山内経之 1339年の戦場からの手紙 その18

【駒城合戦】

〈第1次駒城攻撃が始まる〉 
北畠親房常陸南朝方と高師冬の北朝方の合戦は、暦応2年(1339)10月23日、師冬率いる北朝鎌倉勢による駒城への攻撃で幕を開けた。
矢部定藤という武士の軍忠状によると北朝勢は合戦前日の10月22日、鬼怒川並木渡に布陣し 、翌23日には折立渡(現結城市上山川)から川を越え駒城へ攻め寄せている。山川館城主山川景重も参戦しているので山川に滞在していた経之もこの初戦に参加したと思われるが、胎内文書には直接その旨に触れた記述はない。この日より連日いくさ続きで手紙をしたためる余裕もなかったのだろう。この22日の合戦では敵(南朝勢)を追い散らしつつ、付近の民家を焼き払い、駒城・野口で合戦に及んでいる(「越折立渡、追散凶徒、焼払在家、同駒舘・野口之合戦」)。野口とは地名というより単に大手門前の野原ぐらいの意味か。
鎌倉勢が敵地で最初にやったことは近隣の民屋を焼き払うことであった。放火、略奪、人取り(誘拐、かどわかし)はいくさでの常套手段であった。そのために多くの住人が住む家を失い、食料・家財を奪われ、着の身着のままで逃げなければならなかった。このいくさで逃げ出した人々がどうなったのかは、どの史料を見ても黙して語らないのでわからない。いくさのありふれた光景に過ぎないのでわざわざ記録を残す価値もないということなのだろうか。これから寒い季節を迎えるにあたって家や食物を失った人々がどのようにして乗り切ったのかが気になる。

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駒城地形図

一日おいて25日、北朝勢は駒館に直接攻撃を仕掛け、一ノ堀橋を乗り越えて戦っている。一ノ堀橋は城正面の馬出しと外堀に囲繞された土塁をつなぐ橋のことだろう。この日の駒城衆は籠城して守りを固め、それ以上の侵入は許さなかった。駒勢は案外手ごわいと悟ったのか、北朝勢もそれ以上の無理攻めはせず、翌26日を付城の構築に費やし、相手の様子をうかがっている。日が変わり27日になると攻守所を変えて籠城衆が討って出てきたが、北朝勢はこれを迎え撃って堀の内に追い返している。この数日間の矢合わせにおける両軍の被害の程度は伝わっていない。経之の手勢にも被害はなかったらしく、いくさ後の手紙でも特に何も触れていない。
南朝方大将北畠親房筆まめで長い文章を書くことで知られているが、その親房もこの初戦を「今度駒楯寄勢退散候」と一言軽く触れているだけだった。あまり激しい戦いではなかったのかもしれない。この数日の戦いをまとめると、
・10月22日 
 北朝鎌倉勢鬼怒川並木渡に布陣 。
・10月23日
 鬼怒川折立渡を越え、凶徒追散、在家焼き払う。駒城に攻め寄せる。
・25日 史料6
 駒館一の堀橋を越えて戦う。
・26日 史料6
 向かいの矢倉を構える。
・10月27日夜 史料6
 堀口の間から敵(駒勢)が討ってでるも追い返す。

