山内経之 1339年の戦場からの手紙 その20

【混迷深まる城攻め、経之の最期】

〈進退窮まる北朝勢〉
駒城攻めが停滞するにともない、北朝勢のあいだで疑問や厭戦気分がただよい始めている。高師冬は、経之の主筋と思われる山内首藤時通宛の12月13日付の奉書で、「この合戦の最中に多くの軍勢がいくさを放棄して帰ってしまったなか、今もって忠節を尽くすことは神妙である」、と感謝を示している(「常州下総国凶徒誅伐事、駒館城合戦之最中、軍勢多帰国之処、至于今忠節之条尤神妙也、向後弥可被抽軍忠之状、依仰執達如件」)。大将である高師冬がわざわざ残っている武将にこのような感状を書かなければならないほど北朝勢から離反者は続出し、人心をつなぎとめることが難しくなっている。
厭戦気分は経之も同様のようで、今までは死傷者が多く出ても、家族を安心させるために、「それほどつらいとは思わないから心配してくれるな」とか、「今のところ特に変わりはない」などと書き送り、弱音を吐かずにいたが、戦況の悪化で徐々に不安に絡め取られ、諦念に似た苦衷を吐露し始めるようになっていった(45号文書)。
 「るすの事、かい/\しく候ものゝ一人も候ハてと、心もとなく候、何事も申しつかハして候へはとも、」(留守のこと、甲斐甲斐しい者が一人もいないので心もとない。戦場で起こっていることを伝えるべきだとは思っていたものの、)
 「いつとなくきら/\しくからす候あひた、ともかくも中/\申さす候」(いつの間にかだんだんといくさの先行きが怪しくなり、なかなか伝えられなかった。)
ただでさえ百姓が従わずに苦労している留守宅を案じて、経之は家族を不安にさせまいと、日々悪化していくいくさの様子を伝えられずにいた。
そんな状況下において、
 「兼又このかせんにつけ候て、三かハとのも、よろかならす悦はれ候ゑ」(この合戦について三河殿(師冬)も大変喜んでいる)
と、大将の師冬が喜んでいることを伝えている。上記の感状のことだろう。経之が直接師冬から感謝の意を伝えられたわけではないだろうが、山内時通への感状を通じて謝意が伝えられたのだろう。今も残って戦っている山内一族へまとめて礼を述べている。しかし礼を言われて経之が満足しているようには思えない。満足するどころか、経之の心労はひととおりではなく、追い込まれつつある心理状態の中で自らの死をも意識し始めている。
 「身しに候とも、大しやう、又このいきのの人/\かやうに候へハ、・・・心やすく存候」(たとえ死んだとしても大将や一揆の人々がこんなにいるのだから、家のことはよしなに計らってくれるだろう。心配はしていない。)
従容と自身の死を受け入れようとするほど激しく気分が落ち込んでいるのが見てとれる。こんなときでも「自分が死んでも大将である師冬や一揆の人々(一緒に戦っている武士たち)に家族を大切に扱ってもらえるなら・・・」、などと状況の打開を考える気力を失い、思考停止に陥っている。心身ともに疲れ切っているときに優しい言葉をかけられるとつい涙もろくなったり、場合によっては相手を必要以上に信頼して付け込まれたりすることがあるが、経之はまさにそんな精神状況に追い込まれていたのではないか。多くの武士が帰国してしまったのに律儀に残ることはないと思うのだが。戦場を後にした多くの武士たちはなんやかんやと理由、というより嘘、詭弁を並べて帰ってしまったに違いない。最後まで生き残るのは結局はそういった神経の図太い、図々しいタイプの人間だ。経之もそうすればよかったのだ。しかし経之は死を意識するまでの苦境にありながら生きるための思い切った判断、行動ができないでいる。嫌なものは嫌とはっきり言えない、流されやすいタイプのようだ。きっと真正直な人間なのだろうが、要領良く振る舞うことができない、不器用で損な性格なのだろう。そんな性格だからいくさ用途を徴収しようとしても百姓にそっぽを向かれ、又者には戦場から逃げられる。・・・胎内文書を読んでいて、経之のこういう性格をもどかしいと思うと同時に親近感も覚える。
 「仰のことくこれのしんく申はかりなく候、さりなからこれの事ハ、かねてよりおもひまうけたる事にて候、るすにかい/\しき物々一人も候はぬこそ、返々心もとなくおほえて候へ、何事よりもおとなしく、なに事もはゝこにも申あハせて、ひやくしやうともの事もあまりニふさたニて候、よく/\はからハせ給へく候」(47号文書)(おっしゃる通り辛苦は筆舌に尽くしがたいものがあります。さりながらこれもはじめから分かっていたことです。留守宅に甲斐甲斐しい従者が一人もいないのが残念でなりません。何ごとも大人らしく、百姓どものことをあまり伝えてこないが、母御と相談して、よく取り計らうように。)

