山内経之 1339年の戦場からの手紙 その14

【村岡宿での出来事】

鎌倉街道を北に〉
8月の終わりに鎌倉を立った高師冬率いる北朝勢がまず向かったのが武蔵国国府(現在の東京都府中市)である。国府は鎌倉から北進し多摩川を超えたあたりに位置する。鎌倉府の執事であり、武蔵国の守護でもある師冬はここで武蔵の武士を糾合して戦力を充実させつつ、常陸へ向かうつもりであった。鎌倉勢がいつここに到着し、どのくらい滞在したのかは経之の手紙にはこれと言って言及がないのでわからない。一行は武州国府をさらに北上し、国府から50キロの地点にある同じ武蔵国大里郡村岡宿(現埼玉県熊谷市)が次なる目的地である。村岡宿は下河辺のある下総国武蔵国の国境に近く、交通の要所にあり、また宿場という性質上宿泊施設も多いことから鎌倉勢が兵や兵糧を補充する最後の拠点としてふさわしい。そのせいか鎌倉勢は国府よりもむしろここで時日を送っている。ただし戦略的に、というより兵の集まりが悪いために無為に時間を費やしているという印象が強い。
矢部定藤なる武士の軍忠状によると村岡に到着したのは9月8日のことだった。村岡まで武蔵の国府からは1日、2日で移動できる距離である。鎌倉からでも3、4日あればまず問題はなさそうな距離だ。鎌倉のある相模、武蔵は高師冬率いる北朝勢の支配地域であり、邪魔する敵はいない。行軍に支障はないはずだ。なのに8月20日に出発して9月8日に到着ではちょっと時間がかかり過ぎている。戦闘はすでに7月9日、下総国下河辺荘で始まっているにもかかわらずである。物見遊山じゃあるまいし、のんびりと行軍している余裕があるとは思えない。鎌倉勢の歩みは遅い、と言わざるを得ない。村岡到着後もすぐに発進したわけではない。31号文書には、
 「はう/\のはやむまのさうにより候ほとに、下かうへゑ下候ても、やかてかせんなんともある事も候へく候、いまハさたまりやらす候、さりなから下かうへに、一四五日もあるへきよし仰候へハ、」(方々に放たれた早馬の報告によると、下河辺に下ればすぐに合戦になることもあるだろう、いまはまだ定かではないが、しかし下河辺には14,5日にはゆくとの仰せがあった)
とあり、村岡宿に長々と腰を据えている様子が見て取れる。いったいなぜそんなに腰が重いのかといえばやはり軍勢の集まりが悪いからだ。32号文書は、
 「あまり人も候ハて、何事もふさたニて候しほとに、申て候、これはていにしたかひて、この月のすへまても、これにある事う▢あ▢へく候、せいは廿月廿四日の日むけられ候へく候(原文ママ)」(あまりにも人が揃わないので手持ち無沙汰です。人が言うには、この様子では月末までここにいるのは間違いないそうです。軍勢は9月24日に下河辺へ向けられるとのことです)
と、敵を目の前にしながら味方が足りずに戦えないというありえない醜態を晒している。しかもこの9月24日発向すら果たされず、結局鎌倉勢の村岡駐留はひと月以上にもおよび、出発は10月までまたなければならなかった。

〈笠幡の渋江殿〉
村岡宿からの出発が遅れたのは頭数が足りないからという消極的な理由だけだろうか。もしかしたら他の理由もあったのではないかと思わないでもない。第1部【常陸へ向け、鎌倉を出発】の章〈むかはぬ人は〉で以下の件を紹介したが、それが鎌倉勢が村岡宿に長くとどまっている理由を推測する手がかりになるかもしれない。
 「むかはぬ人はミな/\しよりやうをとられへきよし申候、そのほか御しやう申人ともは事に人の申候へハ、ほんりやうをとられ候也」(下河辺に向かわない人はみな所領を召し上げられる。その他訴状?を出して異議を唱える人は本領も没収されるそうだ)34号文書
所領の没収をちらつかせて参陣を要求していることを示すこの記述は単なる脅しではなく、実際に処分をくだされてしまった人もいたようだ。
 「かさハたのきたかたニしほゑとのゝあととも給候物か、そらからを申してミなニかくるへきよし申候」(笠幡の渋江殿という人が嘘をついて皆処分されてしまった)。
笠幡は経之の所領のひとつである柏原に近い。その地の武士が所領を召し上げられてしまった。経之としても他人事とは思えなかっただろう。この「しほゑとの(渋江殿)」は武蔵七党の野与党に属する渋江氏のことと思われ、笠幡は「しほゑとの」の所領のひとつと思われる。野与党の支配地域は下河辺に重なる部分がおおく、また同地は南朝方の勢力が優勢だったため、「しほゑとの」が師冬の催促に従わなかったのは、「しほゑとの」個人の意思というよりは、野与党の総意に基づく決断として南朝についたから、とみられる。下河辺に向かわぬ人の中には単にサボタージュした人もいれば、笠幡の渋江氏のように武蔵国の領主でありながら自発的に南朝方に付いた武士もいた。
その報復として渋江氏は所領を没収されてしまった。ここでこの所領の没収処分について考えてみる。ただ一口に没収といっても没収された人が素直に出ていけばよいが、そのまま居座ってしまえば処分は実効性を持たない。通常闕所地(没収された土地)は別の誰かに宛てがわれたあとは、その人自ら実力行使で奪い取る必要があった。ちょうど安保光泰が去る6月に敵の所領である松岡荘を宛てがわれたときのように。このとき安保光泰はすぐに軍事行動を起こしている。武蔵守護の高師冬からすれば自身の守護国から違背者が出たにも関わらず放っておいては示しがつかないし、こういう輩は常陸に向かう前に叩いて後顧の憂いを断っておく必要があった。そうしなければ常陸南朝勢と対戦中に背後を脅かされかねない。ただし渋江氏の場合、笠幡の地が野与党の根拠地である下河辺から西に遠く離れた飛び地のような位置にあり、むしろ武蔵国府に近いことから争ったりはせずに粛々と退却したのではないかと思われる。
また後顧の憂いを発つ、という理由のほかに、実利上の理由も考えられる。季節はちょうど9月(旧暦なので現在でいえば10月頃にあたる)、収穫期のさなかにある。敵方に付いた武士を懲らしめるだけでなく兵糧となる米を奪えば一石二鳥だ。山内経之のようにいくさ用途の捻出に四苦八苦している武士からすれば収穫したばかりの米を兵糧として手に入れることができるのだから嬉しくないわけがない。こう考えれば高師冬が村岡に長期滞在した目的は単に軍勢が集まるのを待っていただけでなく、笠幡の渋江殿のような「むかはぬ人」たちに対する処分とプラスαの利得が含まれていたと考えられる。

