山内経之 1339年の戦場からの手紙 その12

常陸へ向け、鎌倉を出発】

北朝勢の内紛〉
常陸に漂着して以降の北畠親房は、北関東や奥州で南朝方の勢力の扶植、拡大に力を注ぎ、常陸国から絹川を越えて隣国の下総国下河辺まで軍勢を進めるなど積極的な動きを見せている。それに対し、高師冬率いる北朝勢はいまだ鎌倉にとどまったままで、いっこうに常州御発向の軍令は下らない。常陸下りの日取りはなかなか決まらない。
その背景には軍勢の集まりが悪い、という事情があった。師冬は自身の守護国である武蔵国を中心に関東中の武士を結集しようと呼び掛けたものの、武士たちの反応は鈍かった。師冬の軍勢催促に武士たちの腰が重かったわけは、端的に言えばいくさ続きであらたに勢を起こす余裕がなかったからだ。いや、それ以前に積極的に参陣する理由も乏しかった。武士たちには鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱のときのような動機がなかった。元弘当時、多くの御家人をいくさへと駆り立てた背景には、得宗である北条一族に権限や富が集中する専制政治への不信、反感、怒りがあり、乱は、幕府が御家人の生存のよりどころである所領を十分に安堵して生活の保障してやれなくなったことへの不満の爆発であった。しかしこんどの常陸征伐においては、経之をはじめとする武士の多くはたしかに所領問題など様々な不満を抱えてはいたものの、それ自体は南朝勢と戦う明確な理由にはなり得なかった。武士が戦う理由の最大のものは所領の帰属争いであり、南朝政権によって所領を奪われた、というような特殊な事情がない限り、師冬に従っていくさに出向くには動機が不十分だった。
しかも北朝方内部に目を向けると、ここにも問題があった。当時、北朝方は決して一枚岩ではなく、足利尊氏を頂点とした北朝武家は、尊氏の弟である足利直義一派と、尊氏の執事高師直、師泰兄弟に与する一派に分裂していた。この内訌は高師冬の軍勢催促にも影響を与えたはずである。高家の一員である師冬が鎌倉に下ってきたとき、師冬は武蔵国守護と鎌倉府執事の地位に就任しているが、この執事職にはもうひとり足利直義に近い上杉憲顕がいた。関東北朝方の武士の中には、直義に心を寄せる者もいれば、高兄弟に同調する者もいたであろう。直義派の武士たちが高師冬とのかかわりを避けようとしたとしても不思議ではない。さらにいえば、師冬には申し訳ないが、北朝方の大将が師冬だったというのも影響したかもしれない。4年前の中先代の乱のときには京から足利尊氏御大が自ら鎌倉に下向してきた。このときと同じように尊氏が下って来たならば関東中の武士も気を引き締めて我先に鎌倉に駆け出したかもしれない。が、残念ながらやってきたのは尊氏ではなく、弟の直義でも、執事の高兄弟ですらなかった。明らかに格落ちの師冬が相手では「師冬? 誰だそれは?」と値踏みされたのでは、と勘ぐりたくなる。
8月1日の26号文書には出発が決まらないもどかしい雰囲気が現れている。
 「たちあしちかくなり候てなんと申候て、此七八ニはあらす候ゑとも、とてもかやうに候て、いくほとも候ハねハ、三かハとのゝむさし▢▢下も、廿日ころにてあるへく候」(発足間近といわれていてさすがに今月の7、8日のことではないだろうが、この様子ではそんなに先のことではなく、三河殿の武蔵下りは20日頃になるだろう)
師冬が鎌倉に到着してから2ヶ月近く経っている。その間、安保光泰の先遣隊こそ常陸へ向かったものの、常陸国と境を接する下総国下河辺荘では攻め込まれて苦戦している状況にもかかわらず、肝心の本体である師冬率いる鎌倉勢は、戦う以前にいまだ十分な兵すら集まっていない。

