期では米の値段は大違いだろうし、また戦場の近くでは目ざとい商人に買い占められて値が跳ね上がる可能性もある。一口にいくらとは言い難い。だから非常に大まかではあるが、ここでは便宜上ひとつの目安として、米一合≒一文と考えておきたい。米俵1俵(60キログラム)を1合(150グラム)で割ると400、1俵は400文になる。銭1貫文は1000文なので、一貫で2,5俵、2貫あれば5俵の米が購入することができる。
経之が調達できた銭合計8貫ではだいたい20俵の米が買え、兵士10人の5ヶ月分に相当する。観音堂の坊主からもらった分の1、2駄、すなわち2俵から4俵を加えると約6ヶ月分の米になる。8月の終わりに鎌倉を出発したのだから年末はまだ兵糧米の残量にも余裕がある頃と言えそうだ。しかしこれはあくまで有り金をすべて米だけに振り向けた場合である。米だけで生きていけるはずがなく、その他副食物、馬の餌、諸々含めると、年末も近いこの時期はとうに兵糧米が尽きていてもおかしくない。やむなく借上(高利貸し)の大進房に頭を下げたのは納得できる。ちょっと分かりづらい内容になってしまったので以下、計算の基準を簡潔に。
 ・一人一日の米の消費量は5合
 ・1合は約150グラム
 ・1合は約1文
 ・一石=10斗=100升=1000合
 ・1俵は60キロ、斗升に換算すると1俵は4斗=40升=400合、値は400文

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その17

【駒城】

〈駒城は下総か常陸か〉 
下河辺を発った高師冬率いる北朝鎌倉勢は松岡荘加納飯沼の地に城(飯沼館)を築いてそこを大将である師冬の本陣とし、同時に八丁目・垣本・鷲宮善光寺山にも城を築き常陸国へ侵攻する機会をうかがっていた。

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駒城周辺略図

このころ山内経之は下総国結城郡山川から手紙を書いているので(「やまかはより」37号文書)、山川にある善光寺山か、この地を治める下総結城氏庶流の国人山川景重の館付近にいたと思われる。鎌倉勢はここから衣川(鬼怒川)を越え、関宗祐の関城や、関城から南東15キロの位置にあり、北畠親房が寄食している筑波山ふもとの小田城を目指すことになる。しかし常陸攻略のまえにいやでも目に飛び込んでくるのは駒城である。関城の前にちょこんと鎮座する南朝最前線のこの小城を攻略しないことには先へは進めない。

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現在の駒城跡地

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駒城の現在の所在地は茨城県下妻市黒駒である。残念ながら廃城となった今、ここにはかつてこの地に城があったことを示す味気ない看板と石碑が設置してあるのみで、ほとんど城跡と言えるほどの痕跡もとどめていない。わたし自身、実際に現地まで足を運んでがっかりさせられた。昭和のころはまだそこに堀があったと判断できるだけのそれらしい地形が残されていたそうだが、今は周囲に住宅が建てられていて痕跡をしのぶよすがもない。それはさておきこの看板、いや駒城跡は鬼怒川の東岸に位置する。鬼怒川の東岸は中世でいえば常陸国、西岸は下総国のはずである。ところが当時の史料をみると「下総国駒城」、「下総国駒館」、「下総州山川庄駒城」と、はっきり下総国であるとしている。それらの史料を信じる限り、どうやら当時は駒城は下総国に存在していたようなのだ。鬼怒川の東にありながらなぜ下総国なのか。

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凸の7が駒城 図では駒城の西に鬼怒川があるが当時は東を流れていた

