山内経之 1339年の戦場からの手紙 その2


第1部

【山内経之の最初の手紙】

〈山内経之は鎌倉で裁判中〉
山内経之の最初の手紙は暦応二年(1339)の3月、鎌倉滞在中に家族へ宛てて書かれたものだ。経之はなぜ鎌倉にいるのか。手紙には「身のそしようの事も」とか、「ほんふきやう(本奉行)」という言葉が見える。どうやら経之は訴訟のために鎌倉に滞在していたらしい。訴訟の具体的な内容は不明である。いくさとは関係ないがとても面白いので触れておきたい。

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鎌倉 鶴岡八幡宮


 「ほんふきやうきやうとへ御つかいニのほられ候しのち、ふきゃうかハりて候か、身にハひころミた人ニて候ほとニ、さたもやかてゝひろすへきよし申候へとも、いまたさけをたにも一とかハす候ほとに、なに事も申しゑて候、このてニハ事さら人もあまた候ほとニ、いかにしてもさけをかひたく存候か、それもかなハす候ほとニ」(本奉行は用があって京都に上られた。新しく変わった奉行はよく知っている人で、すぐにでも判決を出すから、と言ってくれたが、お礼の酒をまだ一斗も買っていない。この人の配下にはたくさん人がいるのでなんとしても酒を買わなければならないが未だにそれも叶わないでいる。)
どういうことだろうか、いきなり唖然とさせられる内容である。奉行(裁判官)が交代するがその新しい奉行は知人である、という時点で現代の常識からすれば不当な判決がなされるおそれがあり、当該裁判官は裁判官として不適格である。それだけでも公平は裁判とは言えないのに、お礼の酒を買っていない?!・・・これはどう考えても賄賂である。経之は事もあろうに裁判官の買収のために賄賂を贈ろうとしていることを悪びれずに手紙に書き残しているのだ。知人である奉行も奉行で、裁判で手心を加える気配が濃厚である。こちらも罪の意識などなさそうだ。驚かされるがこの当時の人にとってはこれが常識だったのだろうか。・・・まあ罪の意識がないのは今の政治家も変わりはないが。
訴訟の結果はそれらしいことが別の手紙で判明するので後述するが、そもそもどのような内容の訴訟だったのだろうか。少し長くなるが時代背景も絡めて考えてみたい。

南北朝期の武士は生活苦〉
この時代を象徴する言葉のひとつとして「一所懸命」があげられる。武士にとって最大の関心事は一も二もなく所領を守ることであった。財産的基盤である所領を失えば武士としての本分である戦い以前に、その日の米塩にも事欠くようになり、生死にもかかわる重要な問題であった。
経之の手紙から遡ること六年、元弘三年(1333)に上野国御家人新田義貞が鎌倉を攻めて得宗北条高時を自害に追い込み、鎌倉幕府を瓦解させた。元弘の乱である。武家の政権である鎌倉幕府の滅亡と同時に後醍醐天皇を中心とする建武の新政が始まった。新田義貞挙兵の背後には後醍醐天皇がいたのだが、ここでひとつ疑問なのは、なぜ新田義貞をはじめ、足利尊氏楠木正成などの武士たちが天皇側に付き、武士の政権である鎌倉幕府を崩壊に追い込んだのか、という点である。
 この一文の趣旨から逸脱しかねないため詳しくは述べないが、土地所有をめぐる武士どおしの相克が、鎌倉幕府から武士の離反を招いた一因といわれている。
 というのも鎌倉時代、武士の土地相続は父から子への分割相続が基本であった。子供が複数いれば子供全員に土地を平等に分けるのである。ふたり子供がいればそれぞれが二分の一ずつを、三人いれば三分の一ずつを、という具合に分割して相続する。一見公平で妥当な措置だと思えるが、これだと相続した子供は父の代よりも小さくなった所領を頼りに生きていかなければならなくなる。所領は親から子へ、子から孫へと世代を経て受け継がれるごとに小さくなり、当然ながら生活は苦しくなる。当然の成り行きとして、少しでもほかの子より多く相続しようといがみ合うようになり、一族間での所領の帰属争いが頻発する原因となった。このような問題が生じたときに、幕府に期待される役割は調停や所領安堵(保障)であり、当事者同士で解決できない争いは鎌倉に持ち込まれて審議されることになる。しかし解決しようにもそもそも所領が小さいことが根本的な原因であり、増やすことなど不可能である以上、双方が納得する円満解決は望むべくもなかった。どちらかが満足すれば他方には不満が残った。結果として日々の米塩の資にも事欠く武士が増えていった。折しも貨幣経済が浸透し始める時代、借上(かしあげ)と呼ばれた高利貸しが現れはじめる。生活に困った武士は僅かに残った所領を借上に売って(所領を担保に金を借りて)糊口をしのぐことになるがそれがかえって所領を縮小を招き、さらに疲弊していく。そのうち借金がかさみ、掛け替えのない所領を寸土も余さず手放す者も現れるようになる。そのような武士は無足の御家人と呼ばれる。具体例をあげると、蒙古襲来の際に活躍した(と本人は言い張った)竹崎季長もそのひとりである。竹崎のように要領よく権力者の懐にもぐりこんで所領を授かることができれば良いが、行き場を失った武士の中には悪党と呼ばれる無法者になる者もあり、悪党の跳梁は治安は悪化を招き、社会を不安定化させた。武士の所領を安堵し、武士たちから信頼されることこそが鎌倉幕府の存立のよりどころ、存在価値であったが、武士の期待に答えられなくなった鎌倉の体制は御恩と奉公の関係が崩れ、徐々に土地を巡る争いは鎌倉の手から離れ、自力救済による武力衝突が日本各地で頻発するようになった。
 武士たちの不満は自然の成り行きとして幕府、とりわけ富と権力を独占する得宗北条家一族への憤りとなり、そこに後醍醐天皇がうまく便乗して源頼朝以来の武士の政権は終焉を迎えることになったのである。
 以上のような社会情勢を踏まえれば経之が、この一文の主人公である山内経之が鎌倉に滞在していた理由の「そしよう」も所領争いであろう。この時代の武士の争いといったらこれ以外に考えにくい。