〈出陣の日はいつになるのか〉
師冬勢の常陸下りの日取りが初めて明らかになったのは、7月に書かれたと思われる20号文書で、日取りは8月11日であった(「ら月の十一日は、かならす/\ひたちゑ下へく候」原文ママ)。
ところが「来月の11日には必ず必ず」、と強調していたにもかかわらず、この11日には出発せず、13日へと延期になってしまった。
 「ひたち下の事、いまゝてかやうにのひ候へハ、人めない人ならすなけき入▢▢十三日ニたち候ハはや▢▢候へとも、今日・・・」(23号文書)。
意味は分かりづらいが、「今までこんなふうに(何度も)延期されれば、ひと目を気にせず放言するような人でなくとも嘆いてしまう。13日に出発できれば、と思っても・・・」ぐらいの意味か。単に11日が13日にたった二日延びただけならそう目くじらを立てるほどのことではないと思うが、手紙を読む限りでは、それまでもたびたび出発の噂はあったがその都度期待は裏切られていたようだ。出発が遅れていたため、武士たちから「今度もどうせ・・・」、と半ばあきれられている様子がうかがえる。武士たちからしてみれば、人をわざわざ鎌倉まで呼びつけておきながら、出発日すら決まらない斯様な体たらくでは、やきもきして愚痴のひとつやふたつ言いたくなるのも道理である。武士の不満の元はそれ以外にも、現実的な損失が発生していることも理由になっている。ただ無為に鎌倉に滞在しているだけでも宿代やら食費などで銭は出ていくのだ。経之も鎌倉滞在中に滞納した宿代が1貫文(千文)にものぼって困っている(「いまたやとためも一くハんあまり」30号文書)。この1貫文は日頃、経之が頼りにしている「あらいとの」(新井殿)に立て替えてもらったようだ。
関戸観音堂の坊主への返事(25号文書)では、
 「おほせのことく、下もけふあすと申て候しかとも、いつもの事にて候へば、つや▢▢下候ぬへきていも候はて候しほとに、・・・」(おっしゃる通り、常陸下りも今日か明日かと言われていますが、いつものことです。まったく下らないというわけではなさそうですが・・・)
と、鎌倉の様子を伝えている。観音堂の坊主からもいつになったら下るのかと心配されていたのだろう。しかしこんどばかりは本当に出発日が決まったようだ。
 「御下も十六日とうけ給候あひ▢」
 「とのかたよりもいかにし候ても下と仰られて候」
とある。残念ながら13日からまた延びてしまったが、それでもようやく16日に決まり、「とのかた(殿方)」からなんとしても下れ、と命じられている。この「とのかた(殿方)」とは高師冬の関係者と思われる。

放生会
13日が16日の延びた理由には放生会が考えられる。
 「はうしやうへのようとうの事、うけ給候、いそき/\ほんかうのひやくしやうともニ仰つけ候て、十▢四日ニこれ給へ・・・」(放生会の用途のことで命令を受けた。いそいで本郷の百姓どもに仰せ付けて13,4日までにもってこさせよ。7号文書)。
放生会といえば流鏑馬神事に代表されるように鎌倉武士にとって欠かすことのできない祭事である。例年8月の15日に執り行われる。現代の放生会は9月だが、それは旧暦と現在の暦の違いのためで、実際の開催時期はほぼ一緒だ。これからいくさに赴こうとする武士たちがいくさの前に戦捷祈願の法会を執り行うことは理にかなっているといえる。ここまで出発日が延びたことだし、せっかくだから放生会を終えてから出発しようではないか、と考えたのだろう。どうせこれまでもたびたび出発は遅れてきたのだ。いまさら13日が16日に延びたくらいなんでもない。それより盛大に放生会を開き、戦勝祈願をして士気を高めたほうがいい、と考えても不思議ではない。もっとも経之はこれをあまり喜ばなかったに違いない。放生会のために用途(費用)の負担を求められているからだ。負担額は不明だが、経之にはこれを支払うだけの手元資金がなかったと見える。そのためわざわざ土渕の家から持ってこさせようとしている。ただでさえいくさ用途に四苦八苦している経之には、追い打ちをかけるようなこの「はうしやうへのようとう」は全く予期しない、不要不急の出費に思えたことだろう。

