山内経之 1339年の戦場からの手紙 その5

南北朝という時代】

元弘の乱から南北朝分裂までの時代背景〉
高師冬が京を発ったのは暦応二年(1339)4月6日のことである。師冬は足利尊氏重臣高師泰、師直と同じ高一族であり、師直のいとこに当たる。師冬の東下の目的は関東、特に常陸から南朝勢力を一掃することにあった。この辺の事情を理解するために、鎌倉滅亡から室町時代に至るまでの、南北朝の内乱といわれる時代の歴史的背景から説き起こしてみよう。
元弘の乱による鎌倉幕府の滅亡と、それに次ぐ後醍醐天皇による建武の新政の誕生、崩壊は、60年ほど続く南北朝期の幕開けでもあった。
 元弘三年(1333)5月、鎌倉幕府の北条政権に反旗を翻した新田義貞上野国生品明神においてわずか150騎で挙兵、一路鎌倉街道を南下して武士の都である鎌倉を目指した。軍勢は路次、義貞同様に得宗北条家の専横、独占に反感を抱く御家人たちを吸収して雪だるま式に膨れ上がり、太平記によればその数20万騎を超えたというが実際は数百から数千騎だろう。それでも大軍であることに変わりはない。北条高時の弟泰家率いる鎌倉勢は、多摩川分倍河原・関戸宿で一度は義貞の進軍を食い止めたものの、反乱軍の勢いに抗しがたく、泰家は分倍・関戸から敗走した。義貞の大勝を聞いた東八ヶ国の武士たちはわれ先に、と義貞の下に集まり、雲霞のごとく膨れ上がった義貞勢は80万騎に達したという(太平記によれば)。要所である分倍・関戸の防衛線を突破されて以降、幕府の抵抗はむなしくなった。鎌倉東勝寺北条高時ら一族870人余が腹を切り、150年続いた鎌倉の政権があっけなく滅び去ったのは義貞の挙兵からわずか2週間後、元弘3年5月22日のことであった。

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関東地図ー「東国の南北朝動乱」より



 それを機に誕生した後醍醐天皇による建武の新政ではあったが、この政権は当初から抱えていた根本的な問題を解消することができず短期間で霧消してしまった。後醍醐が望んでいたのは自身がすべてを差配する独善的、独裁的な政治体制であったが、もとより後醍醐の天皇親政の夢と、後醍醐のもとで戦った足利尊氏を中心とする武士たちが直面する現実との間には大きな懸絶があった。両者が目指していた世界は決して相容れることのない同床異夢に過ぎなかった。いうまでもなく武士たちののぞみは貴族中心の世などではなく、ただ自分の所領を守ることその一心である。後醍醐天皇は綸旨を乱発し、不満を抱える武士たちを誘い、籠絡することで、武士を利用して武士の政権を倒すという離れ業をやってのけたが、両者の間の溝はけっきょく埋まることはなく僅か2年で修復しようのない亀裂が生じることとなる。
 元弘の乱から2年後の建武二年(1335)、鎌倉幕府の残党による鎌倉奪還を目指した中先代の乱が勃発する。この乱を鎮めた足利尊氏後醍醐天皇の帰京命令を無視する形で鎌倉に留まった。尊氏の狙いは後醍醐が望むような政治体制の手助けではなく、やはり自分を支えている武士たちの、武士のための武家政権の樹立にあった。尊氏はその翌年、後醍醐への対抗上、鎌倉末期から後醍醐の大覚寺統と対立関係にある持明院統光明天皇を擁立して京に幕府を開く。北朝の成立である。対し、後醍醐は吉野に遷幸して南朝を樹立した。南北朝の分裂はここに決定的となった。南朝北朝の争いは本来、天皇の座をめぐる持明院統大覚寺統の宮廷内部における皇位継承問題に過ぎなかったが、尊氏が朝敵のそしりを免れるために光明天皇を擁立したために日本中の武士を巻き込んでの内乱となってしまった。
 この南北朝の争いは当初こそ北畠顕家率いる奥州の南朝勢が奮闘し、尊氏から鎌倉を奪い、逃げる尊氏を追撃して西へと追いやるなど、南朝方に有利に進むように見えた。負け続けた尊氏は九州まで逃げている。しかし南朝の有力武将である楠木正成新田義貞、さらには北畠顕家までもが相次いで討ち死にすると、形勢はしだいに北朝方に傾いていく。
 後醍醐天皇は大勢の挽回を図るべく、随一の重臣である北畠親房を東国に派遣することにした。それが暦応元年(1338)9月、山内経之の一連の手紙が書かれた前年のことである。
 親房は南朝奥州将軍北畠顕家の父である。数ヶ月前に愛息を若くして失ったばかりの親房は、後醍醐天皇の皇子である義良親王宗良親王を奉じて伊勢国大湊より海路東国へ向かった。顕家の跡を継いで東国、特に陸奥国南朝勢の扶植、再結集を図るためである。ところが遠州灘を航海中に一行を乗せた船団は嵐に見舞われ遭難、義良を乗せた船は吉野に戻り、宗良は遠江国に漂着して失う中、親房はかろうじて常陸国東条浦にたどり着いた。親房はもともとは奥州に向かう予定だったのだがそれはあきらめ、以降常陸に腰を据えて、東国における南朝方の主役となった。
 親房は常陸国を中心に勢力を拡大し利根川以東における支配権を強めてゆき、徐々に下総国武蔵国にも手を伸ばしはじめた。そうした東国南朝勢の動きに危機感を覚えた北朝方は坐視できなくなった。
 翌暦応2年(1339)4月6日、北朝方の足利尊氏は東国静謐の総大将として高師冬を派遣した。師冬は鎌倉府執事、武蔵国守護も兼ねている。同年6月に鎌倉に到着した師冬は自身の管轄である武蔵の他、相模、上総などの武士を糾合しつつ、親房のいる常陸国を目指すことになる。以後4年半にも及ぶ常陸合戦の始まりであった。

この記事の主人公山内経之も常陸合戦に否応なしに巻き込まれてゆく。一介の在地領主に過ぎない経之には南北朝の争い(主に尊氏と後醍醐の主導権争い)に利害関係や強い関心があったとは思えない。自身の所領経営で頭がいっぱいだっただろう。しかし経之がなんと思おうと時代は戦乱の世であり、永世中立を宣言して泰然自若と孤塁を守っているわけにはいかなかった。敵か、味方か、息苦しい圧力は経之の身にもせまってきた。