山内経之 1339年の戦場からの手紙 その16

第3部 常陸合戦

北畠親房から見た常陸合戦】

〈合戦が始まる前の常陸情勢〉
ここからはいよいよ山内経之が戦った駒城合戦を中心に常陸合戦を扱っていきたい。常陸合戦は通常北畠親房常陸に漂着し、それを追って高師冬が京から下ってきた暦応3年(1339)から始まるとされているが、常陸やその周辺の北関東ではそれ以前からその地域の領主たちによる争いが頻発していたのであり、それが本来武士とは関係のない南朝北朝の争いに取り込まれる形で拡大・激化していったのが常陸合戦である。
鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱(1333)後の常陸情勢について振り返ってみたい。北畠親房常陸国に漂着するより前、常陸国と、衣河(鬼怒川)を挟んだ対岸の下総国の関係は決して平穏ではなく、小競り合いが絶えなかった。争いは主に常陸国関郡の支配をめぐり関宗祐と、下総国結城郡の結城朝祐・直朝父子(下総結城)の対立として現れてくる。
鎌倉の武家政権に替わり、建武の新政を開始した後醍醐天皇は結城家の惣領であった結城朝祐を冷遇し、かわりに分家に過ぎなかった結城 宗広・親光(白河結城)を重用したが、そのことが結城朝祐を後醍醐、ひいては南朝側から離反させる契機となった。特に結城宗広の次男親光は後醍醐に寵愛され、三木一草のひとりとしてその栄達が世にうらやまれるほどであった。一方、冷遇された結城朝祐は親光への対抗上、足利尊氏北朝側にすり寄っていくことになる。
建武2年(1335)の12月、北朝方として参戦した結城朝祐は足柄山合戦の功により尊氏から常陸関郡を与えられたが、これが結城朝祐と関宗祐が争う直接のきっかけとなったと考えられる。常陸関郡の領主関宗祐はそれまで南朝北朝のどちらに加勢するのか旗幟不分明であったが、大事な領地が勝手に他人に与えられたとなると穏やかでない。こちらも敵の敵は味方の格言通り、結城朝祐への対抗上南朝の旗を掲げることになる。かくして後醍醐の覚えめでたい白河結城、関宗祐らと、北朝を選んだ下総結城が鬼怒川を挟んでにらみ合う構図が生まれた。
建武3年(1336)12月、足利尊氏後醍醐天皇の講和が破れ、後醍醐が吉野に走り南朝を樹立すると、南北朝の争いはいよいよ本格的な動乱となった。その余波は鬼怒川流域にもおよんだ。
講和が破れる直前の12月10日、奥州国司北畠親房の嫡男北畠顕家の代官が白河結城と共に一説によると数万騎の大軍をもって下総国結城郡になだれ込んだ。数万騎である。これに対し、下総結城の惣領朝祐は一族である山川景重や下野国の小山一族、茂木知政らと共にこれを迎え撃って終日合戦、これを退けると、翌11日には反対に茂木らが絹河の並木渡から関郡に攻め入り、奥州軍を追い返して一帯を焼き払った。ついで13日になると今度は関郡の関宗祐らが数万騎を率いて結城郡へと侵入、激戦となった。・・・と、史料の上では奥州の北畠顕家と関宗祐の連合軍は数万騎の兵力を有し、その数万騎による侵攻を下総結城勢は退け、すぐに反攻したことになっている。ということは下総結城勢もそれなりの勢力を抱えていたと考えてしかるべきだが・・・、本当だろうか。茂木知貞という武士の軍忠状にあらわれるこの数万騎という数字は後に見直すので覚えておいていただきたい。
年が明け、建武4年(1337)2月21日、北朝足利氏の重臣石塔義房が結城郡の上瀬中沼渡より関城へ発向、数万の敵を追い散らし、数百軒の在家焼払った。このときすでに北畠顕家陸奥国霊山に帰還していたため、関宗祐は援軍を期待できぬ中、孤軍ことに当たらなければならず、被害が大きくなった。史料上は数百軒の在家焼払った、とさらりと触れているだけだが、2月という寒気のまだ厳しい時期に家を焼かれ、風雪のしのぐすべを失った人々がどのような苦境に陥ったか、想像するにあまりある。食糧や売り物になりそうな家財什器は根こそぎ略奪されただろう。物取りだけでなく人取りも戦場の常だ。文献には残らなくても、いくさは武士よりも巻き込まれる周囲の住民のほうが被害が大きいという、陰惨で厳然たる現実がそこにあったはずだ。
南朝方はその報復、というわけではないが、3月16日に後醍醐天皇の綸旨をもって結城朝祐の下総国結城郡を白河結城宗広に宛行っている。同じ結城氏同士で争わせようという肚だ。
北畠顕家が霊山に逼塞していた7月、足利方は一大攻勢に出て関宗祐の籠もる関城へ直接攻撃を加えている。このいくさで攻撃側の茂木、野本らも一族・郎党から被害者を出したが、足利方のほうが若干優勢だったようである。