〈戦場からの無心〉
「かせんのニハ(合戦の庭)」にいる経之は戦場で必要となる様々なものを遠い本領の土渕郷から届けるように家族に要求している。重複もあるがここでまとめて紹介したい。
茶・干し柿・搗栗
を要求していることは前にも書いた。茶は、鎌倉時代栄西が中国から持ち帰ったのがきっかけとなって各地で栽培が始まったとされ、経之が戦っていたころはまだ貴重で主に養生の薬として飲まれていた。飲み方は現代の抹茶のように粉をお湯で溶いて飲んでいたようだ。茶を要求するにあたって経之は「こはのちやにかく候ハさらん(苦くない粉葉の茶)」と指定している。「こはのちや」は粉葉の茶か、それとも古葉の茶か、日野市史史料集高幡不動胎内文書編も判断がつきかねているが、常識的に考えればやはりここは粉葉の茶だろう。経之が茶を要求している手紙はほかにももう一通あり、苦くない茶、と品質にもこだわっているくらいだから茶は好きだったのだろう。一方で酒に関する記述はないことからすると、経之は下戸だったのかもしれない。
戦いの疲れをいやしたであろう甘味としての干し柿、搗栗。搗栗は出陣前に儀式で使われるものと聞いたことはあるが戦場で食されているとは知らなかった。
・紙
筆まめな経之は紙も求めている。識字率がそんなに高くない時代にあって、経之のようにしっかりとした手紙が書くにはそれなりの教養が必要なはずである。一介の在地領主にそれだけの教育を受けるチャンスがあったかどうか疑問だ。この点については、経之の出自は相模国鎌倉郡山内郷を本拠地とする山内首藤家であり、新井殿や高幡殿のような地名を名乗っている在地領主とは違うこと、また経之は本領の土渕郷だけでなく、「ぬまと」や「かしハバら」にも所領をもっていたこと、さらに百姓らの年貢対捍に悩まされるなど百姓との関係が希薄であることも考えあわせると、一介の在地領主で片づけられる立場ではなかったと思われる。流暢な手紙が書けるに十分な教育を受ける機会に恵まれていたことがうかがえる。
・小袖、竪袴、素襖
寒い季節への備えとして小袖、竪袴、素襖などの衣類も用意しようとしている。下着として着用する小袖を2,3着、その上に羽織る素襖、竪袴は・・・、一言でいえばズボンだ。この時代の小袖の値段は記録上、だいたい1着が1貫(1000文)から2貫が相場となっている。現代の貨幣価値になおすと10万から20万円位になる。ずいぶんと高いが布地は貴重な時代だったのでこんなものか。できることなら経之にユニクロを紹介してあげたい。安くて品質も良いので・・・それはともかく、これを2,3着手に入れるために経之は在家を一軒売却するように指示している。26号文書を見てみると経之は、「何としても在家を売って代金を2貫受け取れ」(「しろを二くハんはかりにてうけ候へく候、いかやうにも御はからひ候て、さいけをう」れ)、と命じ、続く27号文書では、「何としても在家を売って小袖を手に入れなければ(寒くて?)かなわない。茶染めにしてほしい」(「一日申候しやうに、いかにしてもさいけを一けんうらせて給へく候、こそて二,三申てき候ハてはかなうましく候、ちやそめのちかほしく候」)、と色まで指定するなど注文が細かい。2貫の代金で小袖を2,3着買うとなると相場よりも少し安いようだ。
・弓
食品や衣類のほかに、いくさだから当然といえば当然だが武具も注文している。拙文の冒頭、第1部【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で鎌倉滞在中の訴訟を取り上げたが、経之はその訴訟に勝って得た在家を売り払うように申し送っている。そしてその売却代金をまずは留守宅での種々の支払いにあて、残りがあれば弓を買って送ってくれと要求している。出征前であるから是が非でも弓を手に入れておきたいところだが、信頼できる従者のいない留守中の家のことを案じて、先に留守宅の支払いにあてている。ちなみに弓の値段は、史料不足のため上下の値幅が広くて絞り切れないが、調べた限りでは一張り200文というのと1500文というのがあった。現代の価値に直せば数万円から高いものでは10万以上といったところか。
・馬
最後に馬。経之は以前、乗り換えの馬がないことを理由に「ぬまと」行きを断念しているが、山川に到着した時点でも状況は変わっていない。攻撃開始の数日前、「百姓からなんとしても鞍具足を借りて馬に乗せて連れてこい、もし鞍具足がなければ裸馬のままでいいから引いてこい」、と指図している(「ひ▢くしやうとものかたに、いかやうにも候へ、おほせ候て、くらくそくかりて、のせて給わるへく候、くらくそくハしなく候ハヽ、かちにても、むまをはひかせて下申へく候」38号文書)。以前も乗り換えの馬がないと嘆いていたが、それは「ぬまと」へ旅する際の馬の疲労を考慮しての話。戦場では乗馬が射られて怪我でもすれば使い物にならなくなる。味方が優勢で攻めているあいだはいいが、いざ退却という場面では徒立で逃げきるのは難しい。替えの馬を用意していなければ生死に関わるので是が非でも手に入れたいところだ。この馬は無事に経之の下に届いたのかは不明。ただ経之はいくさのさなか、馬が足りなくなり味方から拝借して急場をしのいでいるとの記述がある。(42号)

