山内経之 1339年の戦場からの手紙 その21

【その後の常陸合戦】

〈駒城の落城〉
山内経之がいつ死んだのかは不明である。おそらくは最後の手紙を書いた暦応2年(1339)の12月中か、遅くても翌年のはじめのことだろう。経之が身罷ったことでこの駄文の目的も終わったが、常陸合戦そのものはこれからが本番である。以下、簡潔ではあるがその後の常陸合戦の推移をまとめておく。
年が明けてから常陸南朝勢の動きはさらに活発化した。1月11日、敵の兵粮の道を絶たんがため、関城城主関宗佑は並木渡戸に陣取った。下野国方面から鬼怒川を下って運ばれてくる敵の兵粮を押さえようという意図である。経之の手紙で見たように、ただでさえ兵粮不足に苦しんでいた北朝勢にとってはこういった締め上げはこたえたに違いない。20日には北畠親房とともに常陸に下ってきた春日顕国が、師冬軍の攻撃目標になっている駒城を救援するために駆けつけている。北畠親房北朝勢の体たらくを「駒楯辺凶徒、今春ハ以外微弱、散々」とか、「凶徒以外衰微、又無加増之勢候也」と正確に、多少の侮蔑を込めて看破したのはこの頃である。
しかし親房が喜んでいられたのもここまでであった。2月ころから北朝勢は兵力の拡充に力を入れ、新たな援軍を得て攻勢に出ている。
そして暦応3 年5月27日、いくさの開始から実に8か月も過ぎてから、駒城は30余人の死者を出してついに落城、駒城の大将で親房が駒城に送り込んだ公家の中御門少将実寛は生け捕られた。鶴岡社務記録によるとこの日駒城は「一城悉く滅亡」というから、駒城城主平方宗貞も死んだのだろう。

〈師冬、敗走、迷走〉
時間こそかかったものの、駒城を落とした北朝勢はようやく念願の常陸入りを果たせるかに見えたが、駒城が落城したその日の夜、常陸南朝勢は夜討ちを仕掛けて駒城を奪い返している。その勢いのまま、翌28日には北朝勢の拠点である八丁目、垣本、鷲宮善光寺山の城を落とすと、29日には高師冬の飯沼城まで攻略してしまった。師冬は反撃の勢いの激しさになすすべなく、陣屋を焼き払って逃走するしかなかった。
駒城周辺だけでなく別の方面でも南朝方の動きは迅速であった。駒城が落ちた直後、北畠親房は時を移さず、子息である鎮守府将軍北畠顕信を奥州へと下向させている。顕信をして北奥の南朝勢力を結集、南下させ、同時に親房が常陸から北上して陸奥国多賀国府を挟み撃ちにしようという計画である。このころ陸奥国多賀国府には石塔義房がいて北朝方の勢力下にあったが、この顕信下向は奥州の南朝勢を勇気づけ、義房の動揺を誘うことになった。義房は鬼柳義綱に宛てた書状で「無理してでも来て力を貸してください。もし急いできてくれないのなら永く恨みます(おしてのぼりて合力あるべく候、もしいそぎ打てのほらせ給はずは、ながくうらみ申へく候)」と、孤立しそうな状況に焦りを見せている。この時期、奥州ではまだ南朝方が優勢であった。
飯沼から撤退した高師冬は駒城方面から常陸入りして最短距離で親房の小田城を目指すルートを諦め、一旦常陸北部の瓜連城へ足を向けることにした。瓜連城はかつて後醍醐天皇の腹心楠木正成の甥、楠木正家によって築かれた城だが、建武3年(1336年)に北朝方の佐竹義篤によって攻め落とされてからは北朝勢が支配していた。師冬はこの瓜連城を根城として兵力の拡大に努めることになる。と同時に常陸国小田城の親房と、白河結城をはじめとする陸奥国南朝勢の間に割って入り、連絡を断つことで南朝方の勢力を分断する方針でもあった。しかしこの方針転換が現実のものとして功を奏しはじめるまではまだまだ時間を要することになる。それまではむしろ状況は悪化していったのかもしれない。
駒城が落城した翌年(暦応4年、1341年)の正月、南朝刑部少輔秀仲(親房の祐筆?)の書状によると、高師冬は京都へ常陸戦線の窮状を訴えて援軍の派遣を要請している(「師冬被廻瓜連之式、定令風聞候歟、無正躰之作法候云々、其力不可叶候旨、依愁訴于京都、可差下大将之由荒説候」)。この愁訴は北朝大将の足利尊氏に聞き入れられ、一時は高師直が関東に下向すると評定が決したが、ちょうどそのころ京でも山門(延暦寺)、南都(興福寺)が蜂起する騒動が持ち上がり、この話は立ち消えとなってしまった。結局高師冬は関東において独力で勢力を蓄えざるをえず、年が変わってもまだ瓜連城から動けずにいた。