〈村岡宿での経之〉
村岡宿で山内経之は何をしていたのだろう。暇を持て余して昼寝でもしていたのだろうか。
残念ながら経之にはそんな余裕はなかった。実際は村岡に到着後も相変わらずいくさ用途(費用)の心配ばかりしている。これでいったい何度目だろう、30号文書では、
 「人の▢うとうを又いくハんはかりを、・・・候、いかやうにすへしとも・・・」(用途を一貫ばかりなんとしても送れ。)
と求めている。しかし家計が苦しいのは重々承知と見えて、同じ手紙で、
 「はやさそうせち(想折)も、のこりすくなくありけに候、るすの事も、いつもの事にて候へども、御いたわしくこそ候へども、いかようにも御はからい候て、ようとうも、」(生活費も残り少なくなっているようで、留守中のこともいつものことで不憫に思っていますが、なんとかして用途を)
と、残してきた家族の日々の生活費すらままならない状況を気遣いつつも、しっかり費用は要求している。ただ他方で経之は衣服を染めに出して結構な出費をしている。
 「かき、あさきハ百ニて候、ふたへ物ハ百あまりに候てそめ候也、まいらせ候しかたひらも、そめたく候しかとも、▢▢▢ようとう候ハて、」(単衣を柿色、浅黄色は百文、袷は百文以上で染めた。送った帷子は染賃が足りなかった)
と、少なくない出費をしていくさ前に服を染めている。
月末の24日、31号文書によれば、この日に鎌倉勢は下河辺に下る予定だったが、経之は休暇をもらって武州土淵郷の家に帰っている。もちろんのんびりと休むためではなく、あくまで金策のためだ。名宛人不明の9月25日の手紙(33号文書)を見てみよう。
 「わさと人をまいらせ候、うけ給るへき事候て、昨日二三日のいとまを申候てのほりて候、廿七か八のころ、かならす/\下へく候、御ひま候ハヽ、こなたへも御こへ▢へく候、よろつけさん(見参)ニ申▢け給るへく候」(わざわざ人を遣わしたのはお尋ねしたいことがあったからです。昨日(24日)2,3日の休みをもらって帰郷しました。27,8日には必ず必ず下河辺へ下ります。お暇があれば、こちら(経之の自宅?)へお越しください。いろいろお会いしてお願いしたいことがあります)。
誰宛ての手紙かはわからないが、経之のお願いごとといったら借財以外に考えにくい。経之は慎重になっているのか、いきなりその人の家に押しかけるのではなく、丁重に使者を立てて、自宅へ迎えいれようとしている。が、敵もさる者、経之の誘いの手には容易に乗ってこなかった。
 「御むかひに人をまいらせたく存に、御ひまも候ハぬよし、うけ給候あひた、人とも遣候也、これはやかて/\下へく候」(お迎えに人を行かせたいのですが、お隙がないとの由、承りました。代わりに人を遣わしたいのですが、これはすぐにすぐに着きます)。
迎えに行くという経之の申し出を、相手は忙しいから、との理由で面会を避けている。相手としたら、経之の家に招かれて歓待され、いい気分になったところで借財の話を持ちかけられたら断りにくい。そうやすやすと経之の手に乗らないように慎重になっている。しかし経之とて簡単に引き下がる訳にはいかない。そちらが来ないんだったらこちらからと、さらに使者を送ろうとしている。お迎えを拒否されてもなお使者を送っているあたり、経之もなかなかしつこい。それだけ追い込まれているということか。