山内経之 1339年の戦場からの手紙 その1


まえがき

山内経之《やまのうちつねゆき》という人物を知っている人はあまりいないに違いない。知っているとしたら相当の歴史通だ。最近は鎌倉から室町時代を扱った歴史本にその名が登場することがちらほら見られるが、それも軽くさらっと触れられる程度であまり詳しく語られることはないので読者の記憶に残らないのかもしれない。山内経之は今から約700年前の鎌倉末期から南北朝期に、武蔵国土淵郷を根拠地とした武士である。この時代は数多の武士が名誉ある名を後世に残すため、というよりはもっと切実に生存をかけて争っていた。ある者は功成り名を遂げて家名を後世に残し、ある者は記録されることもなくひっそりと世を去っていった、栄枯盛衰の激しい時代である。経之は完全に後者の方だ。歴史上これといって特筆すべき事績を残さなかった。そのためその名が史書に記録されることもなく、寥然としてこの世を去ることになった。本来ならばそのまま忘れ去られ、歴史上存在すらしていないことになっていたはずであった。ところが大正末期か昭和のはじめ、東京都日野市にある高幡不動尊不動明王像の胎内から未知の古文書群が発見されたことで状況が一変した。現在ではこの文書群は高幡不動胎内文書(以下、胎内文書)と呼ばれている。

ただ残念なことにこの古文書はすぐに解読されることはなかった。発見された当時、折悪しくも寺ではおそらくインフルエンザだと思うが悪いかぜが流行り、寺の者がこのかぜを、古文書を取り出したことの祟りではないか、と心配したことが原因だった。心配のあまり、せっかく封印を解かれた文書は再度固く封をしてしまい込まれてしまい、その後長い間日の目を見ることはなかった。・・・たたりを畏れただって?!、坊主のくせに。(僧侶の身でありながらたたりを畏れたあげくに半世紀以上も封印してしまうとはなんとありがたみない坊主たちであろう。)

はじめての解読は昭和の終わり頃になってようやく、たたりをおそれない学者の手によってなされた。調査結果によると胎内文書は全部で約70通の文書と解読不能なほど傷んだ多数の破片であることが判明した。さらに70通の内、50通ほどが山内経之という人物の手によるもので、特筆すべきは戦場から家族に宛てられた手紙が多数含まれていることも明らかになったことであった。管見ながら経之のような一介の武士による、しかもこれだけまとまった、戦場のありのままの様子を伝えた生々しい手紙など他に例がないのではないとおもう。近年歴史書に取り上げられるようになったのはその希少性からだろう。ただ前述の通り、どの歴史書もその時代の一側面としてひととおり触れている程度で、経之に焦点を当てて詳しく検討しているものに出会ったことがない。唯一の例外として「日野市史史料集 高幡不動胎内文書編」があるが、これは前記の解読作業に携わった学者たちによる解読結果発表のための学術書で、一般向けの読み物ではない。そこで、僭越ながらこの解読結果をもとに、今まであまり知られていなかった山内経之という人物について書いてみたい。経之が南北朝という時代にが何を見、何を考え、戦場ではどのように過ごしていたのかなどを、時代背景とともになるべくわかりやすく書きすすめてみたい。・・・とはいえ私は歴史家でもなんでもなく、単に地元史だから興味を持ったに過ぎないので過度な期待はご勘弁を。

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日野市高幡不動にある山内経之の記念碑 この石塔は当時作られたものだが、実際は経之とは関係がない

そもそも私が最初に経之に興味を持ったのはもう20年以上前、小説にする題材を探していたときだった。作家志望で経之の話を原稿用紙400枚位にまとめて2,3度出版社に送ったことがある。全く相手にされなかった。文才の無さを痛感させられた。小説は諦めたがどこか未練を断ち切れなかった。小説は無理でも経之のことをわかりやすくまとめることならできそうだ。個人のブログなら何を書こうが誰にも咎められるいわれはあるまい、と思いここに書くことにした。最後までお付き合いしてもらえれば幸甚である。これを読んだ人のなかにもしかしたら経之のことを小説に書きたい、と思う人がいるかもしれない。そういう人の参考になるように意識して書いているつもりでもある。ただ繰り返しになるがわたしは歴史好きではあっても素人にすぎないので内容の不正確さは覆い難い。丁寧に書くつもりではいるがもし間違いがあればご指摘ねがいたい。

