山内経之 1339年の戦場からの手紙 その13

第2部 戦場までの行軍

【山内経之の従者】

〈経之勢は何人いたのか〉
さて、暦応2年(1339)の8月のおわり頃、山内経之は高師冬の供をして鎌倉を離れ、最初の目的地である武蔵国国府を目指して鎌倉街道を北上中であるが、その先、常陸国の戦場に到達するまではまだまだ時間がかかる。その間に経之の手勢について考えてみたい。経之はいったいどのくらいの従者を引き連れていくさにのぞんだのだろうか。小説を書く際、この問題には非常に頭を悩まされた。残念なことに経之の手紙にはこの重要な点についてあまり参考になりそうな記述がないので、具体的なことは皆目見当がつかない。しかし全く不明では小説にならないので自分なりに足りない知識と想像力を働かせて検討してみた。以下は不正確であろうことをご理解の上で、参考程度と思って読んでもらいたい。
手勢の数を推測するにあたって、まず、胎内文書資料集から経之の従者と思われる名前をすべて拾い出してみた。手紙の中のそれらしい人物名を数えると、断定はできないが少なくとも17人?は従者であろうと推測できる。もちろんこれはあくまで手紙に出てくる従者の数にすぎず、きっとこの他にもいたであろうから実際の数は不明である。
・山内経之家の従者  
  おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)
  さとう三郎(佐藤?三郎)
  しきめ▢のひこ三郎(彦三郎)
  さうとう二郎
  ゑちう八郎(越中八郎)
  やつ(谷)
  きへいし(紀平次か)
  いや七入道(弥七入道)
  八郎四郎
  太郎二郎入道
  太郎八郎
  ひこ三郎(彦三郎)
  七郎二郎
  四郎二郎
  小三郎
  やすのふ
  二郎太郎
  五郎  
#「しきめ▢のひこ三郎」と「ひこ三郎」については、「日野市史史料集 高幡不動胎内文書編」では同一人物としているので、ここでもそれに従うことにする。
戦場にはこの17人全員が行ったのかというとそうではない。行かなかった者もいる。むしろ経之の供をして常陸に下ったのが確実と言える従者の方が少ない。以下に実際に戦地まで赴いたことが明らかな者の名をあげる。
常陸まで経之の供をしたことが明らかな者
  ゑちう八郎(越中八郎)
  やつ(谷)
  きへいし(紀平次か)
確実に、と断言できる者はわずか3人しかいない。この者たちに共通していえることは、それぞれが独自の従者を抱えているという点である(39号文書に「ゑちう八郎か又、やつの又、きへいしか又」という記述がある。又とは又者、又家来のことで、従者の従者という意味)。独自の従者、つまり経之からしたら又者、又家来を抱えているということは、その従者は山内家での地位が高く、それなりに良い待遇を得ているということだろう。ただ、この3人とは違い、同じように従者を抱えていながら下らなかった者もいる。「おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)」だ。大久保の弥三郎が経之に従わなかった理由はよくわからない。従わないどころかこの者からは反抗的な印象すら受ける(「おほくほのいや三郎又くたしせぬ物ともに、しハらくのなかに、まいらせよと申へく候」39号文書)。大久保の弥三郎は本人が下らないだけでなく、又者を常陸に下らせよという経之の命を無視しているようなのだ。この大久保の弥三郎は一体どういう人物なのだろう。

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土渕郷古地図



経之の本領である土渕郷の古地図をみると大久保という地名がある(今もある)。ほかにも新井や谷もある。新井はすでに書いたことだが、経之が日頃から親しくしている新井殿の所在地と考えられ、新井殿は長くそこに住み着いて地名を名字として名乗るようになったのであろう。ならば同様に大久保の弥三郎や「やつ(谷)」も、もともとこの土渕郷の住人であり、経之とは経之が土渕郷へ移住してきてから主従関係を結ぶようになったのではないか。ということは大久保の弥三郎や「やつ(谷)」は武士の郎党ではなく、百姓、それも地名を名乗るくらいだからこの地を代々受け継いだ、この地域における指導的な立場の百姓と考えるべきだろう。それなら大久保の弥三郎が経之の命令を無視していくさに参加しない理由も理解できるかもしれない。百姓ならふつう(戦国時代のように徐々に軍勢に組み入れられるようになった時代とは違い)従軍を拒否するだろうし、土渕郷の百姓らはもとより年貢のこと、いくさ用途のことで常日頃から新規領主である経之と衝突していた。大久保の弥三郎はこの地の有力百姓であり、百姓を代表して経之と折衝にあたり、その過程で経之とは険悪な関係になっていったと容易に想像がつく。だから主人である経之から、いくさに参加せよとの仰せがあったのにかかわらず、恬として聞き流して従わなかったに違いない。ただ、同じ百姓(と思われる)の「やつ(谷)」は参戦している。事情はわからないが、ひとそれぞれ、立ち位置や性格の違いか。
また、常陸に下った「ゑちう八郎」ら上記3人に加え、もうひとり、四郎二郎か七郎二郎のどちらかも確実に常陸での戦闘に参加している。49号文書の記述からそれは間違いないのだが、非常に残念なことに「▢郎二郎め」と肝心な部分が欠字となっていてどちらなのかわからない。「▢郎二郎め」は戦場での重要なエピソードにかかわりがあるのでまたあとで触れる。
ここまで常陸に下ったのが明らかな従者は4人。うち3人には又者がいる(「▢郎二郎め」に又がいたかは不明)。経之勢の総数を考えるうえで、又者をそれぞれどのくらい連れて行ったかが問題になるがさほど多くはないだろう。身の回りの世話をする者や戦場での旗持ち、楯持ち、馬の口輪取りなど、戦場でどんな役割が求められるのかはわからないが又家来という性質上、せいぜい2,3人ではないか。とすると「ゑちう八郎」ら3人の手勢は又者も含めて9人から12人ということになる。これを前提に経之本人、「▢郎二郎め」を加えて経之の手勢を計算すると11人から14人となる。これではさすがにちょっと少ないような気がするが・・・。