〈又が逃げた〉
戦いが一段落ついた28日、経之は又けさに対し、いくさの興奮も手伝ってか、あることで感情を抑えきれない怒りに満ちた手紙を書き送っている(39号文書)。
「かせんと申、るすの事と申、心くるしさ申はかりなくこそ候へ、」(合戦のこと、留守のこと、心苦しさは言いようがない)
とまずは一言、心配の種がつきない、苦しい胸中を打ち明けてから、意外な事実を告げて怒りをぶちまけた。
 「にけて候又ともの人しゆしるしてつかハし候、この物とも一人ももらさて、とりて下すへく候」(逃げた又どもの人数を教えるからこの者どもを一人も漏らさず捕まえて連れてこい。)
なんと又者(従者の従者、つまり経之の又家来)が逃げた、というのである。いくさの最中に連れてきた又者がにげるとは信じられない、滑稽な話だ。具体的に逃げたのは越中八郎、谷、紀平次の又家来という(「ゑちう八郎か又、やつの又、きへいしか又、とり候て申へく候」)。さらに、
 「これをすこしもちかゑ候ハヽ、おやともみましく候」(少しでもこの命令に従わなければ親子の縁を切るぞ。)
親子の縁を切るとはおだやかでない。怒り心頭の経之は、又けさに八つ当たり気味に当たり散らしている。経之がここまで怒気をあらわにするのは珍しい。相当腹が立ったのだろう。しかし、又けさからしたらとばっちりもいいところだ。経之の管理が悪いから逃げられたのだろうに。
それから数日経った11月2日にも経之は逃げた又どもを連れてこいと再度催促している(「さきに申候しにけのほり候し又めら、とく一人ももらさす、とり候て下されく候、」40号文書)。加えて心もとない兵力を補うために「ぬまと(陸奥国沼津)」の佐藤三郎の子にも出陣するよう求めている(「さとう三郎わらハへめらか候し▢、あひかまへて/\、はせさせ給へきよし、おくゑも申つかはさせ給へく候」)。
そんな内紛に頭を悩まされている最中の11月7日、高師冬率いる北朝勢による第2次駒城攻撃が再開された。

〈経之はいくさ用途をいくら用意できたのか〉
第2次攻撃の話に移る前に経之の乏しい懐具合について述べておきたい。いくさが長引けばそれだけ必要となる兵糧の量が多くなるのは言うまでもない。いくさ用途(費用)に四苦八苦していた経之は十分は兵糧を用意できたのであろうか。
物資不足に関連して44号文書には「ひやうらまゐも、つきてこそ(兵糧米が尽きた)」とか「大しんハうニおほせ(大進房より金を借りよ)」という記述がある。大進房は第2部【下河辺へ】の節に出てきた例の高利貸しである。経之は鎌倉よりここに至るまで関戸観音堂の坊主や新井殿にたびたび金の無心をしているがそれだけでは足りず、いくさの真っ最中にも兵粮不足に悩まれていたらしい。経之はあといくら必要としているのだろう。山川滞在時の経之の所持金額は不明だ。そこで、経之が今までに借りた合計金額、そしてその銭でどれだけの兵粮を買えるのか、さらにはその兵粮でどのくらいの期間食いつなぐことができたのか、を考えてみたい。
経之はいくさ用途をこれまで再三にわたって百姓にもとめているが、実際にいくら徴収できたのかは詳らかではない。経之が自らの所領から賄うことができた明らかなケースは、在家を売って2貫受け取れと命じている一件(26号文書)と、用途をまた1貫ばかり送れ(30号文書)といっている2例のみだ。30号でまたというからには前にも送ってきたのだろうが、それが26号の件なのか別の件かどうか、判別できない。それはともかく、少なくとも用途として自力で確保できたとはっきり言えるのは、上記の2例を合計した3貫だけだ。また28号で、在家を2貫で売って残ったら弓を買って送ってくれと要求しているが、在家を売って得たお金をまず家の出費に充当し、そのあまりで弓を買ってしまえば、あとにはいくらも残らないだろう。残念ながらこの2貫は戦地にいる経之は期待しようがない。結局経之が自ら用意できたのは3貫のみか。
経之が何くれと厄介になっている新井殿から御秘計、つまり保証人になってもらったと思われる件(25号)については、具体的な金額は不明であるが、いくらかは借りることはできたのではないかと思われる。また、34号文書では用途を2、3貫ほしいので借上(高利貸し)の大進房から5貫借りよ、とある。これも借りたあとが怖いが借りることはできただろう。ここまですべてを合計すると8貫プラス新井殿の御秘計分、ということになる。

