山内経之 1339年の戦場からの手紙 その3

【経之の家族構成】

〈又けさ〉
まえがきのところで山内経之の手紙は家族へあてて書かれた、と述べたが、ここではその経之の家族構成について見てみたい。
経之の手紙は欠損部分が多くて差出人や名宛人のわからないものが大半を占める。ただ手紙の内容から判断すると経之から家族に、それも息子の「又けさ」に宛てたものが大きなウェイトを占めていることがわかる。そこでまずはこの「又けさ」についてみてみたい。
「又けさ」は漢字に直すと「又袈裟」だろう。袈裟はいうまでもなく僧侶が左肩からかけて着る法衣のことだ。今でこそあまりそういった例は見られないが、かつては子供の名前に宗教に関連した名前を付けるのはわりと一般的であった。又けさがまだ幼名を名乗っていることから推測するとまだ元服前だったのだろう。ただ一方で経之は又けさに、家長である父に代わってあれこれと留守宅の用事をこなすよう申し付けていること、また家事をうまく取り図ることができない又けさに「もう子供ではないのだから」と諭している様子から察すると13,4くらいのもう元服に近い年ごろだったのではないかと思う。経之は多くの仕事を又けさに任せているが、父が留守中というこの機会をとらえて成長、自立してほしいという親としての情愛が感じられる。
次に、又けさと比べると数こそ少ないものの、妻に対する手紙もいくつか確認できる。残念なことにこの妻の名前は判然としない。「はゝこ(母御)」や「ねうほう(女房)」の表記があるのみである。妻宛てと思われる手紙はどれも名宛人の部分が欠損していて判読できず、又けさや知人宛ての手紙の中で「はゝこ(母御)」、「ねうほう(女房)」と表記されている例はあっても具体名までは書かれていない。この妻も胎内文書では重要な存在であり、名前が不明なのは残念だ。
経之の家族として名前が伝わっているのはこの妻子のみであるが、ほかにも子供はいたかもしれない。

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「日野市史 史料集 高幡不動胎内文書編」 山内経之に関する唯一の史料

〈山内六郎〉
胎内文書ではもうひとり、家族ではないが親類と考えられる山内六郎治清なる人物の存在も確認できる。六郎は前章の〈山内経之は鎌倉で裁判中〉で検討した、経之と訴訟になっている親族である可能性も捨てきれない。それはどういうことか。
経之が鎌倉で訴訟中の暦応二年(1339)と同時期と思われる4月3日付け「しやうしん」宛ての、山内六郎治清の署名入りの手紙(51号文書)がある。これによると六郎は「これにての又けさ殿ゝ作法(ふるまい、態度)」に納得してないようで、「なにとあるへしともおほへす候」(考えられない、信じられない)と憤慨している。六郎の居所である「これにて」がどこなのかは不明だが、その地においての又けさのふるまいを六郎は問題視しているのだ。ただ具体的に何があったのかはわからないが、六郎はそれまで疎遠であった「しやうしん」なる人物にまで、又けさに対する不満を打ち明けているのはよほどの事情であったのだろう。以下は想像でしかないのだが、つまりこういうことではなかったか。
経之と六郎は兄弟で、六郎は山内家の旗印の下、惣領である兄の経之とともに戦場を戦い抜き手柄を立てた。戦場としては鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱が考えられる。その褒美として山内家はいくつか所領を下されたが、これは惣領である経之に下されたものであり、六郎個人が所領を得たわけではなかった。その後、六郎は経之からその所領の一部管理を任されたが、経之の跡取りである又けさが長ずるにつれ、所領からの立ち退き、返還を求められるようになった。惣領制においては所領の管理は惣領の判断にゆだねられており、庶子に過ぎない六郎にはどうすることもできなかった。
鎌倉幕府の衰退の理由のひとつとして所領の細分化による武士の一族間の相克があげられるが、惣領の下で被官化した庶子の不満は軍事的な衝突や訴訟として現れる。経之と六郎の関係も同様のものだったのではないだろうか。又けさが幼いうちは所領を任せることはできないので代わりに六郎に預けていたが、又けさが元服して一人前になれば、経之としては又けさのために所領を返してもらおうとするだろう。しかし六郎だって生活がある。もしかしたら六郎にも子もいたかもしれない。返せと言われて素直に返せるものではない。又けさが問題となっている所領で主のようにふるまったことが六郎の癇に触れ、訴訟へと発展した可能性がある。前章で経之の訴訟相手について検討したが、以上のように考えれば、六郎もその候補にふさわしいといえる。