山内経之 1339年の戦場からの手紙 その8

元弘の乱以降の関東の動乱と経之】

〈経之の所領についての検討〉 
経之の本領である武蔵国多西郡土渕郷(現東京都日野市あたり)は北は多摩川、南は浅川に挟まれた地域と推定され、川辺堀之内、石田、万願寺など約10ヶ村で構成されていたとみられている。その中には経之の従者として名前の出てくる大久保の弥三郎と関連がありそうな大久保や、経之が親しくしている新井殿の新井という地名も確認できる。経之の屋敷があったのは日野本郷あたりだろう。
経之はいくさ用途(費用)の捻出に苦労しているが、そもそも経之の本領である土渕郷からはどのくらいの年貢を期待できたのだろうか。史料上、全く明らかにできないので、ほかの資料から大雑把に推測することしかできない。
日野市の資料によると、土渕郷の近隣にある荘園では一つの村あたりだいたい1から5貫の年貢が取れたようだ。それを参考にすると10ヶ村ほどの土渕郷では10貫から50貫、平均して年間30貫の年貢が期待できそうだ。30貫と一口でいわれてもどのくらいの価値になるのか、どうもピンとこない。そこで現代の貨幣価値に直しみる。
ちょっと幅があるが1文を50円から100円と仮定すると、1貫(1000文)の価値は5万円から10万円。30貫だと150万~300万円ということになる。本領からの収入がこの程度とは今の時代の感覚からするとずいぶん少ないように思う。ただ経之はほかにも2か所、「ぬまと」(陸奥国牝鹿郡沼津、現宮城県石巻市)と、「かしハバら」(武蔵国高麗郡柏原、現埼玉県狭山市柏原)にも所領をもってたことがわかっている。手紙から判明しているのはその3つだけなのでもしかしたらそれ以外にも持っていた可能性もすてきれないが、それはともかく所領を複数持っているのなら経之は零細在地領主というほど貧しくなさそうだ。では所領から上がる年貢でいったいどのくらいの生活が営めたのかが気になるところだが、正直いって時代が違いすぎるし、自分の乏しい知識ではよくわからない。ただ経之の生きた鎌倉、南北朝期ではとくに驚くほど少ないというわけではなく、割と一般的な額だったのだろう。贅沢せずに平穏な生活を送るのであれば不足はなかった思われる。平穏であれば。しかし元弘の乱以降絶え間なく戦乱が続く時代にあれば、経之をはじめ武士たちが予期しない出費に悩まされたことは想像に難くない。

〈経之のルーツ〉
経之の山内一族についても簡単に説明しておきたい。
経之の一族(と、考えられる)山内首藤氏はもともと鎌倉の一角、山内(現在の北鎌倉あたり)を出自としている。山内家の家系図をみると「経行」なる人物の名前はあるが、「経之」はなく、「経行」は別人かもしれない。ただ「経行」の祖父「経通」は1265年に京都で逝去という記録が残っているので、時期は大きく隔たっていない。
山内首藤氏は平安の頃から名の知られた一族で鎌倉時代には源家からの信頼も厚かったようだ。山内首藤氏の一族は備後や土佐(土佐山内の祖)など日本各地に所領を所有しており、奥州(陸奥国桃生郡)にもその一つがあった。桃生郡は、経之の所領のひとつである「ぬまと(陸奥国牡鹿郡沼津、現宮城県石巻市)」と堺を接していることから、経之自身は元々奥州をルーツとしていて鎌倉末期頃には「ぬまと」を本領としていたのではないか。ところが元弘の乱により鎌倉幕府が滅びた。この出来事が、「ぬまと」の経之が武州土渕郷に本拠を移したのはことと関係しているかもしれない。わたしの勝手な推測に過ぎないが、このときのいくさで経之は討幕勢として参加して軍功をあげ、その褒賞として新たに武蔵国の土渕郷と「かしハバら」を宛てがわれた。そして新しく獲得した土渕郷を本拠とするために「ぬまと」から移り住んだ。こう考えることが許されれば、新しく入部した土地で百姓が経之に馴染まない理由を、外からやってきたまだ日の浅い領主に対する警戒感、で説明できそうだ。だが理由はそれだけではあるまい。

北畠顕家の上洛による土渕郷の被害〉
わたしの駄文の元となった胎内文書、つまり経之の手紙は暦応二年(1339)に書かれている。元弘の乱は元弘三年(1333)のことであり、それからもう6年も経っている。日の浅い領主といってもそれだけの期間があればいかに人付き合いが苦手でも、もう少し良好な関係が築けても良さそうなものだ。しかしそうはなっていない。経之の人間性に問題があったのだろうか、それともほかに原因があったのだろうか。ヒントはこの間も日本中で戦塵がおさまることはなかった世相にありそうだ。やむことのない戦乱は経之の所領経営にいい影響を与えなかっただろう。元弘の乱以降の出来事をざっと挙げてみると・・・

