山内経之 1339年の戦場からの手紙 その17

【駒城】

〈駒城は下総か常陸か〉 
下河辺を発った高師冬率いる北朝鎌倉勢は松岡荘加納飯沼の地に城(飯沼館)を築いてそこを大将である師冬の本陣とし、同時に八丁目・垣本・鷲宮善光寺山にも城を築き常陸国へ侵攻する機会をうかがっていた。

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駒城周辺略図

このころ山内経之は下総国結城郡山川から手紙を書いているので(「やまかはより」37号文書)、山川にある善光寺山か、この地を治める下総結城氏庶流の国人山川景重の館付近にいたと思われる。鎌倉勢はここから衣川(鬼怒川)を越え、関宗祐の関城や、関城から南東15キロの位置にあり、北畠親房が寄食している筑波山ふもとの小田城を目指すことになる。しかし常陸攻略のまえにいやでも目に飛び込んでくるのは駒城である。関城の前にちょこんと鎮座する南朝最前線のこの小城を攻略しないことには先へは進めない。

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現在の駒城跡地

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駒城の現在の所在地は茨城県下妻市黒駒である。残念ながら廃城となった今、ここにはかつてこの地に城があったことを示す味気ない看板と石碑が設置してあるのみで、ほとんど城跡と言えるほどの痕跡もとどめていない。わたし自身、実際に現地まで足を運んでがっかりさせられた。昭和のころはまだそこに堀があったと判断できるだけのそれらしい地形が残されていたそうだが、今は周囲に住宅が建てられていて痕跡をしのぶよすがもない。それはさておきこの看板、いや駒城跡は鬼怒川の東岸に位置する。鬼怒川の東岸は中世でいえば常陸国、西岸は下総国のはずである。ところが当時の史料をみると「下総国駒城」、「下総国駒館」、「下総州山川庄駒城」と、はっきり下総国であるとしている。それらの史料を信じる限り、どうやら当時は駒城は下総国に存在していたようなのだ。鬼怒川の東にありながらなぜ下総国なのか。

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凸の7が駒城 図では駒城の西に鬼怒川があるが当時は東を流れていた

常陸国下総国の境を流れる鬼怒川は昔から暴れ川で有名でたびたび氾濫を起こしてきた。つい数年前にも鬼怒川の堤防が破れて田畑が水に浸かり、家屋が流された、というニュースを聞いたが、それは今も昔も変わらない。もともとこのあたりは低湿地帯であり洪水が起きやすい。そのせいで鬼怒川の流れは当時と今は全く同じではない。現在でこそ干拓事業のおかげで平地が広がるが、もともとは平地の乏しい、大小の河川に囲まれた沼沢地であった。経之が駒城で戦っていた頃の鬼怒川は城の東側を流れ、城は下総国に位置していた。つまり今でこそ鬼怒川は駒城跡の西を流れているが、当時は駒城の東を流れていたのだ。
駒城は当時、下総国山川庄平方にあった。経之が身を寄せている山川庄は下総結城の一族である山川景重の所領であり、平方はその一部である。駒城の城主は平方宗貞という人物で、名前からして平方の地を祖地として受け継いできたのだろう。宗貞は結城家初代朝光の子朝俊の子孫にあたり、山川景重とは同族である。つまり同じ結城一族なのだ。その下総結城の一員である平方宗貞がなぜ南朝方に付いて、下総結城家が属する北朝方に楯突くのか、奇異に感じられる。山川庄の領主山川景重が北朝を選んだのなら同じ山川庄の一部である平方を預かる宗貞も北朝につくのが自然ではないか。正確な事情は分からないが、おそらくは一族内部で相克があり、山川景重との関係が険悪になった平方宗貞はこの期をとらえて独立を図り、下総結城とは袂を分かったのだ、と思われる。
しかし独立とはいっても地図を見るかぎりでは駒城はあまり地の利を得ているようには思えない。城の東側を川で塞がれているため、西側から攻めてくる鎌倉勢や下総結城本家の圧力にさえぎる物なくさらされることになる一方、いざ常陸方面に逃げようとしても川が邪魔になる、典型的な背水の陣の形になっている。また城とは言い条、駒城は「下総国駒館」と記述されることもあるように、しょせんは在地領主が平素、起臥寝食に使っている「館」に過ぎない。いくさを前に補強くらいしているだろうが、「館」に手を入れた程度の城なら鎌倉勢が大挙して押し寄せて来たならひともみに揉みつぶせそうだ。あくまで大挙して押し寄せて来たなら、の話だが。そこでこれまで話題にするのを避けてきた重要問題、鎌倉勢は結局、どのくらいの兵が集まったのか、について考えてみたい。

