山内経之 1339年の戦場からの手紙 その18

【駒城合戦】

〈第1次駒城攻撃が始まる〉 
北畠親房常陸南朝方と高師冬の北朝方の合戦は、暦応2年(1339)10月23日、師冬率いる北朝鎌倉勢による駒城への攻撃で幕を開けた。
矢部定藤という武士の軍忠状によると北朝勢は合戦前日の10月22日、鬼怒川並木渡に布陣し 、翌23日には折立渡(現結城市上山川)から川を越え駒城へ攻め寄せている。山川館城主山川景重も参戦しているので山川に滞在していた経之もこの初戦に参加したと思われるが、胎内文書には直接その旨に触れた記述はない。この日より連日いくさ続きで手紙をしたためる余裕もなかったのだろう。この22日の合戦では敵(南朝勢)を追い散らしつつ、付近の民家を焼き払い、駒城・野口で合戦に及んでいる(「越折立渡、追散凶徒、焼払在家、同駒舘・野口之合戦」)。野口とは地名というより単に大手門前の野原ぐらいの意味か。
鎌倉勢が敵地で最初にやったことは近隣の民屋を焼き払うことであった。放火、略奪、人取り(誘拐、かどわかし)はいくさでの常套手段であった。そのために多くの住人が住む家を失い、食料・家財を奪われ、着の身着のままで逃げなければならなかった。このいくさで逃げ出した人々がどうなったのかは、どの史料を見ても黙して語らないのでわからない。いくさのありふれた光景に過ぎないのでわざわざ記録を残す価値もないということなのだろうか。これから寒い季節を迎えるにあたって家や食物を失った人々がどのようにして乗り切ったのかが気になる。

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駒城地形図

一日おいて25日、北朝勢は駒館に直接攻撃を仕掛け、一ノ堀橋を乗り越えて戦っている。一ノ堀橋は城正面の馬出しと外堀に囲繞された土塁をつなぐ橋のことだろう。この日の駒城衆は籠城して守りを固め、それ以上の侵入は許さなかった。駒勢は案外手ごわいと悟ったのか、北朝勢もそれ以上の無理攻めはせず、翌26日を付城の構築に費やし、相手の様子をうかがっている。日が変わり27日になると攻守所を変えて籠城衆が討って出てきたが、北朝勢はこれを迎え撃って堀の内に追い返している。この数日間の矢合わせにおける両軍の被害の程度は伝わっていない。経之の手勢にも被害はなかったらしく、いくさ後の手紙でも特に何も触れていない。
南朝方大将北畠親房筆まめで長い文章を書くことで知られているが、その親房もこの初戦を「今度駒楯寄勢退散候」と一言軽く触れているだけだった。あまり激しい戦いではなかったのかもしれない。この数日の戦いをまとめると、
・10月22日 
 北朝鎌倉勢鬼怒川並木渡に布陣 。
・10月23日
 鬼怒川折立渡を越え、凶徒追散、在家焼き払う。駒城に攻め寄せる。
・25日 史料6
 駒館一の堀橋を越えて戦う。
・26日 史料6
 向かいの矢倉を構える。
・10月27日夜 史料6
 堀口の間から敵(駒勢)が討ってでるも追い返す。