〈小田城の攻防、藤氏一揆
ところが5月になると情勢は一変する。5月22日に師冬勢が瓜連を発ち、常陸国のほぼ中央に位置する宍戸荘垂柳城へ移った、との一報が北畠親房の耳に届いたのだ。駒城落城から約1年後のことだ。
この垂柳城への進出に親房は動揺し、白河結城親朝宛ての書状で「北朝勢は他の城を無視して今日明日にでもこの小田城を襲ってくるとの風聞がある、関東の安危はまさにこのときにかかっている(「自京都厳蜜催促之間、閣諸方直可襲当城云々、且又今明日発向之由其聞候、被待懸候、坂東之安否、宜在此時節歟」)」、と救援を求めている。しかしその頼みの綱である結城親朝の助けは例によって得られず、常陸南朝勢も兵力不足からそれぞれの城を警固するのが精一杯で積極的に打って出て戦おうしなかった。
折悪しく、時を同じくして親房の不安をさらに掻き立てるような事態が出来した。吉野の公家近衛経忠による藤氏一揆である。藤氏とは藤原一族の意味で、近衛経忠が藤原一族である小田氏、小山氏、結城氏らと語らって引き起こした、南朝内部の分裂運動である。内実は反親房運動であった。(具体的な内容は、北朝勢が今にも小田城に襲い掛かってくるとしたためた上記の手紙にくわしい。暦応2年5月北畠親房御教書)
後醍醐天皇が世を去ったあと、南朝の屋台骨を支えている中心的人物といえば北畠親房であり、後醍醐の路線を引き継いだ親房は徹底した対北朝主戦派であった。しかし親房が常陸に下向したあと、吉野に残った公家たちがみな親房と同じように好戦的で、足利尊氏率いる北朝と対決する意欲にあふれていたわけではない。むしろ主戦派は少数ではなかったか。後醍醐という絶対的な主を失ったことで、吉野まで付き従った公家たちも先行きの不安から抗戦か恭順かで揺れ動き、南朝の存続に疑義を挟む者がいたであろうことは否定しがたい。その主たる人物が近衛経忠であった。経忠は京にいたころに近衛家家督争いで敗れて行き場を失ったために失意のうちに吉野に下ってきた人物であった。そういう経歴からもわかるように、必ずしも後醍醐の反北朝、政権奪取運動に積極的に賛成、加担したのではなかった。その経忠があるとき吉野の山を下りてふと京都に戻ってきた。北朝との和解協議のためではないかと考えられる。しかしこれには京の公家たちもどう相手をしたらよいのやら困惑したようで、ただあばら家をあてがっただけでかかわりを避けている。交渉は暗礁に乗り上げていたようだ。
経忠は和解工作と並行してしなければならないことがあった。親房の処遇である。なにしろ北朝と和解しようにも主戦派の親房がいてはどうあがいても話が進まない。そこで小山氏らと共謀して関東での南朝勢の実権を握り、親房の存在を骨抜きにしようと試みたと思われる。この策動を知った親房は、「小山氏にまつわるうわさはもともとあまり信用できない話ではあるが、しかし小山氏は年少で、しかるべき補佐役もいない。もしおかしなことが起こりそうなら、よく話を聞いてあげ、教え諭してあげるべきである」、「こういう噂が口の端に上るのは痛ましいことだ。鎌倉凶徒の耳にも噂が届いてしまうではないか。小田城でも小田の家臣たちがどうふるまうべきか、と評定に及んでいる」と策動を疑いつつも影響を憂慮している。
この藤氏一揆は結局のところ結成されることはなかった。経忠の独り相撲で、小田らは乗ってこなかった。しかしこの騒動が引き起こしたさざ波は常陸南朝勢を揺さぶって疑心暗鬼を生み、のちの小田勢の寝返りへとつながってゆく。

