山内経之 1339年の戦場からの手紙 蛇足として

〈経之の手紙はなぜ不動明王像の胎内に保存されていたのか〉
大正の終わりか昭和のはじめころに山内経之の手紙は高幡不動尊不動明王像の胎内から、正確には首部から発見された。発見されるまで、いつからかはわからないが長期間そこにあったと思われる。一体だれが何の目的で手紙を仏像の中に入れたのかはよくわかっていない。「日野市史料集 高幡不動胎内文書編」でも検討はしているが結論を出すには至ってない。ここではその胎内文書編の解説をかいつまんで紹介する。
高幡不動堂は建武2年(1335)8月4日の嵐で壊滅的に倒壊している。この大嵐は大木を根底から引き抜くほどの強烈なもので、寺の「本尊諸尊皆もって破損」したという。不動明王像も例外ではなかった。木造の仏像は不動堂もろとも被害を受けた。その後、高幡不動のある得恒郷の領主であり、寺の旦那である平(高麗)助綱を中心に寺の再建、仏像の修復作業が進められ、7年後の康永元年(1342)6月にその念願は果たされた。

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不動明王

再建までの間常陸では北朝南朝の合戦があり、その合戦で戦死した山内経之は残念ながら再建時すでに世を去っていて再建の式典に立ち会うことはなかったが、かわりに経之の書状群がその菩提を弔う目的で不動明王像に納入された、と一般には考えられている。一般に、というのは異論もあるからだ。
まず経之の追善供養が目的で胎内に納入されたとする理由として、発見された手紙の大部分が経之のものであったこと、また印仏が押されていたことなどが挙げられる。
この印仏は、手紙の裏側(紙背)に不動明王、もしくは大黒天の図柄がスタンプのように捺されたもので、不動明王像の胎内ということもあり、文書全73点のうち60点が不動明王の図であった。
このような印仏を捺した紙を仏像の胎内に納めて死者の供養を行う宗教行事は古代以来行われてきたもので、中世では一段と広く行われていた。そのため経之の手紙も同様の目的と考えるのが自然である。だが、この経之追善供養説には若干の疑問もあるようだ。
胎内に納入された文書には経之のものが大半を占めるが、一方でまだ存命である又けさ等、ほかの人の手紙も含まれている。まだ生きている人間の追善供養はおかしい。納入の目的を経之の追善供養と考えるとこの点について説明が必要だが、生者の安心立命を目的とした生前供養(逆修)と考えれば、一応疑問は解消する。
ただ疑問はまだある。高幡不動堂の旦那は平(高麗)助綱であり、不動明王像の光背部に彫られた背銘には修復作業に携わった者の筆頭に助綱の名前がある。にもかかわらず、助綱に関連した文書は胎内に納入されてない。
また印仏自体がかなり雑に捺されているのも気になる。印仏の上下が逆さまであったり、中には手紙の裏ではなく文字が書かれている表に印仏してあるものもあり、死者への敬意が感じられない。供養のためならこんな押印の仕方はしないだろう。

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これらの疑問からすると、経之の手紙をはじめとする文書群を、不動堂再建のときに経之の追善供養のために像内に納入されたとするにはためらいがある。
そこで考えられるのが、印仏が捺された紙を切り分けて呪符として配った、という説である。
印仏が捺された紙を病魔退散などの目的で呪符を患部に張ったり、丸めて飲むことで病気の平癒を願う習俗があった。そういった目的で霊験あらたかな呪符として広く信者に配られたのではないか。そのような風習は現代でも巣鴨とげぬき地蔵などがよく知られている。
病気平癒を期待して配られたのだったら経之の供養とは全く関係のないことになり、経之の書状群は単なる反故紙として利用されただけ、ということになりそうだ。
経之の戦死後、又けさや「ねうほう(女房)」は土渕郷を引き払ったと思われる。経之が死んだのは暦応2年(1339)の暮れか翌年のはじめのことで、経之の家族がすぐに在所を引き払ったのならば、高幡不動堂の再建のころ(康永元年(1342)6月)にはもう土渕郷にはいなかったことになる。であれば経之の追善供養のため、というのは時期的にも違うように思う。
経之の家族が土渕郷を退去した際、不要になったものは処分されたであろう。紙が貴重であった時代だから手紙も捨てるのではなく回収され、反故紙として再利用されたはずだ。回収された紙はのちに病気平癒を願う人々のために印仏が捺され、呪符として配られた。不動明王像の胎内に保管されたのは呪符としての効力を増すためのまじないのような措置だったと考えられる。これなら印仏が上下逆さまだったり、表面に捺されていたとしても問題はない。どうせ切り分けるのだから上下はどうでもいいことだし、死者の追悼のためでもないのだから表だろうと裏だろうと変わりはない。
個人的には経之のことを自分なりに調べ、考え、ここまで長々と書いてきて、その最後に経之の悲劇的な死を悼む家族が追悼の気持ちを込めて仏像の胎内に納入したのだ、という美しい物語をつい期待してしたくなる。それが事実なら小説の最後を飾るにふさわしい。そういう小説を書きたかった。だが実際はそんな涙を誘うような話ではなく、冷静に考えれば、主を失った家族が失意のうちに土渕の地を去る際にあわただしく処分した紙が経之とは関係のないところで再利用されただけ、だったのかもしれない。真相がそれならばちょっとがっかりではあるが、だからといって家族の経之を悼む気持ちがなかったわけではないだろう。