〈戦場からの無心〉
「かせんのニハ(合戦の庭)」にいる経之は戦場で必要となる様々なものを遠い本領の土渕郷から届けるように家族に要求している。重複もあるがここでまとめて紹介したい。
茶・干し柿・搗栗
を要求していることは前にも書いた。茶は、鎌倉時代栄西が中国から持ち帰ったのがきっかけとなって各地で栽培が始まったとされ、経之が戦っていたころはまだ貴重で主に養生の薬として飲まれていた。飲み方は現代の抹茶のように粉をお湯で溶いて飲んでいたようだ。茶を要求するにあたって経之は「こはのちやにかく候ハさらん(苦くない粉葉の茶)」と指定している。「こはのちや」は粉葉の茶か、それとも古葉の茶か、日野市史史料集高幡不動胎内文書編も判断がつきかねているが、常識的に考えればやはりここは粉葉の茶だろう。経之が茶を要求している手紙はほかにももう一通あり、苦くない茶、と品質にもこだわっているくらいだから茶は好きだったのだろう。一方で酒に関する記述はないことからすると、経之は下戸だったのかもしれない。
戦いの疲れをいやしたであろう甘味としての干し柿、搗栗。搗栗は出陣前に儀式で使われるものと聞いたことはあるが戦場で食されているとは知らなかった。
・紙
筆まめな経之は紙も求めている。識字率がそんなに高くない時代にあって、経之のようにしっかりとした手紙が書くにはそれなりの教養が必要なはずである。一介の在地領主にそれだけの教育を受けるチャンスがあったかどうか疑問だ。この点については、経之の出自は相模国鎌倉郡山内郷を本拠地とする山内首藤家であり、新井殿や高幡殿のような地名を名乗っている在地領主とは違うこと、また経之は本領の土渕郷だけでなく、「ぬまと」や「かしハバら」にも所領をもっていたこと、さらに百姓らの年貢対捍に悩まされるなど百姓との関係が希薄であることも考えあわせると、一介の在地領主で片づけられる立場ではなかったと思われる。流暢な手紙が書けるに十分な教育を受ける機会に恵まれていたことがうかがえる。
・小袖、竪袴、素襖
寒い季節への備えとして小袖、竪袴、素襖などの衣類も用意しようとしている。下着として着用する小袖を2,3着、その上に羽織る素襖、竪袴は・・・、一言でいえばズボンだ。この時代の小袖の値段は記録上、だいたい1着が1貫(1000文)から2貫が相場となっている。現代の貨幣価値になおすと10万から20万円位になる。ずいぶんと高いが布地は貴重な時代だったのでこんなものか。できることなら経之にユニクロを紹介してあげたい。安くて品質も良いので・・・それはともかく、これを2,3着手に入れるために経之は在家を一軒売却するように指示している。26号文書を見てみると経之は、「何としても在家を売って代金を2貫受け取れ」(「しろを二くハんはかりにてうけ候へく候、いかやうにも御はからひ候て、さいけをう」れ)、と命じ、続く27号文書では、「何としても在家を売って小袖を手に入れなければ(寒くて?)かなわない。茶染めにしてほしい」(「一日申候しやうに、いかにしてもさいけを一けんうらせて給へく候、こそて二,三申てき候ハてはかなうましく候、ちやそめのちかほしく候」)、と色まで指定するなど注文が細かい。2貫の代金で小袖を2,3着買うとなると相場よりも少し安いようだ。
・弓
食品や衣類のほかに、いくさだから当然といえば当然だが武具も注文している。拙文の冒頭、第1部【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で鎌倉滞在中の訴訟を取り上げたが、経之はその訴訟に勝って得た在家を売り払うように申し送っている。そしてその売却代金をまずは留守宅での種々の支払いにあて、残りがあれば弓を買って送ってくれと要求している。出征前であるから是が非でも弓を手に入れておきたいところだが、信頼できる従者のいない留守中の家のことを案じて、先に留守宅の支払いにあてている。ちなみに弓の値段は、史料不足のため上下の値幅が広くて絞り切れないが、調べた限りでは一張り200文というのと1500文というのがあった。現代の価値に直せば数万円から高いものでは10万以上といったところか。
・馬
最後に馬。経之は以前、乗り換えの馬がないことを理由に「ぬまと」行きを断念しているが、山川に到着した時点でも状況は変わっていない。攻撃開始の数日前、「百姓からなんとしても鞍具足を借りて馬に乗せて連れてこい、もし鞍具足がなければ裸馬のままでいいから引いてこい」、と指図している(「ひ▢くしやうとものかたに、いかやうにも候へ、おほせ候て、くらくそくかりて、のせて給わるへく候、くらくそくハしなく候ハヽ、かちにても、むまをはひかせて下申へく候」38号文書)。以前も乗り換えの馬がないと嘆いていたが、それは「ぬまと」へ旅する際の馬の疲労を考慮しての話。戦場では乗馬が射られて怪我でもすれば使い物にならなくなる。味方が優勢で攻めているあいだはいいが、いざ退却という場面では徒立で逃げきるのは難しい。替えの馬を用意していなければ生死に関わるので是が非でも手に入れたいところだ。この馬は無事に経之の下に届いたのかは不明。ただ経之はいくさのさなか、馬が足りなくなり味方から拝借して急場をしのいでいるとの記述がある。(42号)