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駒城付近から遠く筑波山を望む

〈駒城の規模〉
鎌倉勢の総数を考えてみたいと述べたが、そのまえに駒城がどのような城だったのかを検討したい。駒館とも呼ばれた城の規模や収容人数を知らなければ駒城合戦がどのような戦いだったのか実態をつかみずらい。
前述の通り、駒城跡はほとんど跡形もないというべき惨状なので、わずかに残された史料から推測するよりほかない。「関城町史 関城地方の中世城郭跡」には駒城の推定復元図が載っている。復元図とはいっても城がどんな形をしていたかを復元したのではなく、あくまで地形図に過ぎないが。

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駒城推定復元図

現存部分から推定される駒城は東西62間(111.6M)、南北85間(153M)の方形館で、一重の堀と塀に囲まれた、武士の館にふさわしい規模といえるが、さすがにこれでは鎌倉勢を迎え撃つための戦う城としてはいささか心もとない。実際にはこの外側にさらに外郭を伴っていたことが航空写真や地割から確実である。この想定される外郭を含めると城の規模は東西250M、南北300M超というそれなりに大きなものになる。さらにその周囲を湿地帯に囲繞されていたと思われるので、関城や北畠親房のいる小田城と比較すれば見劣りはするものの、駒城の守りは当時としては決して貧弱なものとは言えないのではないか。

〈鎌倉勢の数〉
では次に予告どおり鎌倉勢の数を割り出してみたい。【北畠親房から見た常陸合戦】で、茂木知政の軍忠状によると、奥州国司北畠顕家が数万騎の大軍をもって下総国結城郡を攻めた、と書いた。これに対し、下総結城勢も互角の戦いをしていることを鑑みれば結城も同じくらいの兵力を保持していたと考えるのが素直な解釈といえる、という趣旨のことを述べた。陸奥国国司北畠顕家が絡んでいるとはいえ、鬼怒川を挟んだ北関東の、一地方の勢力争いに過ぎないいくさにそれほどの大軍を動員できるものだろうか。もしそれが事実だというのならば、北朝を代表して京から下ってきた高師冬率いる鎌倉勢なら、さぞかし雲霞のような大軍勢を催すことができたはずと思われるのだが、では実際に鎌倉勢の総数はどのくらいになったのだろうか。
ちょっと前に山内経之の手勢は意外なほど小勢ではないかと愚考した。一人の武将が率いる勢が12,3人程度なら、数万騎の大軍を集めるのに必要な武将の数はいったい何人になるのか、計算するのもばかばかしくなる。少しも現実的ではない。
しかも経之の手勢はあくまで従者を含めた数である。「~騎」とは馬上の武士のことを指し、その周囲には通常複数人の従者が付き従っている。なので「数万騎」にはそれに数倍する従者がいたと理解しなければならない。これではものすごい大軍になってしまう。さすがにこれはありえない。
結論を言えば上記の「数万騎」は茂木知貞の軍忠状の中での記述なので、自分の手柄を大きく見せるための誇張だった。現実のいくさで数万もの軍勢を動員できるようになるのはせいぜい戦国時代になってからだろう。では実数はどのくらいだったのか。
日野市史によると、常陸合戦に参加した鎌倉方の武士は44人。記録として残り、名前が明らかな者の数のみなので当然もっと多くいたはずではあるが、いずれにせよ「数万騎」とはへだたりが大きすぎる。「数万人」だとしても多すぎる。軍忠状のような一級資料は信を置くに耐えると見るのが一般的だが、これではいかに一級資料とはいえども採用できない。付け加えておくと44人というのは足掛け5年にわたるいくさの間に一度でも参加した武士の数であって、5年間ずっと戦っていたわけではない。常に増減はあったと思う。残念ながら日野市の資料だけでは駒城合戦に参加した数はわからない。
仕方がないので北畠親房結城親朝に宛てた御教書やほかの確実な史料から鎌倉勢の総数を検討、推測しかない。関係ありそうな史料を渉猟すると意外に多くの古文書が見つかった。なかには具体的な数字が書かれたものも含まれている。箇条書きに挙げてみよう。