〈小田城の陥落〉
藤氏一揆の余波が懸念されたとは言え、小田城がすぐに危機に陥ったのではなかった。師冬は小田城攻略にあたり、まずは小田城後方に控える山の上に陣を取ったが、兵力不足がたたって攻めあぐねる状況がしばらくの間続いた。小田城はいつでも師冬勢からの攻撃を受ける位置関係にあったが、6月、7月が過ぎ、8月になっても「凶徒之躰ハ難無正躰」と親房は安心しきっている。
6月23日の合戦で南朝勢は大勝し、親房は「凶徒討死手負及千餘人云々」と戦果を満足げに誇り(千人は明らかに嘘だが)、7月8日には武蔵国住人吉見彦次郎等が南朝に投降して、「まずはめでたい」と上機嫌であった。親房から見た師冬勢は「凶徒以外微々候」、「凶徒無勢之余」というありさまであり、南朝勢は戦うたびに「毎度乗勝候」のため、師冬勢は積極的に戦いを望まなかったらしく、ろくに出逢うことすらなかったという(「更不出逢候」)。小田勢が帰城すればそのすきに師冬勢は陣を出て近隣の村々で濫妨を働くが、小田勢が城から打ち出てくると陣に戻って合戦を避けた。この期に及んでも師冬はたびたび京に手紙を送って支援を求めている。わずかながら援軍が到着したようだが、今もって師冬勢にできることといえば堅固な小田城攻めではなく近隣での略奪くらいであった。他方の常陸南朝勢も兵力不足に変わりはなく、山上の敵を追い散らすまでには至らなかった。長期のにらみ合いは小田城内の人々や周辺の諸城の籠城兵の心を徐々に疲弊させ、むしばんでいった。そのため南朝勢も不慮の出来事があれば一気に崩壊してしまいそうな危険をはらんでいた(「人々心もよハ/\しき事のミ候間、若不慮之難義出来候なん後ハ、諸方落力候歟」)。
10月になると親房のかつての強気は影を潜めて悲観的になり、結城親朝への書状では、「以前は1年でも2年でも支えられないことはない、と豪語していたが、最近は苦しくなってきた」、と正直に打ち明けている。親朝本人が来れないのなら息子でよいから派兵してくれないかとも頼んでいるが、これもかなえられることはなかった。常陸南朝勢の兵力不足をよそに師冬勢は略奪に励み、常陸勢の気力はさらに削がれていった(「凶徒任雅意横行、就之よそよそしき方ハ先落気候」)。ついには東条一族の多くが変節し、下妻城中では異議を申し立てる者が現れ、長沼一族は寝返ってしまった。小田氏が師冬に城を明け渡したのは暦応4年(1341)11月10日のことであった。

常陸合戦の終焉〉
小田氏が高師冬の軍門に下ったことで、親房は関氏の関城、春日顕国は下妻氏の大宝城へと居を移すことを余儀なくされた。再々の催促にもかかわらず、結城親朝はまだ来ない。しびれをきたした親房は、親朝が遅々としているからこのような事態(小田の降伏)を招いたのだ、と愚痴っている(「依勠力之遅々、此難儀出来候了」)。この関、大宝城が常陸合戦最後の戦いの場となった。
両城はともに南北に細長い大宝沼に面しており、関城から南に2.5キロ下った位置に大宝城があり、舟でも行き来ができた。親房は大宝城の春日顕国と連携をとりながら迫りくる師冬勢に対抗しようと考えていた。