〈又が逃げた〉
戦いが一段落ついた28日、経之は又けさに対し、いくさの興奮も手伝ってか、あることで感情を抑えきれない怒りに満ちた手紙を書き送っている(39号文書)。
「かせんと申、るすの事と申、心くるしさ申はかりなくこそ候へ、」(合戦のこと、留守のこと、心苦しさは言いようがない)
とまずは一言、心配の種がつきない、苦しい胸中を打ち明けてから、意外な事実を告げて怒りをぶちまけた。
 「にけて候又ともの人しゆしるしてつかハし候、この物とも一人ももらさて、とりて下すへく候」(逃げた又どもの人数を教えるからこの者どもを一人も漏らさず捕まえて連れてこい。)
なんと又者(従者の従者、つまり経之の又家来)が逃げた、というのである。いくさの最中に連れてきた又者がにげるとは信じられない、滑稽な話だ。具体的に逃げたのは越中八郎、谷、紀平次の又家来という(「ゑちう八郎か又、やつの又、きへいしか又、とり候て申へく候」)。さらに、
 「これをすこしもちかゑ候ハヽ、おやともみましく候」(少しでもこの命令に従わなければ親子の縁を切るぞ。)
親子の縁を切るとはおだやかでない。怒り心頭の経之は、又けさに八つ当たり気味に当たり散らしている。経之がここまで怒気をあらわにするのは珍しい。相当腹が立ったのだろう。しかし、又けさからしたらとばっちりもいいところだ。経之の管理が悪いから逃げられたのだろうに。
それから数日経った11月2日にも経之は逃げた又どもを連れてこいと再度催促している(「さきに申候しにけのほり候し又めら、とく一人ももらさす、とり候て下されく候、」40号文書)。加えて心もとない兵力を補うために「ぬまと(陸奥国沼津)」の佐藤三郎の子にも出陣するよう求めている(「さとう三郎わらハへめらか候し▢、あひかまへて/\、はせさせ給へきよし、おくゑも申つかはさせ給へく候」)。
そんな内紛に頭を悩まされている最中の11月7日、高師冬率いる北朝勢による第2次駒城攻撃が再開された。

〈経之はいくさ用途をいくら用意できたのか〉
第2次攻撃の話に移る前に経之の乏しい懐具合について述べておきたい。いくさが長引けばそれだけ必要となる兵糧の量が多くなるのは言うまでもない。いくさ用途(費用)に四苦八苦していた経之は十分は兵糧を用意できたのであろうか。
物資不足に関連して44号文書には「ひやうらまゐも、つきてこそ(兵糧米が尽きた)」とか「大しんハうニおほせ(大進房より金を借りよ)」という記述がある。大進房は第2部【下河辺へ】の節に出てきた例の高利貸しである。経之は鎌倉よりここに至るまで関戸観音堂の坊主や新井殿にたびたび金の無心をしているがそれだけでは足りず、いくさの真っ最中にも兵粮不足に悩まれていたらしい。経之はあといくら必要としているのだろう。山川滞在時の経之の所持金額は不明だ。そこで、経之が今までに借りた合計金額、そしてその銭でどれだけの兵粮を買えるのか、さらにはその兵粮でどのくらいの期間食いつなぐことができたのか、を考えてみたい。
経之はいくさ用途をこれまで再三にわたって百姓にもとめているが、実際にいくら徴収できたのかは詳らかではない。経之が自らの所領から賄うことができた明らかなケースは、在家を売って2貫受け取れと命じている一件(26号文書)と、用途をまた1貫ばかり送れ(30号文書)といっている2例のみだ。30号でまたというからには前にも送ってきたのだろうが、それが26号の件なのか別の件かどうか、判別できない。それはともかく、少なくとも用途として自力で確保できたとはっきり言えるのは、上記の2例を合計した3貫だけだ。また28号で、在家を2貫で売って残ったら弓を買って送ってくれと要求しているが、在家を売って得たお金をまず家の出費に充当し、そのあまりで弓を買ってしまえば、あとにはいくらも残らないだろう。残念ながらこの2貫は戦地にいる経之は期待しようがない。結局経之が自ら用意できたのは3貫のみか。
経之が何くれと厄介になっている新井殿から御秘計、つまり保証人になってもらったと思われる件(25号)については、具体的な金額は不明であるが、いくらかは借りることはできたのではないかと思われる。また、34号文書では用途を2、3貫ほしいので借上(高利貸し)の大進房から5貫借りよ、とある。これも借りたあとが怖いが借りることはできただろう。ここまですべてを合計すると8貫プラス新井殿の御秘計分、ということになる。