・年が明けて暦応3年の正月22日、結城親朝北畠親房御教書には「駒楯辺凶徒、今春ハ以外微弱、散々式候(駒城周辺の敵は今春は思っていた以上に微弱で散々な有様)」「於今者静謐無程候歟(今の様子では程なく敵は静かになるだろう)」(3-32)
・同4月3日、「凶徒以外衰微、又無加増之勢候也(敵はとても弱っていて援軍もない)」(3-38)
・この駒城での戦いは暦応3年の5月末に駒城が落城することで一応の決着を見るのだが、そのとき駒城側の死者数は30余人だった。「下総国駒城没落、殞命者三十余人」(3-39)関城書裏書
・暦応4年4月5日の結城親朝北畠親房御教書曰く、「高師冬勢はたった6,70騎しかおらず、困り果てている。この機をとらえて出陣すれば倒すことができるだろう。」(「瓜連經廻勢不過六七〇騎云々」「高師冬窮蹙」「此時分奥勢打出候者、尤可然之由案内者等申候」)
・暦応4年12月、親房が籠もっていた小田城の城主小田治久が降伏し、親房自身は関城に逃れ、南朝方の退潮があらわになり始めたころの御教書で、親房は「敵は分散しておりこちらの敵は少数なので、たとえ2、300騎の援軍でもあれば敵敵を追い散らすことができる。」と援軍を求めている(「然者縦雖二三百騎勢打上テ」)(3-55)。
・興国3年(1342)正月、「雖四五百騎勢」「後悔無其益候哉」(3-57)。「4、500騎あればこちらから押し出すときに有利になる。大勢の勢を集めるためにいたずらに月日を送っていては得るものはなく後悔することになるだろう」と結城親朝にまた援軍を要請している。
・興国4年4月の親朝宛真壁幹重書状「御敵躰此ノ間見候ニ、ことの外無勢に▢りて候、」「六七百騎之分にても、御上子細あるましく候」(3-81)。南朝方の退勢いちじるしく降伏間近に迫った頃の手紙。親房からの御教書では結城親朝は動かず、代わって真壁幹重なる人物が救援を呼びかけている。強がりもあるだろうが敵は少数だ、と述べ、6、700騎くらいなら派遣できるのではないか、と懇願している。
・同じく興国4年4月、親朝宛春日顕国書状、「凶徒等躰微々散々事候間」「形勢頗相似元弘一統佳例候」「此時分勢三百騎合力候者」3-82。「(鎌倉幕府を滅ぼした)元弘の例に似ているので、300騎の助けがあれば」、と助けを求めているが、真壁幹重よりも求める数が少ないあたりに悲痛な思いがこもっている。
・親房の籠もる関城の落城半年前の興国4年5月6日、範忠なる人物の書状。「現在之分大手勢四五百騎ニ不可過、方々小楯寄合候とも、可為千騎之内候」。関城は完全に取り囲まれ、身動きが取れなくなっている状況のなかで、「敵(北朝方)は正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」と、必死に救援を求めている。