そのほかの従者についても検討する。
「さとう三郎」は参戦しなかったひとりだ。実際のところ、行けなかった、身動きが取れなかった、というべきかもしれない。「さとう三郎」はおそらく山内家の代官として、経之の所領のひとつである奥州の「ぬまと」(陸奥国牡鹿郡沼津)を預かっている(40号文書「さとう三郎わらハへめらか候し▢、あひかまへて/\、はせさせ給へきよし、おくゑも申つかはさせ給へく候」)。奥のさとう三郎に、息子に馳せさせよ、と伝えるように命令している経之の手紙からそう推測できる。「おく」の話は何度か出てくるが「おく」の従者として名前の挙がるのはさとう三郎しかいないので、その内容からさとう三郎は「おく」を代官として預かっていたとみることができそうだ。大事な所領を任されるくらいなのだからそれだけ信頼の厚い郎党に違いない。であれば山内家での地位も高く、従者(又家来)もそれなりに抱えていたはずだ。それなのに経之が戦力になりそうな「さとう三郎」を呼ばないとは考えづらい。事実、以前も紹介したが、経之は「ぬまと」と連絡を取ろうと試みている。しかし来なかった。そのわけは難しくない。陸奥国にある「ぬまと」から常陸まで下る場合、障害になるのが陸奥国南部、今の福島県あたりだ。この地域にはかつて陸奥国司であった北畠顕家が拠点としていた霊山(りょうぜん)があり南朝方の支持が多い。そこを通過して常陸でのいくさに参加するのは困難だったろう。「さとう三郎」の不参にはそういう理由があった。「さとう三郎」の息子も参陣していないだろう。
次に、しきめ▢のひこ三郎(彦三郎)について検討したい。彦三郎は経之の手紙の中で最も多く登場する従者であり、経之が鎌倉に滞在していたときも供をするなど、経之の信頼がとくに厚く、重用されている。彦三郎にも従者(又家来)の存在が確認できる(鎌倉滞在中に裁判沙汰を起こしている)。しかしそんな彦三郎でも従軍したかどうかは不明だ。たしかに経之勢が鎌倉を出発した直前の時期には彦三郎とその従者も鎌倉にいたので、経之の常陸下りに同行した可能性が高い。しかし本格的な戦闘が始まった10月の終わりに、彦三郎は経之あてに手紙書いていると思われる記述もあり(「しきめ▢のひ▢三郎かふ▢▢▢返事」39号文書、この文書は経之が息子の又けさ宛てた手紙で、彦三郎からの手紙に対する返答として書かれている。彦三郎から何か質問があり、その答えとして又けさに指示をしたのだろう)、また、経之は又けさ宛の手紙で、彦三郎によく伝えよ、と命じたりもしている(「ひこ三郎によく/\とき申へく候、」40号文書)。このことから彦三郎は本領の土渕郷で留守を守っていたかもしれない。留守中の家のことを常々心配していた経之のことだから、信頼している従者の彦三郎を土渕郷に残して任せていた、と考えられる。したがって彦三郎は参戦しなかった可能性が高い。
その他の人物は箇条書きで簡単に。
・小三郎と「やすのふ」は、又けさの手紙を戦場の経之まで届けている(「小三郎が下候のふミ、」43号文書、「やすのふの下のふミ、」47号文書)ことから参戦はせず、ただの連絡係といった役割か。このふたりは百姓かもしれない。
・いや七入道(弥七入道)も大久保の弥三郎とならんであまり従順ではないようだ。(「いや七入道めかなんこに候しものか、せふん/\申をも▢す候、おほくほのいや三郎おなしく▢▢しせぬ物ニて候」47号文書)。弥七入道はどこに行ったのか、せふんせふんを申して、大久保の弥三郎とおなじで・・・、と反抗的な態度が垣間見れる。「せふんせふん」の意味はわからない。経之の郎党なのかそれとも百姓なのかも疑問が残るが、入道というくらいだから隠居した百姓か。
・八郎四郎は宿直をしていた?(「八郎四郎ひ・・・・とのいよく/\申へく候よし、申つけへく候」)。ならば不参だろう。
・太郎二郎入道は不明ながら、名前から年寄りであろうこと、また4号文書で八郎四郎と一緒に農作物に点札を立てる作業に従事していることから、八郎四郎と一緒に留守を守っていたかもしれない。百姓?、いずれにせよ不詳。
・太郎八郎も不明。経之は又けさ宛の手紙(40号文書)で、太郎八郎に何かを伝えるよう指示している。これも留守居か。
・さうとう二郎、不明。47号文書の(「おくゑ・・・ひんき候ハヽ、さうとう二郎か・・・」)から奥州と何らかの関係がありそうだ。参戦の有無は不明。
・二郎太郎。不明。
・最後に五郎。さんざん経之からの催促を受けながら無視しているフシのある五郎。やはり行かなかったと見るべきか。
以上17名、ざっと従者たちの動向を概観するとこのようになる。やはり経之に付き従って常陸に下った者は少なそうだ。正確な数はもとよりわかるはずがないが、もしかしたら本当に経之の手勢は12,3人程度だったのかもしれない。