〈戦場での米の消費量〉
金銭のほかに経之は兵粮米を1、2駄、観音堂の坊主に無心している。1駄とは、米俵を運ぶ際、大抵馬の背に2俵は乗せるだろうから、兵粮米を1、2駄なら2俵から4俵ということになる。これだけあっても兵糧米に不足をきたしている。いったい戦場ではどのくらいの量の兵粮を消費するのだろうか。
まず兵士一人あたりの、一日の米の消費量を米5合と仮定しよう。戦場で激しく動き回るためにはそれだけでは足りず、もっと多く消費していたかもしれないが、実際には兵糧の絶対量が足りず、常に空腹でいた可能性が高い。雑兵物語の言う通り「陣中は紛れもない飢饉で」あることがいくさの常態であった。だからもっと少なく見積もるほうが正確だとは思うが、ここでは成人男性ひとりの活動を支えるに望ましい量として5合としておく。
ひとり一日5合とすると、10人いたら50合、すなわち5升。米1合はだいたい150グラムだから50合は7500グラム、7.5キログラムになる。経之勢を総勢10人と少し少なめに見積もっても米を一日7.5キロも消費する計算になる。米俵1俵約60キログラムは10人の兵士のたった8日分にしかならない。観音堂の坊主から頂戴した兵粮米1、2駄程度ではせいぜい半月からひと月分がいいところである。経之は自分の所領からも米を徴収を試みたであろうが、年貢を払おうとしない百姓たちからどのくらい取ることができたのかは分明でない。
持っていく米が足りないのなら、現地で買うしかない(奪うという手もあるが、ここでは考慮に入れない)。では米1俵はいくらで買えるのだろうか。こればかりは時代、地域によってまちまちだろうし、その年の作柄の良し悪し、季節によっても左右される。すなわち収穫期と端境期では米の値段は大違いだろうし、また戦場の近くでは目ざとい商人に買い占められて値が跳ね上がる可能性もある。一口にいくらとは言い難い。だから非常に大まかではあるが、ここでは便宜上ひとつの目安として、米一合≒一文と考えておきたい。米俵1俵(60キログラム)を1合(150グラム)で割ると400、1俵は400文になる。銭1貫文は1000文なので、一貫で2,5俵、2貫あれば5俵の米が購入することができる。
経之が調達できた銭合計8貫ではだいたい20俵の米が買え、兵士10人の5ヶ月分に相当する。観音堂の坊主からもらった分の1、2駄、すなわち2俵から4俵を加えると約6ヶ月分の米になる。8月の終わりに鎌倉を出発したのだから年末はまだ兵糧米の残量にも余裕がある頃と言えそうだ。しかしこれはあくまで有り金をすべて米だけに振り向けた場合である。米だけで生きていけるはずがなく、その他副食物、馬の餌、諸々含めると、年末も近いこの時期はとうに兵糧米が尽きていてもおかしくない。やむなく借上(高利貸し)の大進房に頭を下げたのは納得できる。ちょっと分かりづらい内容になってしまったので以下、計算の基準を簡潔に。
 ・一人一日の米の消費量は5合
 ・1合は約150グラム
 ・1合は約1文
 ・一石=10斗=100升=1000合
 ・1俵は60キロ、斗升に換算すると1俵は4斗=40升=400合、値は400文