〈経之の訴訟相手は?〉
 だが肝心の訴訟の相手は誰だかわからない。やはり同族である山内一族の人間なのだろうか。いや、金を返せ、返さないでもめている借上かもしれない。
元弘の乱鎌倉幕府が消滅して以来、得宗家に近い御内人御家人衆は死んだか、死なずとも土地を追われ、代わりに後醍醐側の武士が新しく入植した。しかしここでもすんなりと土地の譲渡が進んだわけではない。追われる者と新参者の間で争いは続いた。それぞれが正当な所有権者であると主張した。その根拠として綸旨を偽造することもあったという。綸旨とは天皇が発行する命令文書である。建武の新政において後醍醐は意欲的に自身に権力を集中させて親政政治をおこなったが、それゆえ必然的に天皇の発する綸旨の効力、権威が高まった。綸旨の効力の及ぶ範囲が公家の世界にとどまらず、本来幕府の所管事項であった武士の所領問題や守護地頭職の補任も含まれるようになっていった。しかし一人ですべての事柄を処理しようとしてもおのずから限界はあり、拙速に陥り、誤判、手違いが続出した。そういった混乱に乗ずる抜け目のない連中が後を絶たなかった。二条河原の落書に見るように「このごろ都にはやる物」といえば夜討ち、強盗、偽綸旨であった。追い詰められた武士どもは戦後の混乱のどさくさにまぎれて偽綸旨を掲げて所領の所有権を主張したり、場合によっては力ずくで奪い、あるいは守ることも辞さなかった。
 ということは経之の訴訟の相手はもしかしたら親族ではなく、借上でもなく、偽綸旨を持った所領の前所有者でなのだろうか。
経之の本領である武蔵国多西郡土渕郷である。この地の元々の所有者は土渕矢三入道跡とされ(跡は子孫の意味)、その一族は代々武蔵国府の在庁官人であった。土渕郷は武蔵国府に近く、土渕家の人々は武蔵守護であった得宗北条家の被官(御内人)であったと考えられる。得宗北条家の被官であれば残念ながら先の元弘の乱鎌倉幕府の滅亡とともに没落していったであろう。この土渕氏が経之の訴訟相手とも考えられなくもないが、あまり現実的ではない。生きてないだろう。であれば訴訟相手はやはり親族か借上なのか。この検討はあとに譲る。