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画面中央の凸4が関城

しかし小田城落城から1ヶ月後、高師冬は小田城の本陣を焼き払い、投降した小田治久を引き連れて北へと進軍、関・大宝城の中間に陣取り、両城間の陸路を遮断、また伊佐・中郡・真壁などのほかの南朝方の諸城との道も封鎖した。さらに関城北の関城大手野口にも陣を取っておさえることに成功し、これにより東・西・南を沼に囲まれた関城は陸の孤島と化してしまった。残るは大宝沼の水路のみである。南朝勢も手をこまねいていたわけではなく、春日顕国が大宝城から討ってでて師冬勢をことごとく追い払っている(「下妻之凶徒、悉追払候」)。このころはまだ常陸南朝勢にも敵を追い払うだけの余力は残されていた。しかし関、大宝城は周囲を完全に包囲されてしまったために外からの兵糧の搬入も困難な状況に陥りつつあり、不安や動揺も広まり、関城では「羽太」と名乗る者が数人の仲間を誘ってともに城から逃げてしまった。両城はかろうじて水路を通じての往反が許されていたがそれも翌康永元年(1342)5月になると師冬勢に狙われるようになり、思うように行き来ができなくなってしまった。

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昭和13年、洪水で増水した大宝沼に浮かぶ関城跡を南から望む

親房は結城親朝に再々援軍を求めているが、親朝も敵に囲繞されていて身動きが取れない。金銭や物資を送るのが精いっぱいであったが、それも二千疋(20000文)送ったうち半分の千疋しか親房の下には届かなかった。銭は重くかさばるので見つからないように運ぶのはむつかしかったのかもしれない。ただ砂金は複数回にわたり無事に届けることができたようだ。また寒さが厳しくなる季節には衣類などを商人に託して運び込むことに成功しているが親房もこれを喜び、今後もこういう形で送ってくれないかと頼んでいる。
この年、康永元年にはたびたび戦闘が行われているが、攻める師冬勢の兵力不足と、南朝勢の奮闘もあいまって、関・大宝城は一年持ちこたえることができた。
このころの親房は、300騎でいいから援軍を送ってくれないか、とか敵は関城の正面に4、500騎、全部を合わせても千騎に満たない、などとしきりに親朝の気を引こうとしている。親朝はむつかしい判断を迫られていた。敗色濃厚の南朝方に参陣すれば結城一族の滅亡を招きかねない。親朝はすでに父宗広と弟の親光を失っていた。結城家の存続に心を砕く親朝にとってそれは受け入れがたい選択肢であった。
奥州の有力者である結城親朝に声をかけて味方に引き入れようとしていたのは何も親房だけではなかった。親朝の動向がこの常陸、ひいては関東、奥州の情勢に大きく影響することが明白である以上、敵方である北朝勢もだまっているわけがなかった。
北朝大将足利尊氏は康永2年(1343)2月、先祖代々の所領安堵を条件に結城親朝に帰順を促している。また6月には北朝奥州将軍石塔義房が親朝に対し、軍勢催促を発している。このころにはもう親朝の意は決していたようだ。
関城の楯際では昼夜を問わずぎりぎりのいくさが行われていた。師冬勢は関城の堀を埋めるため、草木を刈って堀に放り込んだ。城勢はそうはさせまいと熊手を使って取り除き、敵勢の城内への突入を防いでいた。また師冬は金堀衆を使って城内へ忍び込む横穴を掘らせていたが、城内の櫓の下まで掘り進めたところで穴が崩れて金堀衆が圧死する事故が起きたためにこれは沙汰止みとなった。そういった幸運も重なり、ここまでなんとか耐え忍んでいた籠城勢ではあったが8月になり、ついに兵糧が底をついてしまった。
8月19日、北畠親房があれほど期待していた結城親朝北朝の一員として挙兵した。親房がこの事実にいつ気づいたのかは不明だが、奥州の異変を感じ取ったのか、同月23日に「奥あたりで一体何がおきているのか(奥辺事如何か聞候らん)」と申し送ったのを最後に親房の結城親朝宛の書状は絶えた。
それから2か月半後の11月11日に関城が落城、ついで翌12日には大宝城も師冬の手に落ちた。親房は落城の際に城を脱出し、吉野へ帰還している。関城城主関宗祐と大宝城城主下妻政泰は城と運命を共にしたという。ただ春日顕国は脱出後も吉野へは帰らず、常陸に潜伏、残党兵をかき集めて4か月もの間、ゲリラ戦を展開していたが、最後は敵に捕らえられて斬首に処せられた。貴族の出である顕国が親房と一緒に吉野へ帰らなかった理由はよくわからない。


終わり