1333(元弘3年)
 5月  鎌倉幕府滅亡(元弘の乱) 後醍醐天皇を中心とする建武政権の誕生
 8月  足利尊氏が武蔵守、北畠顕家陸奥守に任じられる
1334(建武元年)
 10月 護良親王後醍醐天皇の命により捕縛
1335年(建武2年)
 7月  中先代の乱、鎌倉陥落 護良親王殺害される
 8月4日 嵐により高幡不動尊金剛寺倒壊、不動尊毀損
 8月  尊氏東下し鎌倉を奪還
 10月 尊氏、後醍醐の上洛命令を拒否
 11月 新田義貞、打倒尊氏のため下向
 12月 尊氏、義貞を破り西上
     北畠顕家、奥羽より尊氏を追って西上、斯波家長足利義詮を蹴散らし、一時鎌倉を奪取する
1336年(建武3年、延元元年)
 1月  尊氏、入洛 奥羽勢がすぐに奪還
 2月  尊氏、九州に敗走
 3月  顕家奥羽へ帰還、斯波家長、邪魔する
 4月  尊氏、九州で退勢を覆し東上
 5月  湊川の合戦で楠木正成敗死
 8月  尊氏、光明天皇を擁立(北朝の成立)
 10月 新田義貞、恒良、尊良親王と越前へ
 11月 尊氏、室町幕府を開く
 12月21日 後醍醐、吉野に逃れる(南朝の成立)。南北朝の動乱の開始
1337年(建武4年、延元2年)
 1月  顕家、陸奥国府から霊山に移る
 8月11日 北畠顕家、霊山から再上洛
 12月 斯波家長戦死、鎌倉攻略される
1338年(暦応元年、延元3年)
 5月 顕家、和泉国堺浦で敗死
 閏7月2日 新田義貞戦死
 8月 尊氏、征夷大将軍に任じられる
 9月 親房、顕信、義良・宗良親王とともに海路陸奥に向かうも遭難 親房、常陸に漂着 後醍醐天皇懐良親王を九州に派遣

鎌倉幕府崩壊後、誕生したばかりの建武政権足利尊氏の離反により僅かな期間で脆くも崩れ、南北朝に分かれて四海いたるところで争いが続いた。このうち、西国のいくさに経之が動員されることは、東国情勢が不安定なことを鑑みればさすがになかったであろうが、経之の所領が鎌倉街道にほど近い場所に位置していることから、鎌倉街道を伝って進軍してくる敵の侵掠、蹂躙は受けたであろう。なかでも重要なのが1335年の中先代の乱、奥州鎮守府将軍であった北畠顕家の上洛とその帰還、1337年の北畠顕家の再上洛である。中先代の乱信濃から、北畠顕家の上洛は奥州から軍勢が鎌倉に向けて北から下ってきた。鎌倉はこの1335年から1337年のわずか3年のあいだに、実に3度も占拠されている。とくに北畠顕家の上洛は鎌倉勢を壊滅的に痛めつけて蹴散らし、その通り道となった街道沿いの村々に大きな被害を与えた。北畠顕家の軍勢の通った後には草木も生えない、といわれたほどである。大軍による破壊、暴力、略奪は大いに住民を苦しめた。太平記には「その勢都合五十万騎、前後五日路、左右四、五里を押して通るに、元来無慚無愧の夷どもなれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を壊ちたり。惣てこの勢の打ち過ぎける跡、塵を払うて、街道二,三里が間には、家の一宇も残らず、草木の一本もなかりけり」とある。目も当てられぬ惨状というほかない。
顕家は遠く陸奥国からの遠征であった。二度の遠征はどちらも京近くまで進軍しており、この長行軍中の食料は呼び集められた武士どもの自弁である。当時としては食料自弁が基本であったのでそれ自体特別おかしなことではない。たださすがに奥州から京までは遠すぎた。自分でなんとかしろ、といわれても奥州から京まで重い荷駄を引きながらのいくさなど現実的でないし、兵站などという考えのない時代だから後方からの兵糧補給など望めず、つまるところ路次自らの手で調達して進むしかない。買い求められるのならそれに越したことはないだろうが、十分な銭の用意がなければ、褒められたことではないがあとはもう奪うしかない。その結果が「草木の一本もなかりけり」である。太平記はあけすけに「元来無慚無愧の夷ども」と、東国の武士に対する偏見を隠さない非難を展開しているが、事実は出自とは関係がない。そうでもしなければ飢えて死んでしまうのだ。いくさにおける略奪はいつの時代もどこの国でもつきものだった。それはともかく腹をすかせ略奪を繰り返しながら進軍する顕家軍に抱く印象は、威厳に満ちた勇ましい軍勢というよりは飢えた難民の群れに近い。

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このとき顕家軍は鎌倉街道上の武蔵国府(現府中市)に5日逗留している。武蔵国府は経之の所領である武蔵国多西郡土渕郷からせいぜい4,5キロメートルしか離れていないので、もし太平記の言う「街道二,三里が間には、家の一宇も残らず、草木の一本もなかりけり」が本当ならば、太平記一流の誇張を差し引いたとしても、被害は免れがたい。5日もあれば略奪には十分な時間である。
略奪の被害だけでなく、経之には軍勢催促の負担もあったはずだ。顕家の最初の上洛で鎌倉を追われた関東執事の高師茂、上杉憲顕らは顕家が西上するやすぐに東国の勢を掻き集め、八万余騎で顕家を追った。例によって数字はデタラメだがこの中に経之も動員されていたとしたら、経之はそのいくさ用途捻出のために百姓に点役を課したことだろう。
こうしていくさのたびに農村は疲弊していく。その重荷がすべて百姓の肩にのしかかる。不満が出ないはずがない。土渕郷においてもそれは同様で、しかも領主が入部してきたばかりの馴染みのない経之であればなおのこと、百姓らの不満は露骨に噴出し、経之を悩ませたことであろう。