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その17

【駒城】

〈駒城は下総か常陸か〉 
下河辺を発った高師冬率いる北朝鎌倉勢は松岡荘加納飯沼の地に城(飯沼館)を築いてそこを大将である師冬の本陣とし、同時に八丁目・垣本・鷲宮善光寺山にも城を築き常陸国へ侵攻する機会をうかがっていた。

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駒城周辺略図

このころ山内経之は下総国結城郡山川から手紙を書いているので(「やまかはより」37号文書)、山川にある善光寺山か、この地を治める下総結城氏庶流の国人山川景重の館付近にいたと思われる。鎌倉勢はここから衣川(鬼怒川)を越え、関宗祐の関城や、関城から南東15キロの位置にあり、北畠親房が寄食している筑波山ふもとの小田城を目指すことになる。しかし常陸攻略のまえにいやでも目に飛び込んでくるのは駒城である。関城の前にちょこんと鎮座する南朝最前線のこの小城を攻略しないことには先へは進めない。

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現在の駒城跡地

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駒城の現在の所在地は茨城県下妻市黒駒である。残念ながら廃城となった今、ここにはかつてこの地に城があったことを示す味気ない看板と石碑が設置してあるのみで、ほとんど城跡と言えるほどの痕跡もとどめていない。わたし自身、実際に現地まで足を運んでがっかりさせられた。昭和のころはまだそこに堀があったと判断できるだけのそれらしい地形が残されていたそうだが、今は周囲に住宅が建てられていて痕跡をしのぶよすがもない。それはさておきこの看板、いや駒城跡は鬼怒川の東岸に位置する。鬼怒川の東岸は中世でいえば常陸国、西岸は下総国のはずである。ところが当時の史料をみると「下総国駒城」、「下総国駒館」、「下総州山川庄駒城」と、はっきり下総国であるとしている。それらの史料を信じる限り、どうやら当時は駒城は下総国に存在していたようなのだ。鬼怒川の東にありながらなぜ下総国なのか。

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凸の7が駒城 図では駒城の西に鬼怒川があるが当時は東を流れていた

常陸国下総国の境を流れる鬼怒川は昔から暴れ川で有名でたびたび氾濫を起こしてきた。つい数年前にも鬼怒川の堤防が破れて田畑が水に浸かり、家屋が流された、というニュースを聞いたが、それは今も昔も変わらない。もともとこのあたりは低湿地帯であり洪水が起きやすい。そのせいで鬼怒川の流れは当時と今は全く同じではない。現在でこそ干拓事業のおかげで平地が広がるが、もともとは平地の乏しい、大小の河川に囲まれた沼沢地であった。経之が駒城で戦っていた頃の鬼怒川は城の東側を流れ、城は下総国に位置していた。つまり今でこそ鬼怒川は駒城跡の西を流れているが、当時は駒城の東を流れていたのだ。
駒城は当時、下総国山川庄平方にあった。経之が身を寄せている山川庄は下総結城の一族である山川景重の所領であり、平方はその一部である。駒城の城主は平方宗貞という人物で、名前からして平方の地を祖地として受け継いできたのだろう。宗貞は結城家初代朝光の子朝俊の子孫にあたり、山川景重とは同族である。つまり同じ結城一族なのだ。その下総結城の一員である平方宗貞がなぜ南朝方に付いて、下総結城家が属する北朝方に楯突くのか、奇異に感じられる。山川庄の領主山川景重が北朝を選んだのなら同じ山川庄の一部である平方を預かる宗貞も北朝につくのが自然ではないか。正確な事情は分からないが、おそらくは一族内部で相克があり、山川景重との関係が険悪になった平方宗貞はこの期をとらえて独立を図り、下総結城とは袂を分かったのだ、と思われる。
しかし独立とはいっても地図を見るかぎりでは駒城はあまり地の利を得ているようには思えない。城の東側を川で塞がれているため、西側から攻めてくる鎌倉勢や下総結城本家の圧力にさえぎる物なくさらされることになる一方、いざ常陸方面に逃げようとしても川が邪魔になる、典型的な背水の陣の形になっている。また城とは言い条、駒城は「下総国駒館」と記述されることもあるように、しょせんは在地領主が平素、起臥寝食に使っている「館」に過ぎない。いくさを前に補強くらいしているだろうが、「館」に手を入れた程度の城なら鎌倉勢が大挙して押し寄せて来たならひともみに揉みつぶせそうだ。あくまで大挙して押し寄せて来たなら、の話だが。そこでこれまで話題にするのを避けてきた重要問題、鎌倉勢は結局、どのくらいの兵が集まったのか、について考えてみたい。