めずらしく日付が明らかになっている放生会翌日、8月16日の手紙(28号文書)を見てみよう。残念ながら放生会の様子には全く触れられていないが、放生会と関連していそうな記述はある。
 「かまくらへものほせたく候しかとも、あまりミくるしけにしてもとて候、ゐ中や申、るすもいかにたいかたく候らんと心もなく候、五郎にも、ひたるくとも下候・・・」(鎌倉に上らせたかったがあまり見苦しことは、と思い、上らせなかった。田舎も、私の留守がいかにも耐え難いであろうと心もとない。五郎にもだるくても下れ・・・)
文中「かまくらへものほせたく候しかとも」(鎌倉に上らせたかったが)とある。これは一体誰を上らせたかったのかが問題になるが、どうやら息子である「又けさ」のことを指しているようだ。何のために上らせたかったのだろう。少し前に呼びつけておいてすぐに返したではないか。そして、上らせるとなぜ見苦しいのか(「あまりミくるしけにしてもとて候」)。
思うに経之は息子の「又けさ」に放生会を見せてやりたかったのではないか。放生会を見せるために鎌倉まで呼ぼうとしたが今年の放生会は特に出陣前の武士たちが一堂に会する場だ。そんなところに親バカ丸出しで元服前の子供を連れて物見遊山では格好がつかない。見苦しいとはそのことだろう。しかしながら、だ。その後の経之の運命を知っているだけに、できることなら連れて行ってあげてほしかった。今回を逃しては経之が「又けさ」と一緒に過ごす機会はもう訪れないのだから。

〈五郎、再登場〉
28号文書では五郎が再登場する(「五郎にも、ひたるくとも下候・・・」)。少し前に寺で宿直をしたいというので五郎は帰宅を許されたが、なにもいくさ、つまり常陸下りまで免除されたわけではない。経之は連れてゆくつもりだった。しかし五郎にはあまりその気はないようだ。出陣直前のこの時期には経之は配下の従者たちを鎌倉に呼び集めていたと思われる。予定ではその中に五郎も含まれていた。しかしどうもさぼっている気配が濃厚である。わざわざ名指しで呼び出しを食らうのだから間違いない。従者が主人の命令を「ひたる」い(だるい)からと称して従わないなんてことがあるのだろうか。このあたりの人間関係は興味を惹かれる。
続く又けさ宛と思われる29号文書でも五郎は話題になっている。
 「六郎との、五郎いかにひたるく候らんと▢もいやりこそ候へ、六郎とのニやかてたひ候へくよし・・・」(六郎殿、五郎、とても疲れていることとは思うけれども、六郎殿にすぐに来るように伝えよ)。
度重なる主人の催促に耳を貸さない五郎の不遜な態度はどこから来るのだろうか。譜代の郎党ならば主人と強い紐帯で結ばれ、もう少し忠実であると思うが。五郎の態度は山内家における五郎の立場、身分を考える上で興味深い。

〈むかはぬ人は〉
「六郎との」は山内六郎治清だろう。六郎は訴訟相手である可能性があり、経之とは関係が悪化していたと考えられる。別の手紙では六郎は又けさともこじれていると読める箇所もある(【経之の家族構成】参照)。経之は放っておけばいいのに、そんな六郎にもいくさに参加するように呼びかけているのはなぜか。同じ29号文書内の以下の文言がヒントになりそうだ。
 「むかぬ人をハ、事さら▢▢▢事もきひしく候うゑニ、▢▢▢かく申候、▢▢はなんきはかりなく候」
意味は分かりづらいが「常陸に向かわない人は特に厳しい罰が下り、計り知れない難儀を被ることになる」、くらいに理解しておくべきか。関連して34号文書に重大な事が書かれている。
 「むかはぬ人はミな/\しよりやうをとられへきよし申候、そのほか御しやう申人ともは事に人の申候へハ、ほんりやうをとられ候也」(出陣しない者は所領を没収されるそうだ。そのことについて異議を唱える人は本領まで取られるそうだ)。
あまりに参陣者が少ないことに業を煮やした高師冬は強硬手段に打って出た。所領を没収するというのである。この場合の所領とは、元弘の乱などのいくさで功績のあった武士に新たにくだされた土地であり、本領とはそれ以前から先祖代々受け継ぎ所有していた土地のことを指す。従わない者は北朝方の大将である足利尊氏から与えられた土地を没収する。そしてそれににとどまらず、そのことで文句を言うのならもともと持っていた本領も奪うぞ、と脅しているのである。これは一大事である。所領や本領を取られるとなれば武士たちとしても閑却にはできない。経之からすれば、参陣を拒否する六郎が所領を召し上げられるだけなら困らないかもしれないが、もし経之が山内家の惣領で、庶子である六郎を連れてゆく責任を負わされているとしたら、いくら自分は参陣していると言い訳しても無関係では済まされそうにない。なおざりにすれば一族である六郎の不参のとばっちりが自身にも及ぶおそれがある。わざわざ手紙にするわけだ。

