山内経之 1339年の戦場からの手紙 その15

【下河辺へ】

〈高利貸しの「大しんハう」〉
鶴岡社務記録によると10月3日、下河辺でまた合戦があった(「十月三日、常州合戦、今日矢合之由聞之間、千返陀羅尼始行、其外種々祈祷始之了、」)。この合戦に経之は参戦していない。前述の33号文書で9月の27,8日には必ず必ず下河辺へ下るといっていたが、この予定もまた延期され、実際に経之が下河辺に到着するのは10月12日か13日であった。(妻宛10月12日日付の36号文書「これも十日なかへゝつき候て候か、けふ十二日ニていにしたかひ候て下かうへゑつかれ候へく候(10日なかへについた。この様子なら今日12日に下河辺に着くでしょう)」。「なかへ」は該当地不明。村岡と下河辺の間だろう。34号文書に、下河辺の向かい太田荘に着いた、とあることから、「なかへ」はこの太田荘に属しているのかもしれない(「下かうへのさうへのむかひにつき候て」)。
この頃になると経之はもう金策になりふり構わなくなってきている。とある僧に宛てて、
 「いかやうに仰せ候ても、ようとう二、三くハん、ほしく候、大しんハうにおほせ候て、ようとう五くハんとりちかゑてかせと仰せあるへく候」(どうしても用途2,3貫必要だ。大しんハう(大進房か)に言って用途5貫を所領と交換で借せと交渉してください)
と、所領を担保に借上(かしあげと読む)と思しき「大しんハう」なる人物から5貫(5000文)を借りるように頼んでいる。借上とは高利貸しのことだ。誰だってできれば関わりたくない借上に借りなければならないほど切羽詰まっていたのなら、先日の帰郷はあまり功を奏さなかったのだろう。うろおぼえながら借上に借りると金利は月6文子、と何の本か忘れたが読んだ記憶がある。年、ではない。月6文子だ。100文借りれば一月で106文にして返さなければならない。年率なら72%にもなる。本当だろうかと疑いたくなるが、現代だって闇金(もういないか)に借りればトイチ(10日で1割)なんて話を聞くから本当かもしれない。

〈忠ある者の行く末は〉
戦場が近くなったことで経之の心境にも変化が訪れている。同34号文書で、忠ある者の行く末は急に終着点が見えてきた、といつになく不安な心境を吐露している(「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也」)。経之はこれまで幾度もいくさを経験してきているはずだが、鎌倉幕府崩壊から南北朝の動乱期という激動の時代をくぐり抜けてきた経之でも合戦を前にするとやはり心が落ち着かなくなるようだ。そんな経之のことを武士らしくない、弱気だ、と非難すべきだろうか。武士の一般的イメージといえば少々極端ではあるがおおかた、平家物語の次の一節に代表されるような姿ではないかと思う。平家物語は巻第五富士川のくだりにおいて、東国の武士は「いくさは又おやも討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越えヽ戦ふ候。西国のいくさと申は、おや討たれぬれば孝養し、いみあけてよせ、子討たれぬれば、その思ひなげきによせ候はず。兵糧米尽きぬれば、春は田つくり、秋はかりをさめてよせ、夏はあつしと言ひ、冬はさむしときらひ候。東国にはすべて其儀候はず。」と、貴族文化に染まった西国武士をけなす一方、東国武士の剽悍さを武士の典型、あるべき姿として誇っている。しかしこれが本当の武士の姿だろうか。軍記物やそれを下敷きにした小説、新渡戸稲造の「武士道」、また「葉隠れ」の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」のようなくだりに接すると、武士とは今の我々とはかけ離れた存在のように思えてしまう。文化や習慣だけでなく精神構造からして全く別のものとつい考えがちになる。しかし実際の武士の姿はそのような潤色された軍記物とは違うようだ。経之の手紙からはそういった理想化された武士像はみじんも感じられない。胎内文書はそういう思い込みを改めさせてくれるという意味でとても貴重な資料といえる。

〈妻への手紙〉
いよいよ合戦の日が目睫に迫ってきている。34号文書から36号文書には、経之のあせり、緊張の高まり、胸が押しつぶされそうな悲壮感が現れている。
 「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也」(忠ある人々の行く末は今、急に終着点が見えてきた。)
戦力が十分に整わないことや遠い常陸までの遠征に不安を覚えたのか、この先、過酷な運命が待っていそうなことを「帰趨がつく」と表現している。
続く35号文書では、10月9日には必ず合戦になると断言し(「この九日ハかならす/\かせん候てあるへく候」)、関連してこのころ「よりあひ」(軍議)が開かれている。
そして経之の手紙の中でも佳境のひとつ、とでも言うべき10月12日付、妻にあてた36号文書は、いくさを前にした武士の、人間らしい偽らざる心情が奔出している。残念なことに文書の保存状態が悪く欠字だらけで一部しか読み取れないが、可能な限り抜き出してみる。
 「なにさまみやう日ハ、けんちやうニてあるへく候、なに事もさたまり・・・」(何があろうとあすはいよいよ合戦だ。運命は定まり・・・)
 「返々かせんのニハ・・・よりほかは申・・・心ほそくこそ・・・」(返す返す戦場というのは・・・より他に言うことは・・・心細く・・・)。
息子の又けさ宛ての手紙では事務的な連絡が多いが、妻宛の本状では、不安で揺れ動く心情を隠すことなく吐露している。そして結びに、
 「あすハかならす/\これをハたゝれ候へく候也、はや/\御こひしくこそ候へ/\、・・・」(明日は必ずここを出発します。まだいくさは始まっていないのに、もう恋しくてなりません・・・)。