常陸国下総国の境を流れる鬼怒川は昔から暴れ川で有名でたびたび氾濫を起こしてきた。つい数年前にも鬼怒川の堤防が破れて田畑が水に浸かり、家屋が流された、というニュースを聞いたが、それは今も昔も変わらない。もともとこのあたりは低湿地帯であり洪水が起きやすい。そのせいで鬼怒川の流れは当時と今は全く同じではない。現在でこそ干拓事業のおかげで平地が広がるが、もともとは平地の乏しい、大小の河川に囲まれた沼沢地であった。経之が駒城で戦っていた頃の鬼怒川は城の東側を流れ、城は下総国に位置していた。つまり今でこそ鬼怒川は駒城跡の西を流れているが、当時は駒城の東を流れていたのだ。
駒城は当時、下総国山川庄平方にあった。経之が身を寄せている山川庄は下総結城の一族である山川景重の所領であり、平方はその一部である。駒城の城主は平方宗貞という人物で、名前からして平方の地を祖地として受け継いできたのだろう。宗貞は結城家初代朝光の子朝俊の子孫にあたり、山川景重とは同族である。つまり同じ結城一族なのだ。その下総結城の一員である平方宗貞がなぜ南朝方に付いて、下総結城家が属する北朝方に楯突くのか、奇異に感じられる。山川庄の領主山川景重が北朝を選んだのなら同じ山川庄の一部である平方を預かる宗貞も北朝につくのが自然ではないか。正確な事情は分からないが、おそらくは一族内部で相克があり、山川景重との関係が険悪になった平方宗貞はこの期をとらえて独立を図り、下総結城とは袂を分かったのだ、と思われる。
しかし独立とはいっても地図を見るかぎりでは駒城はあまり地の利を得ているようには思えない。城の東側を川で塞がれているため、西側から攻めてくる鎌倉勢や下総結城本家の圧力にさえぎる物なくさらされることになる一方、いざ常陸方面に逃げようとしても川が邪魔になる、典型的な背水の陣の形になっている。また城とは言い条、駒城は「下総国駒館」と記述されることもあるように、しょせんは在地領主が平素、起臥寝食に使っている「館」に過ぎない。いくさを前に補強くらいしているだろうが、「館」に手を入れた程度の城なら鎌倉勢が大挙して押し寄せて来たならひともみに揉みつぶせそうだ。あくまで大挙して押し寄せて来たなら、の話だが。そこでこれまで話題にするのを避けてきた重要問題、鎌倉勢は結局、どのくらいの兵が集まったのか、について考えてみたい。

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駒城付近から遠く筑波山を望む

〈駒城の規模〉
鎌倉勢の総数を考えてみたいと述べたが、そのまえに駒城がどのような城だったのかを検討したい。駒館とも呼ばれた城の規模や収容人数を知らなければ駒城合戦がどのような戦いだったのか実態をつかみずらい。
前述の通り、駒城跡はほとんど跡形もないというべき惨状なので、わずかに残された史料から推測するよりほかない。「関城町史 関城地方の中世城郭跡」には駒城の推定復元図が載っている。復元図とはいっても城がどんな形をしていたかを復元したのではなく、あくまで地形図に過ぎないが。

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駒城推定復元図

現存部分から推定される駒城は東西62間(111.6M)、南北85間(153M)の方形館で、一重の堀と塀に囲まれた、武士の館にふさわしい規模といえるが、さすがにこれでは鎌倉勢を迎え撃つための戦う城としてはいささか心もとない。実際にはこの外側にさらに外郭を伴っていたことが航空写真や地割から確実である。この想定される外郭を含めると城の規模は東西250M、南北300M超というそれなりに大きなものになる。さらにその周囲を湿地帯に囲繞されていたと思われるので、関城や北畠親房のいる小田城と比較すれば見劣りはするものの、駒城の守りは当時としては決して貧弱なものとは言えないのではないか。