〈戦場での米の消費量〉
金銭のほかに経之は兵粮米を1、2駄、観音堂の坊主に無心している。1駄とは、米俵を運ぶ際、大抵馬の背に2俵は乗せるだろうから、兵粮米を1、2駄なら2俵から4俵ということになる。これだけあっても兵糧米に不足をきたしている。いったい戦場ではどのくらいの量の兵粮を消費するのだろうか。
まず兵士一人あたりの、一日の米の消費量を米5合と仮定しよう。戦場で激しく動き回るためにはそれだけでは足りず、もっと多く消費していたかもしれないが、実際には兵糧の絶対量が足りず、常に空腹でいた可能性が高い。雑兵物語の言う通り「陣中は紛れもない飢饉で」あることがいくさの常態であった。だからもっと少なく見積もるほうが正確だとは思うが、ここでは成人男性ひとりの活動を支えるに望ましい量として5合としておく。
ひとり一日5合とすると、10人いたら50合、すなわち5升。米1合はだいたい150グラムだから50合は7500グラム、7.5キログラムになる。経之勢を総勢10人と少し少なめに見積もっても米を一日7.5キロも消費する計算になる。米俵1俵約60キログラムは10人の兵士のたった8日分にしかならない。観音堂の坊主から頂戴した兵粮米1、2駄程度ではせいぜい半月からひと月分がいいところである。経之は自分の所領からも米を徴収を試みたであろうが、年貢を払おうとしない百姓たちからどのくらい取ることができたのかは分明でない。
持っていく米が足りないのなら、現地で買うしかない(奪うという手もあるが、ここでは考慮に入れない)。では米1俵はいくらで買えるのだろうか。こればかりは時代、地域によってまちまちだろうし、その年の作柄の良し悪し、季節によっても左右される。すなわち収穫期と端境期では米の値段は大違いだろうし、また戦場の近くでは目ざとい商人に買い占められて値が跳ね上がる可能性もある。一口にいくらとは言い難い。だから非常に大まかではあるが、ここでは便宜上ひとつの目安として、米一合≒一文と考えておきたい。米俵1俵(60キログラム)を1合(150グラム)で割ると400、1俵は400文になる。銭1貫文は1000文なので、一貫で2,5俵、2貫あれば5俵の米が購入することができる。
経之が調達できた銭合計8貫ではだいたい20俵の米が買え、兵士10人の5ヶ月分に相当する。観音堂の坊主からもらった分の1、2駄、すなわち2俵から4俵を加えると約6ヶ月分の米になる。8月の終わりに鎌倉を出発したのだから年末はまだ兵糧米の残量にも余裕がある頃と言えそうだ。しかしこれはあくまで有り金をすべて米だけに振り向けた場合である。米だけで生きていけるはずがなく、その他副食物、馬の餌、諸々含めると、年末も近いこの時期はとうに兵糧米が尽きていてもおかしくない。やむなく借上(高利貸し)の大進房に頭を下げたのは納得できる。ちょっと分かりづらい内容になってしまったので以下、計算の基準を簡潔に。
 ・一人一日の米の消費量は5合
 ・1合は約150グラム
 ・1合は約1文
 ・一石=10斗=100升=1000合
 ・1俵は60キロ、斗升に換算すると1俵は4斗=40升=400合、値は400文