詳細に立ち入る前に山内経之の手紙の内容を軽く概観しておく。
経之は戦場から手紙を書いたと冒頭で触れたが、経之が参加したそのいくさは鎌倉滅亡後の南北朝期、暦応二年(1339)から始まった常陸合戦と呼ばれる合戦である。以前はこのいくさでの主な戦場が常陸国関城であったために関城合戦と呼ばれていたが、現在では当時の人たちが「常陸下り」などと称していたことに従って常陸合戦と呼ばれている。このいくさは足掛け5年にも及ぶ長い戦いであった。ただ本文の主人公である経之はその緒戦である駒城合戦にしか従軍していない。駒城合戦が経之の常陸合戦のすべてであり、手紙はここでの戦いのことが綴られている。
一般に鎌倉幕府崩壊後、後醍醐天皇を中心とした南朝足利尊氏を棟梁にいだく北朝が覇権を争い、最終的に尊氏の室町幕府成立に落ち着くことで争いが決着を見るまでの争乱の時代を南北朝期と呼ぶ。この間日本中で絶え間なくいくさは続き、それは本文の主人公である経之のいる関東でも変わらなかった。経之は北朝大将高師冬率いる鎌倉勢の一員としていくさに駆り出されるが、手紙を読む限り、いきなり戦場に飛び込んでいったわけではないようだ。師冬の軍勢催促後、それに応じた経之がまず最初に始めたことはいくさ用途(費用)や兵糧の調達であった。ところがこの最初の段階で経之はつまずいてしまう。いくさつづきで疲弊した農村から用途や兵糧を搾り取ろうとする経之に百姓たちは反発したのだ。脅したりなだめすかしたりしながらいくさ費用を得ようとするがそれだけでは足りず、経之は知人に借りたり、高利貸しにまで泣きつくようになる。苦しい懐事情はほかの武士も似たり寄ったりで、参陣しようにもままならず、そのために師冬の鎌倉勢は兵力不足に陥っていくさそのものがなかなか始まらない。
いざいくさが始まってからも兵力不足がたたって戦況は膠着し、戦場から勝手に離脱する者も現れるようになる。戦費や物資不足にさいなまれる経之は再々にわたって家族に食料や衣類のほか、戦場で必要な物資を無心している。手紙の中でも特に注目すべきは、苦しいいくさの最中であるにもかかわらず、経之は自分のことよりも家に残してきた家族のことをしきりに気遣っていることだ。それが戦闘開始直後こそ家族を不安がらせまいと「こちらのことは心配しないでください」などと書き送っているが、戦況の悪化とともに徐々に余裕をなくし、弱音を吐くようになってゆく。味方が多数討たれ、自身の従者も討死して行く末を悲観した経之は「もう生きて帰ることはないでしょう」と書いた後、消息を絶ってしまう。戦死したと思われる。
経之の手紙は一人の、歴史上顧みられることのないどころか、存在すら知られていなかった武士の最後の数か月間の貴重な記録である。書いた本人は最後であることを意識していたわけではないし、後世に残すことも意図してなかっただろう。偶然、不動明王像の胎内に保存されていたために今日まで伝えられることになった。その偶然に感謝したい。同時に経之のように報われることなくはかなくなった人々はほかにも多くいたに違いないという当たり前の事実を胸に刻みつつ、華々しい虚飾で覆われた武士像ではなく、一人の、等身大の山内経之という人物について綴っていきたい。

経之の手紙は分類すると大きく3つの段階に分けられる。1つ目は軍勢催促の命が下り、出陣するまでの準備期間、2つ目は戦場までの行軍、3つ目がようやく戦場での話になる。ではさっそく第1段階の出陣までの様子を見ていきたい。