〈鎌倉勢の数〉
では次に予告どおり鎌倉勢の数を割り出してみたい。【北畠親房から見た常陸合戦】で、茂木知政の軍忠状によると、奥州国司北畠顕家が数万騎の大軍をもって下総国結城郡を攻めた、と書いた。これに対し、下総結城勢も互角の戦いをしていることを鑑みれば結城も同じくらいの兵力を保持していたと考えるのが素直な解釈といえる、という趣旨のことを述べた。陸奥国国司北畠顕家が絡んでいるとはいえ、鬼怒川を挟んだ北関東の、一地方の勢力争いに過ぎないいくさにそれほどの大軍を動員できるものだろうか。もしそれが事実だというのならば、北朝を代表して京から下ってきた高師冬率いる鎌倉勢なら、さぞかし雲霞のような大軍勢を催すことができたはずと思われるのだが、では実際に鎌倉勢の総数はどのくらいになったのだろうか。
ちょっと前に山内経之の手勢は意外なほど小勢ではないかと愚考した。一人の武将が率いる勢が12,3人程度なら、数万騎の大軍を集めるのに必要な武将の数はいったい何人になるのか、計算するのもばかばかしくなる。少しも現実的ではない。
しかも経之の手勢はあくまで従者を含めた数である。「~騎」とは馬上の武士のことを指し、その周囲には通常複数人の従者が付き従っている。なので「数万騎」にはそれに数倍する従者がいたと理解しなければならない。これではものすごい大軍になってしまう。さすがにこれはありえない。
結論を言えば上記の「数万騎」は茂木知貞の軍忠状の中での記述なので、自分の手柄を大きく見せるための誇張だった。現実のいくさで数万もの軍勢を動員できるようになるのはせいぜい戦国時代になってからだろう。では実数はどのくらいだったのか。
日野市史によると、常陸合戦に参加した鎌倉方の武士は44人。記録として残り、名前が明らかな者の数のみなので当然もっと多くいたはずではあるが、いずれにせよ「数万騎」とはへだたりが大きすぎる。「数万人」だとしても多すぎる。軍忠状のような一級資料は信を置くに耐えると見るのが一般的だが、これではいかに一級資料とはいえども採用できない。付け加えておくと44人というのは足掛け5年にわたるいくさの間に一度でも参加した武士の数であって、5年間ずっと戦っていたわけではない。常に増減はあったと思う。残念ながら日野市の資料だけでは駒城合戦に参加した数はわからない。
仕方がないので北畠親房結城親朝に宛てた御教書やほかの確実な史料から鎌倉勢の総数を検討、推測しかない。関係ありそうな史料を渉猟すると意外に多くの古文書が見つかった。なかには具体的な数字が書かれたものも含まれている。箇条書きに挙げてみよう。

・年が明けて暦応3年の正月22日、結城親朝北畠親房御教書には「駒楯辺凶徒、今春ハ以外微弱、散々式候(駒城周辺の敵は今春は思っていた以上に微弱で散々な有様)」「於今者静謐無程候歟(今の様子では程なく敵は静かになるだろう)」(3-32)
・同4月3日、「凶徒以外衰微、又無加増之勢候也(敵はとても弱っていて援軍もない)」(3-38)
・この駒城での戦いは暦応3年の5月末に駒城が落城することで一応の決着を見るのだが、そのとき駒城側の死者数は30余人だった。「下総国駒城没落、殞命者三十余人」(3-39)関城書裏書
・暦応4年4月5日の結城親朝北畠親房御教書曰く、「高師冬勢はたった6,70騎しかおらず、困り果てている。この機をとらえて出陣すれば倒すことができるだろう。」(「瓜連經廻勢不過六七〇騎云々」「高師冬窮蹙」「此時分奥勢打出候者、尤可然之由案内者等申候」)
・暦応4年12月、親房が籠もっていた小田城の城主小田治久が降伏し、親房自身は関城に逃れ、南朝方の退潮があらわになり始めたころの御教書で、親房は「敵は分散しておりこちらの敵は少数なので、たとえ2、300騎の援軍でもあれば敵敵を追い散らすことができる。」と援軍を求めている(「然者縦雖二三百騎勢打上テ」)(3-55)。
・興国3年(1342)正月、「雖四五百騎勢」「後悔無其益候哉」(3-57)。「4、500騎あればこちらから押し出すときに有利になる。大勢の勢を集めるためにいたずらに月日を送っていては得るものはなく後悔することになるだろう」と結城親朝にまた援軍を要請している。
・興国4年4月の親朝宛真壁幹重書状「御敵躰此ノ間見候ニ、ことの外無勢に▢りて候、」「六七百騎之分にても、御上子細あるましく候」(3-81)。南朝方の退勢いちじるしく降伏間近に迫った頃の手紙。親房からの御教書では結城親朝は動かず、代わって真壁幹重なる人物が救援を呼びかけている。強がりもあるだろうが敵は少数だ、と述べ、6、700騎くらいなら派遣できるのではないか、と懇願している。
・同じく興国4年4月、親朝宛春日顕国書状、「凶徒等躰微々散々事候間」「形勢頗相似元弘一統佳例候」「此時分勢三百騎合力候者」3-82。「(鎌倉幕府を滅ぼした)元弘の例に似ているので、300騎の助けがあれば」、と助けを求めているが、真壁幹重よりも求める数が少ないあたりに悲痛な思いがこもっている。
・親房の籠もる関城の落城半年前の興国4年5月6日、範忠なる人物の書状。「現在之分大手勢四五百騎ニ不可過、方々小楯寄合候とも、可為千騎之内候」。関城は完全に取り囲まれ、身動きが取れなくなっている状況のなかで、「敵(北朝方)は正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」と、必死に救援を求めている。