〈彦三郎の又、きへいじの又〉
常陸下り間近のこの時期、当然ながら鎌倉には召集を受けた武士とその一族郎党、従者たちが多数上ってきている。いくさを前に気の立っている男たちがひとところに集まればたいてい何らかのトラブルは避けられまい。放生会直前の7号文書を見てみよう。
 「ひこ三郎▢▢との物にて候よしきゝ下候て、さはくる人/\御きにも、きへいしかもとの物、かやうの事をふるまい候をは、なにともおほせ候ハて候けるよし、うけ給し事、うたてくこそ候へ」
非常に意味の取りにくい文章である。経之の従者である彦三郎ときへいじの下の者、つまり経之からしたら又家来たちがなにか騒動を起こして裁判になっているようだ。大方けんか沙汰だろうが。そして裁判を担当している人?に何かを言われたのか、それとも、もう何も言うことはないと突き放されたのか、経之は悲しい、せつない気持ち(「うたてくこそ候」)になっている。後半部分は例によって意味が分からない。自分の読解力のなさをうたてし、と恥じている。

〈出発日はまた延期〉
出発日とされた8月16日、予定通り、師冬勢は常陸へ下ったのか、というとそうではないらしい。
15日の放生会も終わり、翌16日の出発予定日、ちょうどその日8月16日付の経之の手紙は、訴訟で得た在家を売って弓を買えとか、五郎もひだるくても鎌倉まで来いだの、留守中の田舎家のことが心配だ、などと、それまでとあまり変わらない話に終始していて、出発当日のあわただしさは感じられない。
27号文書によると、
 「ちかく下候ハするよし申て候しかとも、とてもはうしやうへにあひ候ハて、下候ハん事とて候、三かハとのゝ御下も、この廿日けんちゃうにて候へく候ほとニ、とてもむさしのこふまて、御ともし候て」(近いうちに下るとは言ったけれど、とても放生会に参加しないで下るなんて、というわけで、三河殿(師冬)のお下りもこの20日に厳重に、となった。武蔵の国府(現東京都府中市)までお供して)
とあり、こんどは20日へと変更されたようだ。一体いつになったら・・・。

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府中大國魂神社 かつては六所宮と呼ばれ武蔵国国府の近くにあった

高師冬率いる北朝勢が鎌倉をあとにしたのが正確にいつのことか明らかでないが、20日とされて以降、新たに出発日が変更されたとの記述がないことから、やはりそのあたりに出発したとみるのが妥当だろう。これ以降、「日野市史史料集 高幡不動胎内文書編」でいえば30号文書からは話題が行軍中の出来事に移る。長くなった。鎌倉滞在中の話をやっと終えることができる。しかしこれからがまた長い。いくさと言ったら華々しく勇ましい話ばかりに注目がいくが、実際はそんなにすんなりといくさが始まるわけではなく、その前段階の準備も含めていくさの本当の有り様なのだと、胎内文書にふれて初めて思い知らされた。もう少し我慢してお付き合い願いたい。経之の手紙のようにこれほどまとまった量の、それもいくさ用途の確保に汲々としている武士の姿はなかなか他の史書ではお目にかかれないのではないか。このリアルさにこそ胎内文書編の価値がある、と理解してもらえれば、と願う。