〈顕家の再上洛〉
しかしこうした足利方の攻勢に対し、8月11日、北畠顕家後醍醐天皇の命に従って霊山を発ち、ふたたび上洛を開始すると情勢は一変した。顕家は春日顕国、小田治久らの味方の勢を糾合して反攻を始めると徐々に常陸、武蔵の足利勢を後退させ、佐竹氏、上杉氏、高氏、斯波家長を次々と撃破。12月にはついに鎌倉を占拠するに至った。しかし顕家の奮闘もここまでだった。休む間もなく鎌倉を立ち西上を開始する顕家であったが和泉国堺浦でついに戦死してしまう。建武5年(1338)5月のことである。前年の8月から足掛け10ヶ月にも及ぶ長期の遠征はさすがに消耗が大きかった。二十歳の若武者の最後は本人の資質や戦術云々の問題というよりは長期のいくさで心身ともに燃え尽きたというのがふさわしい。この年、南朝方で武運つたなく力尽きたのは顕家だけではなく、うるう7月には南朝方の有力武将である新田義貞も戦死している。後醍醐天皇が右腕とも懐刀ともたのむふたりの武将を立て続けに失ったことは南朝方にとって大きな打撃となった。顕家は死の直前、後醍醐の政策をいさめる上奏文を奏上していたがその効果があったのか、その後、後醍醐は独断専行を改め、北畠親房や白河結城宗広の意見を入れて態勢の立て直しをはかった。
北畠親房が軍船を仕立てて伊勢から海路東国に下ったのはその年(1338)の9月である。しかし親房の船団は途中で嵐に見舞われ遭難、四散する。行方知れずになる者、伊勢に吹き返される者(結城宗広)、敵地に漂着して殺される者があり、わずかに親房の船のみが常陸までたどり着くことができた。
前途多難を予感させる親房の常陸入りであったが、小田治久を頼ってその小田城を拠点とし、そこから常陸陸奥国出羽国南朝勢に結集を呼びかけた。特に親房が期待したのは白河結城親朝であった。親朝の父の結城宗広は親房とともに船で関東に下ったものの、嵐で伊勢に戻されたあとは同地で死去し、三木一草のひとりで弟の親光も北朝大将足利尊氏の暗殺を企てたが見破られて殺され、すでにこの世にない。南朝の忠臣であったこの両者に代わり、結城家の家督を継いだ親朝に親房が期待したのは自然な成り行きであった。これ以降、親房は親朝に宛てて救援を乞う手紙を多数、矢継ぎ早に書き送ることになるのだが、しかし肝心の親朝は父や弟とは違い、濃密に南朝に入れ込むことはなく、やや距離をおいて冷静に世の転変をみつめていたようである。


 元弘の乱後の常陸情勢
 
1335(建武2年3月10日、資料3ー9顕家下文)
 結城朝祐(下総結城)糠部郡を没収される(尊氏方であったためか)
1335(建武2年12月、資料3ー10、11)
 結城朝佑 足柄山合戦の功により尊氏から常陸関郡を与えられる
1336(建武3年12月、資料3ー20)
 12月10日、奥州国司代、引率数万騎、結城郡に寄せ来る。小山、茂木終日防戦、凶党引き退く
    11日、茂木ら、並木渡より関郡へ、凶類追返し、焼き払う。
    13日、関郡の凶徒、また引率数万騎寄せ来る
年末 那珂氏の瓜連城は佐竹氏に攻められ落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった
1337(建武4年)
  2月21日、石塔義房、結城郡から上瀬中沼渡より関城へ発向数万の敵追い散らし数百軒の在家焼払う(史料3ー21)
1337(延元2年建武4年3月16日)(史料3ー15後醍醐天皇綸旨)
 白河結城宗広、下総国結城郡結城朝佑跡を宛てがわれる
 3月5日 下野国で合戦(史料3-24)
 4月   宇都宮で合戦
 7月4日、春日顕国以下凶徒、下野国小山城打ち囲み、合戦の次第
 7月8日、常州関城合戦、足利方の桃井貞直、茂木知政、野本鶴寿丸、山川景重、結城犬鶴丸(直朝)ら藤枝原木戸口先駆け(茂木知政軍忠状、史料3ー22~25) 
8月11日、顕家、霊山を発ち、西上する(再上洛)。
 12月25日 鎌倉で合戦(茂木知政軍忠状)
*ここでいう史料とは関城町史のこと