 〈五郎という従者〉
経之の従者の中で特に気になるのが五郎だ。五郎は経之の手紙の中で登場回数が6回と、もっとも多く登場する彦三郎の10回に次ぎ、2番目に多い。それだけ登場するのであれば重用されている家臣と考えてもおかしくないと思うのだが、実際の五郎の行動を見ていると、どうもそうは思えない。経之に付き従って鎌倉滞在中に突然寺で宿直したいと言い出して帰郷したり、帰郷後も参陣するよう命令を受けておきながら逃げているような身勝手、自堕落な人物だ。経之から信頼されている彦三郎が独自の従者を抱え、留守宅の仕事を任せられるなど山内家において重要な存在であることが明らかなのに対して、五郎は自由気ままにふるまい、許されるはずのない行動をとっているが、この従者はいったいどういう人物なのか、不思議でならない。忠臣という言葉がまったく似合わない、いつ追放されてもおかしくない五郎の身分や人となりを考えてみたい。
そもそも五郎は武士の郎党か、それともただの百姓なのだろうか。五郎には名字がなく彦三郎のように「又」(独自の従者)を抱えているわけでもないことから、郎党であったとしても中間や若党などの比較的地位の低い武士階級だと考えられる。しかし郎党の立場にありながら主人である経之の命令に背くなどの不遜な態度はどうにも解せない。経之は6号文書で信頼できる部下がいないと嘆いていたが、そのとき名前が挙がっていたのは唯一五郎だ(「あまり物さはくり候物候ハて、事さらふさたにて候、五郎をも、ちかくは人も、又これの事も、つやゝゝなること候ハねとも」)。そんな部下はさっさと首にすればよいではないか思うのだが、一方で経之は人手が足りていないことを匂わすようなことも述べている。人材不足の経之家中では切りたくても切れなかったのかもしれない。
経之の家中で反抗的な態度をとるのは何も五郎だけでなく、「おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)」のような百姓と思われる人物も同様である。百姓らが領主の経之に強気な態度をとるのは度重なる年貢やいくさ用途の請求に対する反発と、外からやってきたにわか領主と親密な関係を築けていないことによるのだろう。とすると五郎の不遜な態度も百姓ゆえなのだろうか。
時代背景を考慮に入れれば、五郎が下人だった可能性もある。以前、第1部【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で、武士(御家人)が窮迫して最終的に無足の御家人になる、と書いたが、百姓だって飢饉や病など様々な事情で生活苦におちいり、借金のかたに田畑を差し押さえられることはあった。債権者による差し押さえという点では現代と変わりはないが、大きな違いは借金を返せなければ奴隷へと身分を落とされてしまう時代であったという点だ。そこで考えたのだが、もしかしたら五郎は元百姓で、それが凶作による飢饉で年貢を払えないなどの事情があり、身分を下人(奴隷)に落とすことになってしまったのではないか。
鎌倉時代には飢饉の際、飢えて食えなくなった者を下人として所有してよい、という法律(御成敗式目)があった。耳を疑うように法律だが、背景には飢えて死ぬくらいなら奴隷のほうがまだましだろうという発想があった。奴隷商人に都合がいいだけの詭弁におもえるが、幕府に可能な弱者救済処置はその程度のものだった。そういう背景を考えあわせれば、五郎の不遜な態度も理解できるような気がする。下人に身を落とした五郎は経之の下に引き取られた。武士の郎党ではなく、進んで経之に付き従っているわけではないため、ほかの従者のように主人の経之と強い紐帯でむすばれているわけでもなく、いくさについてこいと言われても迷惑に思ったことだろう。また、下人に身分を落とした人の絶望を考えれば、寺くらいしか頼れる場所がなく、望みを託すのは後生のことばかりであってもおかしくない。