f:id:ryoji20:20201111215651j:plain

駒城周辺略図

〈山内経之の最期〉
矢部定藤軍忠状によると11月29日を最後に駒勢との衝突の記録はない。北朝勢から離脱者が増え、駒城攻略に直接兵を振り向けるのが難しくなったためか。硬直した戦況は緊張とも停滞とも受け取れた。しかしながら小競り合いは各地で続いていた。ただしそれもどちらかというと北朝勢は積極的に攻めるよりも相手を恐れて守勢にまわっているかのようである。
 「・・・ふともおはさいけニより候て、十四五日、廿もこゝらゑ候もあるへく候」(47号文書)
意味を取りにくい一節だが、逆襲を警戒して駒城より少し離れた民家に寄宿して長期、無為に過ごしていたと思われる。
 「しをもとゑむかひ候しほとに、いつれもかせんはおなし事と申なから、なんきのところにて候しうゑ、こせいにて候しあひた、・・・いまゝては事なるしさいなく候、」(48号文書)(塩本へ向かっていたとき、どこでも同じいくさに違いはないが、難儀している。小勢なので・・・今のところは無事だ。)
経之は塩本(結城郡八千代町)へと移動中に敵と遭遇したが、小勢であったために苦戦している。塩本は経之が当初布陣した山川より後方に位置する。敵の攻勢に北朝勢は前線の後退を余儀なくされ、敵はかなり大胆に結城郡へと侵入してきているようだ。経之が遭遇したこの敵は駒勢というよりは北畠親房や関宗祐の派遣した南朝方の援軍だろう。幸いなことに経之は難を逃れたようだが、敵が鬼怒川を越えて積極的に押し出してきている様子がうかがえる。
 「あらいとのゝ御かたゑも状をまいらせたく存候へともさしたる事なく候うゑ、よへこのしやうへよせ候とて、よふしんニしつ・・・」(新井殿に手紙を送りたいと思ったが特に知らせることもないうえ、昨夜この城に敵が押し寄せてくるというので、用心していた。)
北朝勢は、駒城を落とすどころか反対に夜討ちを恐れて警戒を強いられているありさまである。高師冬の常陸下向の本来の目的は、北畠親房率いる南朝勢を東国から追い払うことであった。そのために高師冬は遠く京から下ってきたのだが、常陸南朝勢征伐の前哨戦に過ぎない駒城でつまずき、いまだ常陸入りすら果たせていない。
多くの武士の死傷、離脱にもかかわらず、経之はこれまでかろうじて無事にやってこれたが、しかし不幸は経之のもとにも平等に訪れた。経之の従者のひとりが戦死したのである。
 「▢郎二郎めうたれ候」(49号文書)
残念なことに欠字があって正確な名前がわからない。該当しそうな従者は七郎二郎、四郎二郎のふたり。このどちらかだとは思うが肝心な1字が不明で明らかにできない。七郎二郎は26号文書で経之の使いとして「ぬまと」へ行った(と考えられる)従者である。
 「なに事も下候し時そう/\に候て下候し事、心もとなくこそ候へ、これもかせんのひ候ハヽ、いとまとも申候て下たく候へとも、かたきのしやうもちかく候ほとに、中/\とおほえて候、」(50号文書)(常陸へ下るとき、あれこれおざなりに済ませてしまったことが心残りです。合戦がここまで延びてしまったので、休暇をもらって帰りたいのですが、敵の城も近くにあり、なかなかそれも叶いません。)
 「こんとのかせんニハ、いき候ハん事もあるへしともおほえす候へハ、かい/\しき物々一人も候▢て候・・・こそ、返々心もとなくおほえ・・・」(このたびの合戦でわたしが生き残ることはないでしょう。甲斐甲斐しい従者が一人もいないことが返す返す残念でなりません。)
経之はもう自身の死を覚悟している。こんなときでも経之は自分の死をさしおいて家族のこれからのことが頭から離れないでいる。経之が「心もとない」と綴るのはこれで何度目だろう。かつて坂東武者とは「いくさは又おやも討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越えヽ戦ふ」者、といわれたがそれは所詮は平家物語の作り話だ。実際の武士は戦場では不安でいっぱいだし、家族の幸せを切に願ってやまない普通の人たちである。当然であろう。たかだが700年前に生きた我々の先祖なのだから、今の人間と違いなどあるまい。経之は駒城合戦のはじめこそ「それほどつらいとは思わないから心配してくれるな」とか「今のところ特に変わりはない」などと気丈なことを言っていたがそれも徐々に「辛苦は筆舌に尽くしがたい」に変わり、「たとえ死んだとしても大将や一揆の人々がこんなにいるのだから・・・」とうそぶいて自分を納得させようと試みたりするようになっていった。ほんの2ヶ月前、下河辺に着陣したときに忠ある者の行く末は急に終着点が見えてきた(「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也(34号文書)」)、と書いていたが、その時、まさか自分の終着点がこんなに早く訪れ、それが駒城になると、どこまで本気で理解していたかはわからない。あれだけ家族に心配かけまいとしていた経之が、「この合戦で私が生き残ることはないでしょう」とはっきりと告げたのはなにか予感があったからなのか。この50号文書が山内経之の最後の手紙となった。