北畠親房は、鎌倉勢のことを「微弱、散々」、とか、「以ての外衰微」、などとひどい言い方をしている。高師冬が兵集めに苦労していたことと符合する内容である。鎌倉勢が兵力不足をきたしていたのは間違いない。具体的な数字があらわれている駒城落城を伝える関城書裏書によると、落城時の駒城側の死者数はわずか30余人。これは南朝側の犠牲なので鎌倉勢の数とは直接関連はないが、これを手がかりに何とか推測してみる。
一般に軍隊は30%の兵力を失うと崩壊、機能しなくなると言われているので、それを基準に駒城の死者数30余人から籠城していた兵の数を割り出すと、かなり強引だがおよそ100人前後となる。そして城攻めは3倍の兵力を要するといわれているので、100人で守る駒城を落とすには攻める鎌倉勢は300人くらい必要だったことになる。ただこれはあくまで「一般に・・・」とか「・・・と言われている」といったたぐいの、とくにこれといった明確な根拠に基づいた話ではなく、様々な事例から帰納しておおよそこのくらいではないかという経験則にすぎない。よって鎌倉勢は300人(騎?)だったと簡単に結論付けるわけにはいかない。要害堅固な城だとか、兵粮不足で兵の士気が低いとか様々な事情でも城攻めに必要な兵力は大きく左右される。
高師冬の鎌倉勢は兵の集まりが悪かった。武士たちは軍勢催促になかなか応じようとぜず、やむなく所領の没収をちらつかせて脅さなければならないほどだった。親房に「もってのほか微弱散々」などとあきれられる始末だ。ただ親房の見立ては実数に近いだろうが、あくまで結城親朝南朝方に引き入れるために書かれた書状中の方便であり、あえて相手の兵力を低く見積もることで親朝を参加しやすくする意図である可能性も否定できない。
高師冬と北畠親房による常陸合戦は実に5年近くに及んでいる。初戦の駒城での戦いこそ鎌倉勢は兵力確保に苦労したものの、それ以降は徐々に味方が集まりだし、充実していったとみられている。形勢が不利になった親房は結城親朝に再々援軍を求めているがその数も「二三百騎勢打上テ」、「雖四五百騎勢」、「六七百騎之分にても」、「此時分勢三百騎合力候者」と3桁止まりである。万には程遠い。もちろんここから鎌倉勢の数を割り出すことはできないが、そのくらいの援軍で足りるのなら鎌倉勢の数もたかが知れているだろう。
鎌倉勢の具体的な数に言及しているのは親房の御教書の「6、70騎」と、範忠の「城の正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」の二つ。
まずは「6、70騎」のほうだが、この数字は私個人的には衝撃的だった。この時代を代表する太平記などの軍記物に惜しげもなく出てくる数万、数十万という数字が誇張であることは薄々感づいていたが、そういうものに慣れてしまっていたので、「6、70騎」とは落差が大きすぎて、本当なのかとわが目をうたがった。実際にその場にいた北畠親房の御教書の記述であることからかなり実数に近いのではないかと思われるが、それにしてもずいぶん頼りない兵力である。