〈茶・干し柿・搗栗〉
下河辺に到着したが、しかし経之の合戦はまだ始まらない。振り返れば10月9日には必ず合戦になると言っていたのにその日は戦場にも着かず、10月12日の手紙では明日こそは合戦だ、と気を引き締めていたにもかかわらず、その合戦の日とされた13日に経之はとても戦闘があったとは思えない、なんとものんきな手紙を書き送っている。以下、37号文書。
 「二まいらせ候、一にこはのちやにかく候ハさらんを、てらへ申て、入候て給るへく候、一にはなかにちやにてもかへ入候て給るへく候」
少し意味を取りずらい文書だ。「日野市資料集高幡不動胎内文書編」の解説によると「皮籠のような容器をふたつを送るので、ひとつには粉茶(もしくは古葉)の苦くないものを寺にお願いしてもらってきてください、もうひとつには茶でも買って入れてください」くらいの意味だそうだ。手紙は続けて、
 「▢しかき、かちくりすこし▢り候て候し、かへ入候て、もち候へく候」(干し柿、搗栗を少し買って送ってください)
などと、搗栗など戦場で欠かせない食品を求めている。下河辺からの手紙のはずだが合戦の緊迫感が感じられない。この日、いくさはなかったのだろう。

南朝勢の撤退〉
10月3日の矢合わせ以外にも、国境を越え下総国下河辺まで進出してきた常陸南朝勢と北朝方の先遣隊との間で小競り合いくらいはあっただろうが、高師冬率いる北朝鎌倉勢本体との本格的な衝突に至る前に南朝勢は一旦陣を引き払い、常陸国へとかえったと思われる。下河辺まで来た経之であったが、またしてもいくさに遭わずに済んだ。この撤退について、南朝方の重鎮であり、常陸における南朝勢の指導的立場にある北畠親房の御教書にはそれを推測させる記述がある。親房の手紙は読むのもうんざりするほど長いものが多いが、ここではその一部を引用する。
 「鎌倉凶徒率武蔵・相模等勢、寄来之由其聞候、今明之間、定寄歟之由、被待懸候也、鎌倉辺まても?可被打上之処、所々城郭等難被打捨、面々加斟酌了、今寄来之条、中/\早速静謐之基歟、就之?可被措合于常陸堺候」(武蔵、相模勢を率いた鎌倉凶徒が攻め寄せてきたと聞いた。今日明日にもきっとやってくるだろうから待っているところだ。いそぎ鎌倉まで攻め上るべきであるが、所々の城郭を捨てがたく、そのへんを考慮してやめた。今敵がやってくるのならかえって黙らせる良い機会になる。よっていそぎ常陸の境に軍勢を置くべきである)。 #注 ?はハム心、「怱」の異体字で「急ぎ」の意味
雑な訳で申し訳ないが、大意は伝わるだろう。親房は、敵の鎌倉勢がやってくるのならわざわざこちらから出てゆかずとも城郭をたのんで立て籠もり、返り討ちにすれば良いと考えている。下河辺は野与党の支配地域であり、常陸勢は下河辺を応援するために援軍を派遣してきたが、下河辺から南朝勢が引いたのもそういう意図があったものと思われる。
ちなみにこの暦応2年9月28日の結城親朝宛て御教書では後醍醐から義良親王への践祚も伝えている。
 「吉野殿御譲国事、定風聞候欤、奥州宮被開御運之条、聖運令然候哉」(後醍醐天皇が退位されたとのうわさを聞いているか。義良親王の運が開けてきたのは聖運のなせるわざか)
親房は突然の代位に困惑している。寝耳に水だったのだろう、代位の理由を義良親王の聖運のたまものと解したが、本当の理由は後醍醐の死によるものだった。後醍醐が亡くなったのは8月15日。経之たちが鎌倉から出発する直前のことだ。後醍醐の死は南北朝の争いのさなか、当然伏せられただろうが、そんな肝心な話がひと月以上たった9月の末になっても南朝重臣である親房の元には届いていなかった。
南朝勢の撤退後、経之を含む鎌倉勢はようやく常陸との国境にある下総国結城郡山川という地に布陣した。以後、鎌倉勢と常陸勢は衣川(ときに絹川、鬼怒川のこと)を挟んで対峙し、主に両者の中央に位置する駒城をめぐって攻防が繰り広げられることになる。経之にとってももういくさは避けられないところまで来た。