山内経之 1339年の戦場からの手紙 その19

【駒城合戦第二幕】

〈第2次駒城攻撃〉
矢部定藤の軍忠状によるとこの11月7日の戦闘は前回とは違い、高師冬の北朝勢は積極果敢に攻めている。前回は破れなかった内構の矢倉を突破して戦っている(「越内構矢倉」)。この内構の矢倉とは何を意味するのかよくわからないが正面大手門を守るために築かれた矢倉のことではないかと思う。第1次の攻防では外堀に架かる橋を越えて戦っていたが、今回は橋の先にある門を打ち破って城内に侵入した。

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駒城地形図

続いて8日には鹿垣を切り破り、高矢倉の壁に取り付いた。駒城は二重の塀に囲まれていた考えられるが、その外郭を突破して侵入し、内塀の矢倉に迫った、ということか。高矢倉を囲む鹿垣はに寄せ手をそれ以上近づけない工夫である。簡単に設置できるものだが相手を足止めし、時間稼ぎにはなる。費用対効果は高い。敵がそこで戸惑っていると矢や石礫の雨あられだ。しかしその鹿垣も破られ、あとは内塀一枚隔てての攻防である。駒勢とすればここを支えきれないと落城必死である。
しかしこの二日間の戦闘では、順調に攻めていたように見える北朝勢の損耗も大きかった。42号文書によると多数の死傷者がでている。
 「人/\これほとうたれ、てをひ候に、いまゝてをおもたハす候へハ、きかせ給候ても、かせんもいかやうに候やと、心もとなくハしおもハせ給候ましく候、」(人々がこれほど討ち死にし、怪我を負っているが、今はまだつらいとは思わない。そう言って聞かせているのに、合戦の様子はどうだ、と心配しないでください。)
前回の第1次駒城合戦とは違い、城の中まで討ち入った今度のいくさではさすがに被害は避けられなかった。そんな中でも経之は家族に心配かけまいと気丈に振る舞っているのか、つらいとは思わない(「おもたハす候へハ」)と書き送っている。
 「むまも身かほしく候、むまをくせいのもちて候しを、ゑひとのゝもとより候て、とりてたひて候、かふともこのほとハ人のかし給て候へハ、それにてかせんをもきてし候也」(馬がほしい。このほどは海老名殿の御供?が所有する馬を借りた。兜も人から拝借して使っている。)
経之は馬や兜といういくさには不可欠な物までを友軍から融通してもらっている。少し前に馬に鞍を載せて百姓に運ばせよ、と命じていたがあれはどうなったのだろう。百姓に拒まれて要求通りにとどかなかったのか、それとも届きはしたが激しい戦闘の過程で失ったのか。兜に関しても事情はよくわからない。はじめから用意していないはずはないが、戦闘中に壊れたのかもしれない。
死傷者が多い中、経之自身には怪我もなく、精神的にもくじけてないようだが、従者たちはそうではないらしい。41号文書によると「又とも▢またにけて候(又どもが数多逃げた)」とあり、多くの従者が逃げている。経之は手勢の崩壊を止められないでいる。
 「ひとはかゑりなんと申候へく候、・・・・にけ候」(帰りたいと言っている人がいる。・・・逃げてしまった)
気弱になっているのは経之の従者だけでなかった。聞くところによると、参陣している武士たちの中にも、もう帰りたい、などと話している人がいるという。実際に帰郷した者もいるようだ。既述した内容だが、同じ手紙では、「申候したてはかま、すわう給るへく候」と、堅袴、素襖を要求している。もう寒い季節である。殊に鬼怒川流域は吹きさらしの北風が冷たい。
戦況は思わしくなかった。鎌倉勢は兵力不足からくる士気の阻喪、寒さ、兵糧をはじめとする物資の不足に苦しめられていた。かたや敵である北畠親房は一連の駒城をめぐる攻防を余裕を持って受け止めている。11月21日付の白河結城親朝北畠親房御教書は、
 「此間於方々合戦、毎度御方得利、凶徒多以或討死、或被疵、悉引退候了」(この間、方々で合戦があった。毎度味方が利を得て、凶徒は多くが討ち死にするか、けがを負い、ことごとく退却していった。)
親房は味方の完勝と見たようだ。

〈落ちない城〉
二重の郭と堀で囲まれた駒城は、駒館と呼ばれることもあったように、もとはといえば在地領主である平方宗貞の館で、それに手を加えた程度の小城に過ぎなかった。親房の応援の兵が入っていたが、それもたかが知れた数だろう。そんな小城すら落とせない原因はひとえに攻める北朝勢の戦力不足ゆえにほかならない。年の瀬も近づいた頃、経之は従者の一人である小三郎が持ってきた手紙に対して返事を書いて送り返した。以下43号文書。
 「仰のことくいまゝてハへちの事なく候、このしやうも▢しのうちハおち候ぬへきやうも候」(おっしゃる通り、今のところは特に変わりはありません。この城も年内に落ちることはないでしょう。)
 「いとまをも申候てのほるへく候・・・の事こそおもひやられ・・・返々も心もとなく候へ」(休暇を願い出て帰りたいのだが・・・のことが返す返す心配でなりません。)
 「あまり人々事かき候て申上候しかとも、それにも人も候ハす候うゑ、中/\ このゝちハはたさむに候、物はしとてもかない候ましく候へハ、下ましく候よしあるへく候」(人々は物資が不足していると申し上げていますが、それでも人手不足もあり、なかなか・・・。これからの季節は寒くなる、ろくに物資が手に入らないので、帰らせてもらえないでしょう。)
ついこのあいだまで、つらいとは思わない、心配しないでください、と気丈にふるまっていた経之も戦況に良い兆しが見えないこの時期、さすがに気弱になっている。最前まで、逃げてしまった又者たちを連れてこい、連れてこなければ親子の縁を切る、とまで怒りをあらわにしていた経之が、今は意気消沈して、従容とつらい現実を受け入れようとしている。
高師冬率いる鎌倉勢は、常陸国小田城にいる北畠親房を平らげるために遠征してきたはずだが、小田城どころか常陸に入る前の小城でつまずいている。小田城は駒城の後方にひかえる関、大宝城よりもはるか南東にある。師冬とてこんな小さな城にここまで手こずるとは考えていなかっただろう。駒城勢は、北朝勢の「もってのほか微弱散々」ぶりに気を良くしたのか、こののち、徐々に城から出て戦うようになった。