これでも駒城合戦から一年ほど経って兵力を拡充しつつある頃の話だ。鎌倉勢は駒城合戦後、まっすぐに親房のいる小田城を目指すのではなくて、いったん常陸北部の瓜連城に入城して戦力を充実させるべく準備をし、その後、親房のいる小田城へと進軍を始めている。そのころの数である。それが「6、70騎」とは驚かざるを得ない。そんな鎌倉勢を親房は、「師冬は困り果てている」(「高師冬窮蹙」)と半ばあざけるように伝えているが、かく言う親房も事情は大して変わらないようで、その「6、70騎」を倒すために援軍を要求している。
鎌倉勢の具体的な数に言及しているもうひとつ、範忠の「城の正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」も見てみよう。このころ親房はそれまで籠っていた小田城を退去して関城にいる。小田城が落城してしまったからだ。関城は三方を沼に囲まれている、小さいがなかなか堅固な城だ。ここが常陸合戦最後の決戦の場になるのだが、親房の南朝勢は形勢がかなり悪く落城寸前であった。一方の鎌倉勢は関東や奥州をほぼ手中に収めることに成功して戦力的にも充実しているころである。「千騎」という数字は、終戦間際でそれまで日和見だった武士たちが、勝ち馬に乗ろうと付和雷同して参加したために膨らんだ結果とも考えられるが、それでも総勢千騎に満たない。
初戦の駒城合戦のときは当然もっと少なかったはずだ。千騎は多すぎで、せいぜい数百だろう。しかし「6、70騎」で城を落とせただろうか。いささか心もとないように思える。100人で守る城を攻めるのに必要な人数を300人と仮定する。少なくとも300は必要だろう。この場合の300は「騎」なのか「人」が問題になるが、城攻めの場合は騎乗の武士も下馬して戦うのが普通と思われるので「人」としておきたい。そして馬上の武士(騎)はそれぞれ数人ずつ従者を従えて参戦していると考えられるので、300人の兵力を得るのに300騎も必要とせず、100騎くらいが適当、充分といえる。ただ山内経之の場合、すくなくとも従者を10人は連れてきていると考えられるので、それを基準にすれば30騎もあれば城攻めに必要な300人は確保できることになる。しかし直感だがさすがこれは少なすぎると感じる。駒城は孤立無援の城ではなく、5キロほど背後に関城、大宝城がひかえ、さらには遠く小田城からも支援を期待できた。実際に援軍はあちこちに出没して鎌倉勢を悩ませている。援軍の数は不明だがそれらを跳ね返しつつ、城を落とすとなれば30騎の倍の60騎、総勢600人くらいは必要ではないか。・・・うむ、これだと6、70騎がにわかに真実味を帯びてくる。あやふやな前提の上に根拠の乏しい推測を重ねているのであまり真に受けないでほしいが、何も手掛かりがないよりはましなので検討してみた。どうだろうか。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その16

