山内経之 1339年の戦場からの手紙 蛇足として

〈経之の手紙はなぜ不動明王像の胎内に保存されていたのか〉大正の終わりか昭和のはじめころに山内経之の手紙は高幡不動尊の不動明王像の胎内から、正確には首部から発見された。発見されるまで、いつからかはわからないが長期間そこにあったと思われる。一…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その21

【その後の常陸合戦】 〈駒城の落城〉山内経之がいつ死んだのかは不明である。おそらくは最後の手紙を書いた暦応2年(1339)の12月中か、遅くても翌年のはじめのことだろう。経之が身罷ったことでこの駄文の目的も終わったが、常陸合戦そのものはこれ…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その20

【混迷深まる城攻め、経之の最期】 〈進退窮まる北朝勢〉駒城攻めが停滞するにともない、北朝勢のあいだで疑問や厭戦気分がただよい始めている。高師冬は、経之の主筋と思われる山内首藤時通宛の12月13日付の奉書で、「この合戦の最中に多くの軍勢がいくさを…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その19

【駒城合戦第二幕】 〈第2次駒城攻撃〉矢部定藤の軍忠状によるとこの11月7日の戦闘は前回とは違い、高師冬の北朝勢は積極果敢に攻めている。前回は破れなかった内構の矢倉を突破して戦っている(「越内構矢倉」)。この内構の矢倉とは何を意味するのかよ…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その18

【駒城合戦】 〈第1次駒城攻撃が始まる〉 北畠親房の常陸南朝方と高師冬の北朝方の合戦は、暦応2年(1339)10月23日、師冬率いる北朝鎌倉勢による駒城への攻撃で幕を開けた。矢部定藤という武士の軍忠状によると北朝勢は合戦前日の10月22日、鬼怒…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その17

【駒城】 〈駒城は下総か常陸か〉 下河辺を発った高師冬率いる北朝鎌倉勢は松岡荘加納飯沼の地に城(飯沼館)を築いてそこを大将である師冬の本陣とし、同時に八丁目・垣本・鷲宮・善光寺山にも城を築き常陸国へ侵攻する機会をうかがっていた。 駒城周辺略図…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その16

第3部 常陸合戦 【北畠親房から見た常陸合戦】 〈合戦が始まる前の常陸情勢〉ここからはいよいよ山内経之が戦った駒城合戦を中心に常陸合戦を扱っていきたい。常陸合戦は通常北畠親房が常陸に漂着し、それを追って高師冬が京から下ってきた暦応3年(1339)…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その15

【下河辺へ】 〈高利貸しの「大しんハう」〉鶴岡社務記録によると10月3日、下河辺でまた合戦があった(「十月三日、常州合戦、今日矢合之由聞之間、千返陀羅尼始行、其外種々祈祷始之了、」)。この合戦に経之は参戦していない。前述の33号文書で9月の…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その14

【村岡宿での出来事】 〈鎌倉街道を北に〉8月の終わりに鎌倉を立った高師冬率いる北朝勢がまず向かったのが武蔵国の国府(現在の東京都府中市)である。国府は鎌倉から北進し多摩川を超えたあたりに位置する。鎌倉府の執事であり、武蔵国の守護でもある師冬…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その13

第2部 戦場までの行軍 【山内経之の従者】 〈経之勢は何人いたのか〉さて、暦応2年(1339)の8月のおわり頃、山内経之は高師冬の供をして鎌倉を離れ、最初の目的地である武蔵国国府を目指して鎌倉街道を北上中であるが、その先、常陸国の戦場に到達するま…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その12

【常陸へ向け、鎌倉を出発】 〈北朝勢の内紛〉常陸に漂着して以降の北畠親房は、北関東や奥州で南朝方の勢力の扶植、拡大に力を注ぎ、常陸国から絹川を越えて隣国の下総国下河辺まで軍勢を進めるなど積極的な動きを見せている。それに対し、高師冬率いる北朝…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その11

【出陣までの出来事】その3 〈北畠親房の常陸上陸〉ここで少し山内経之が鎌倉滞在している頃の常陸情勢について概観したい。実は常陸ではもう合戦は始まっている。後醍醐天皇の重臣で、南朝の実質ナンバー2である北畠親房が常陸に上陸したのは、経之の手紙…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その10

【出陣までの出来事】続き 〈新井殿〉 「あらいとの(新井殿)」の住む新井という地は、経之の土渕郷の中の小さな区域である。古地図には新井郷という地名はないので土渕郷の一部だろう。新井殿は経之が借金の保証人を頼むほど特に信頼を寄せている人物とす…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その9

【出陣までの出来事】 〈経之の帰郷〉以上が経之が手紙に書き残した暦応二年(1339)よりも前、数年の間に起きた主な出来事である。しかしそれでもまだ兵革は止まない。高師冬の関東下向で経之は戦乱で困窮した百姓の尻を叩いてまたいくさの準備をしなければな…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その8

【元弘の乱以降の関東の動乱と経之】 〈経之の所領についての検討〉 経之の本領である武蔵国多西郡土渕郷(現東京都日野市あたり)は北は多摩川、南は浅川に挟まれた地域と推定され、川辺堀之内、石田、万願寺など約10ヶ村で構成されていたとみられている。…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その7

〈経之の金策のこと その1〉経之の手紙からもう少し金策絡みの話を拾いだしてみよう。経之の手紙からはいくさを前にして金策に駆けずり回る様子がよくわかる。上記の4号文書では「かしハハら」なる地に人を遣わす、とも告げている(「かしハハらへも人とつ…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その6

【経之、いくさ準備に手間取ること】 〈軍勢催促はあったけど…〉 暦応二年(1339)6月、鎌倉に到着した高師冬は関東各地の武士に軍勢催促状を発した。軍勢催促は山内経之の下にも届けられたであろう。そこで経之はさっそく出陣・・・、というわけにはいかな…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その5

【南北朝という時代】 〈元弘の乱から南北朝分裂までの時代背景〉高師冬が京を発ったのは暦応二年(1339)4月6日のことである。師冬は足利尊氏の重臣高師泰、師直と同じ高一族であり、師直のいとこに当たる。師冬の東下の目的は関東、特に常陸から南朝勢力…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その4

【経之の身辺】 〈ほかにも裁判が・・・〉鎌倉まで訴訟のために来ていた経之、訴訟が済み次第すみやかに帰国し、その後なに事も起きなければ経之の手紙はここで終わっていたはずである。もしそうだったらたいして歴史的価値のないありふれた古文書という扱い…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その3

【経之の家族構成】 〈又けさ〉まえがきのところで山内経之の手紙は家族へあてて書かれた、と述べたが、ここではその経之の家族構成について見てみたい。経之の手紙は欠損部分が多くて差出人や名宛人のわからないものが大半を占める。ただ手紙の内容から判断…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その2

第1部 【山内経之の最初の手紙】 〈山内経之は鎌倉で裁判中〉山内経之の最初の手紙は暦応二年(1339)の3月、鎌倉滞在中に家族へ宛てて書かれたものだ。経之はなぜ鎌倉にいるのか。手紙には「身のそしようの事も」とか、「ほんふきやう(本奉行)」という言…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その1

まえがき 山内経之《やまのうちつねゆき》という人物を知っている人はあまりいないに違いない。知っているとしたら相当の歴史通だ。最近は鎌倉から室町時代を扱った歴史本にその名が登場することがちらほら見られるが、それも軽くさらっと触れられる程度であ…