北畠親房は、鎌倉勢のことを「微弱、散々」、とか、「以ての外衰微」、などとひどい言い方をしている。高師冬が兵集めに苦労していたことと符合する内容である。鎌倉勢が兵力不足をきたしていたのは間違いない。具体的な数字があらわれている駒城落城を伝える関城書裏書によると、落城時の駒城側の死者数はわずか30余人。これは南朝側の犠牲なので鎌倉勢の数とは直接関連はないが、これを手がかりに何とか推測してみる。
一般に軍隊は30%の兵力を失うと崩壊、機能しなくなると言われているので、それを基準に駒城の死者数30余人から籠城していた兵の数を割り出すと、かなり強引だがおよそ100人前後となる。そして城攻めは3倍の兵力を要するといわれているので、100人で守る駒城を落とすには攻める鎌倉勢は300人くらい必要だったことになる。ただこれはあくまで「一般に・・・」とか「・・・と言われている」といったたぐいの、とくにこれといった明確な根拠に基づいた話ではなく、様々な事例から帰納しておおよそこのくらいではないかという経験則にすぎない。よって鎌倉勢は300人(騎?)だったと簡単に結論付けるわけにはいかない。要害堅固な城だとか、兵粮不足で兵の士気が低いとか様々な事情でも城攻めに必要な兵力は大きく左右される。
高師冬の鎌倉勢は兵の集まりが悪かった。武士たちは軍勢催促になかなか応じようとぜず、やむなく所領の没収をちらつかせて脅さなければならないほどだった。親房に「もってのほか微弱散々」などとあきれられる始末だ。ただ親房の見立ては実数に近いだろうが、あくまで結城親朝南朝方に引き入れるために書かれた書状中の方便であり、あえて相手の兵力を低く見積もることで親朝を参加しやすくする意図である可能性も否定できない。
高師冬と北畠親房による常陸合戦は実に5年近くに及んでいる。初戦の駒城での戦いこそ鎌倉勢は兵力確保に苦労したものの、それ以降は徐々に味方が集まりだし、充実していったとみられている。形勢が不利になった親房は結城親朝に再々援軍を求めているがその数も「二三百騎勢打上テ」、「雖四五百騎勢」、「六七百騎之分にても」、「此時分勢三百騎合力候者」と3桁止まりである。万には程遠い。もちろんここから鎌倉勢の数を割り出すことはできないが、そのくらいの援軍で足りるのなら鎌倉勢の数もたかが知れているだろう。
鎌倉勢の具体的な数に言及しているのは親房の御教書の「6、70騎」と、範忠の「城の正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」の二つ。
まずは「6、70騎」のほうだが、この数字は私個人的には衝撃的だった。この時代を代表する太平記などの軍記物に惜しげもなく出てくる数万、数十万という数字が誇張であることは薄々感づいていたが、そういうものに慣れてしまっていたので、「6、70騎」とは落差が大きすぎて、本当なのかとわが目をうたがった。実際にその場にいた北畠親房の御教書の記述であることからかなり実数に近いのではないかと思われるが、それにしてもずいぶん頼りない兵力である。これでも駒城合戦から一年ほど経って兵力を拡充しつつある頃の話だ。鎌倉勢は駒城合戦後、まっすぐに親房のいる小田城を目指すのではなくて、いったん常陸北部の瓜連城に入城して戦力を充実させるべく準備をし、その後、親房のいる小田城へと進軍を始めている。そのころの数である。それが「6、70騎」とは驚かざるを得ない。そんな鎌倉勢を親房は、「師冬は困り果てている」(「高師冬窮蹙」)と半ばあざけるように伝えているが、かく言う親房も事情は大して変わらないようで、その「6、70騎」を倒すために援軍を要求している。
鎌倉勢の具体的な数に言及しているもうひとつ、範忠の「城の正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」も見てみよう。このころ親房はそれまで籠っていた小田城を退去して関城にいる。小田城が落城してしまったからだ。関城は三方を沼に囲まれている、小さいがなかなか堅固な城だ。ここが常陸合戦最後の決戦の場になるのだが、親房の南朝勢は形勢がかなり悪く落城寸前であった。一方の鎌倉勢は関東や奥州をほぼ手中に収めることに成功して戦力的にも充実しているころである。「千騎」という数字は、終戦間際でそれまで日和見だった武士たちが、勝ち馬に乗ろうと付和雷同して参加したために膨らんだ結果とも考えられるが、それでも総勢千騎に満たない。
初戦の駒城合戦のときは当然もっと少なかったはずだ。千騎は多すぎで、せいぜい数百だろう。しかし「6、70騎」で城を落とせただろうか。いささか心もとないように思える。100人で守る城を攻めるのに必要な人数を300人と仮定する。少なくとも300は必要だろう。この場合の300は「騎」なのか「人」が問題になるが、城攻めの場合は騎乗の武士も下馬して戦うのが普通と思われるので「人」としておきたい。そして馬上の武士(騎)はそれぞれ数人ずつ従者を従えて参戦していると考えられるので、300人の兵力を得るのに300騎も必要とせず、100騎くらいが適当、充分といえる。ただ山内経之の場合、すくなくとも従者を10人は連れてきていると考えられるので、それを基準にすれば30騎もあれば城攻めに必要な300人は確保できることになる。しかし直感だがさすがこれは少なすぎると感じる。駒城は孤立無援の城ではなく、5キロほど背後に関城、大宝城がひかえ、さらには遠く小田城からも支援を期待できた。実際に援軍はあちこちに出没して鎌倉勢を悩ませている。援軍の数は不明だがそれらを跳ね返しつつ、城を落とすとなれば30騎の倍の60騎、総勢600人くらいは必要ではないか。・・・うむ、これだと6、70騎がにわかに真実味を帯びてくる。あやふやな前提の上に根拠の乏しい推測を重ねているのであまり真に受けないでほしいが、何も手掛かりがないよりはましなので検討してみた。どうだろうか。