第3部 常陸合戦

北畠親房から見た常陸合戦】

〈合戦が始まる前の常陸情勢〉
ここからはいよいよ山内経之が戦った駒城合戦を中心に常陸合戦を扱っていきたい。常陸合戦は通常北畠親房常陸に漂着し、それを追って高師冬が京から下ってきた暦応3年(1339)から始まるとされているが、常陸やその周辺の北関東ではそれ以前からその地域の領主たちによる争いが頻発していたのであり、それが本来武士とは関係のない南朝北朝の争いに取り込まれる形で拡大・激化していったのが常陸合戦である。
鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱(1333)後の常陸情勢について振り返ってみたい。北畠親房常陸国に漂着するより前、常陸国と、衣河(鬼怒川)を挟んだ対岸の下総国の関係は決して平穏ではなく、小競り合いが絶えなかった。争いは主に常陸国関郡の支配をめぐり関宗祐と、下総国結城郡の結城朝祐・直朝父子(下総結城)の対立として現れてくる。
鎌倉の武家政権に替わり、建武の新政を開始した後醍醐天皇は結城家の惣領であった結城朝祐を冷遇し、かわりに分家に過ぎなかった結城 宗広・親光(白河結城)を重用したが、そのことが結城朝祐を後醍醐、ひいては南朝側から離反させる契機となった。特に結城宗広の次男親光は後醍醐に寵愛され、三木一草のひとりとしてその栄達が世にうらやまれるほどであった。一方、冷遇された結城朝祐は親光への対抗上、足利尊氏北朝側にすり寄っていくことになる。
建武2年(1335)の12月、北朝方として参戦した結城朝祐は足柄山合戦の功により尊氏から常陸関郡を与えられたが、これが結城朝祐と関宗祐が争う直接のきっかけとなったと考えられる。常陸関郡の領主関宗祐はそれまで南朝北朝のどちらに加勢するのか旗幟不分明であったが、大事な領地が勝手に他人に与えられたとなると穏やかでない。こちらも敵の敵は味方の格言通り、結城朝祐への対抗上南朝の旗を掲げることになる。かくして後醍醐の覚えめでたい白河結城、関宗祐らと、北朝を選んだ下総結城が鬼怒川を挟んでにらみ合う構図が生まれた。
建武3年(1336)12月、足利尊氏後醍醐天皇の講和が破れ、後醍醐が吉野に走り南朝を樹立すると、南北朝の争いはいよいよ本格的な動乱となった。その余波は鬼怒川流域にもおよんだ。
講和が破れる直前の12月10日、奥州国司北畠親房の嫡男北畠顕家の代官が白河結城と共に一説によると数万騎の大軍をもって下総国結城郡になだれ込んだ。数万騎である。これに対し、下総結城の惣領朝祐は一族である山川景重や下野国の小山一族、茂木知政らと共にこれを迎え撃って終日合戦、これを退けると、翌11日には反対に茂木らが絹河の並木渡から関郡に攻め入り、奥州軍を追い返して一帯を焼き払った。ついで13日になると今度は関郡の関宗祐らが数万騎を率いて結城郡へと侵入、激戦となった。・・・と、史料の上では奥州の北畠顕家と関宗祐の連合軍は数万騎の兵力を有し、その数万騎による侵攻を下総結城勢は退け、すぐに反攻したことになっている。ということは下総結城勢もそれなりの勢力を抱えていたと考えてしかるべきだが・・・、本当だろうか。茂木知貞という武士の軍忠状にあらわれるこの数万騎という数字は後に見直すので覚えておいていただきたい。
年が明け、建武4年(1337)2月21日、北朝足利氏の重臣石塔義房が結城郡の上瀬中沼渡より関城へ発向、数万の敵を追い散らし、数百軒の在家焼払った。このときすでに北畠顕家陸奥国霊山に帰還していたため、関宗祐は援軍を期待できぬ中、孤軍ことに当たらなければならず、被害が大きくなった。史料上は数百軒の在家焼払った、とさらりと触れているだけだが、2月という寒気のまだ厳しい時期に家を焼かれ、風雪のしのぐすべを失った人々がどのような苦境に陥ったか、想像するにあまりある。食糧や売り物になりそうな家財什器は根こそぎ略奪されただろう。物取りだけでなく人取りも戦場の常だ。文献には残らなくても、いくさは武士よりも巻き込まれる周囲の住民のほうが被害が大きいという、陰惨で厳然たる現実がそこにあったはずだ。
南朝方はその報復、というわけではないが、3月16日に後醍醐天皇の綸旨をもって結城朝祐の下総国結城郡を白河結城宗広に宛行っている。同じ結城氏同士で争わせようという肚だ。
北畠顕家が霊山に逼塞していた7月、足利方は一大攻勢に出て関宗祐の籠もる関城へ直接攻撃を加えている。このいくさで攻撃側の茂木、野本らも一族・郎党から被害者を出したが、足利方のほうが若干優勢だったようである。

〈顕家の再上洛〉
しかしこうした足利方の攻勢に対し、8月11日、北畠顕家後醍醐天皇の命に従って霊山を発ち、ふたたび上洛を開始すると情勢は一変した。顕家は春日顕国、小田治久らの味方の勢を糾合して反攻を始めると徐々に常陸、武蔵の足利勢を後退させ、佐竹氏、上杉氏、高氏、斯波家長を次々と撃破。12月にはついに鎌倉を占拠するに至った。しかし顕家の奮闘もここまでだった。休む間もなく鎌倉を立ち西上を開始する顕家であったが和泉国堺浦でついに戦死してしまう。建武5年(1338)5月のことである。前年の8月から足掛け10ヶ月にも及ぶ長期の遠征はさすがに消耗が大きかった。二十歳の若武者の最後は本人の資質や戦術云々の問題というよりは長期のいくさで心身ともに燃え尽きたというのがふさわしい。この年、南朝方で武運つたなく力尽きたのは顕家だけではなく、うるう7月には南朝方の有力武将である新田義貞も戦死している。後醍醐天皇が右腕とも懐刀ともたのむふたりの武将を立て続けに失ったことは南朝方にとって大きな打撃となった。顕家は死の直前、後醍醐の政策をいさめる上奏文を奏上していたがその効果があったのか、その後、後醍醐は独断専行を改め、北畠親房や白河結城宗広の意見を入れて態勢の立て直しをはかった。
北畠親房が軍船を仕立てて伊勢から海路東国に下ったのはその年(1338)の9月である。しかし親房の船団は途中で嵐に見舞われ遭難、四散する。行方知れずになる者、伊勢に吹き返される者(結城宗広)、敵地に漂着して殺される者があり、わずかに親房の船のみが常陸までたどり着くことができた。
前途多難を予感させる親房の常陸入りであったが、小田治久を頼ってその小田城を拠点とし、そこから常陸陸奥国出羽国南朝勢に結集を呼びかけた。特に親房が期待したのは白河結城親朝であった。親朝の父の結城宗広は親房とともに船で関東に下ったものの、嵐で伊勢に戻されたあとは同地で死去し、三木一草のひとりで弟の親光も北朝大将足利尊氏の暗殺を企てたが見破られて殺され、すでにこの世にない。南朝の忠臣であったこの両者に代わり、結城家の家督を継いだ親朝に親房が期待したのは自然な成り行きであった。これ以降、親房は親朝に宛てて救援を乞う手紙を多数、矢継ぎ早に書き送ることになるのだが、しかし肝心の親朝は父や弟とは違い、濃密に南朝に入れ込むことはなく、やや距離をおいて冷静に世の転変をみつめていたようである。


 元弘の乱後の常陸情勢
 
1335(建武2年3月10日、資料3ー9顕家下文)
 結城朝祐(下総結城)糠部郡を没収される(尊氏方であったためか)
1335(建武2年12月、資料3ー10、11)
 結城朝佑 足柄山合戦の功により尊氏から常陸関郡を与えられる
1336(建武3年12月、資料3ー20)
 12月10日、奥州国司代、引率数万騎、結城郡に寄せ来る。小山、茂木終日防戦、凶党引き退く
    11日、茂木ら、並木渡より関郡へ、凶類追返し、焼き払う。
    13日、関郡の凶徒、また引率数万騎寄せ来る
年末 那珂氏の瓜連城は佐竹氏に攻められ落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった
1337(建武4年)
  2月21日、石塔義房、結城郡から上瀬中沼渡より関城へ発向数万の敵追い散らし数百軒の在家焼払う(史料3ー21)
1337(延元2年建武4年3月16日)(史料3ー15後醍醐天皇綸旨)
 白河結城宗広、下総国結城郡結城朝佑跡を宛てがわれる
 3月5日 下野国で合戦(史料3-24)
 4月   宇都宮で合戦
 7月4日、春日顕国以下凶徒、下野国小山城打ち囲み、合戦の次第
 7月8日、常州関城合戦、足利方の桃井貞直、茂木知政、野本鶴寿丸、山川景重、結城犬鶴丸(直朝)ら藤枝原木戸口先駆け(茂木知政軍忠状、史料3ー22~25) 
8月11日、顕家、霊山を発ち、西上する(再上洛)。
 12月25日 鎌倉で合戦(茂木知政軍忠状)
*ここでいう史料とは関城町史のこと