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駒城付近から遠く筑波山を望む

〈駒城の規模〉
鎌倉勢の総数を考えてみたいと述べたが、そのまえに駒城がどのような城だったのかを検討したい。駒館とも呼ばれた城の規模や収容人数を知らなければ駒城合戦がどのような戦いだったのか実態をつかみずらい。
前述の通り、駒城跡はほとんど跡形もないというべき惨状なので、わずかに残された史料から推測するよりほかない。「関城町史 関城地方の中世城郭跡」には駒城の推定復元図が載っている。復元図とはいっても城がどんな形をしていたかを復元したのではなく、あくまで地形図に過ぎないが。

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駒城推定復元図

現存部分から推定される駒城は東西62間(111.6M)、南北85間(153M)の方形館で、一重の堀と塀に囲まれた、武士の館にふさわしい規模といえるが、さすがにこれでは鎌倉勢を迎え撃つための戦う城としてはいささか心もとない。実際にはこの外側にさらに外郭を伴っていたことが航空写真や地割から確実である。この想定される外郭を含めると城の規模は東西250M、南北300M超というそれなりに大きなものになる。さらにその周囲を湿地帯に囲繞されていたと思われるので、関城や北畠親房のいる小田城と比較すれば見劣りはするものの、駒城の守りは当時としては決して貧弱なものとは言えないのではないか。

〈鎌倉勢の数〉
では次に予告どおり鎌倉勢の数を割り出してみたい。【北畠親房から見た常陸合戦】で、茂木知政の軍忠状によると、奥州国司北畠顕家が数万騎の大軍をもって下総国結城郡を攻めた、と書いた。これに対し、下総結城勢も互角の戦いをしていることを鑑みれば結城も同じくらいの兵力を保持していたと考えるのが素直な解釈といえる、という趣旨のことを述べた。陸奥国国司北畠顕家が絡んでいるとはいえ、鬼怒川を挟んだ北関東の、一地方の勢力争いに過ぎないいくさにそれほどの大軍を動員できるものだろうか。もしそれが事実だというのならば、北朝を代表して京から下ってきた高師冬率いる鎌倉勢なら、さぞかし雲霞のような大軍勢を催すことができたはずと思われるのだが、では実際に鎌倉勢の総数はどのくらいになったのだろうか。
ちょっと前に山内経之の手勢は意外なほど小勢ではないかと愚考した。一人の武将が率いる勢が12,3人程度なら、数万騎の大軍を集めるのに必要な武将の数はいったい何人になるのか、計算するのもばかばかしくなる。少しも現実的ではない。
しかも経之の手勢はあくまで従者を含めた数である。「~騎」とは馬上の武士のことを指し、その周囲には通常複数人の従者が付き従っている。なので「数万騎」にはそれに数倍する従者がいたと理解しなければならない。これではものすごい大軍になってしまう。さすがにこれはありえない。
結論を言えば上記の「数万騎」は茂木知貞の軍忠状の中での記述なので、自分の手柄を大きく見せるための誇張だった。現実のいくさで数万もの軍勢を動員できるようになるのはせいぜい戦国時代になってからだろう。では実数はどのくらいだったのか。
日野市史によると、常陸合戦に参加した鎌倉方の武士は44人。記録として残り、名前が明らかな者の数のみなので当然もっと多くいたはずではあるが、いずれにせよ「数万騎」とはへだたりが大きすぎる。「数万人」だとしても多すぎる。軍忠状のような一級資料は信を置くに耐えると見るのが一般的だが、これではいかに一級資料とはいえども採用できない。付け加えておくと44人というのは足掛け5年にわたるいくさの間に一度でも参加した武士の数であって、5年間ずっと戦っていたわけではない。常に増減はあったと思う。残念ながら日野市の資料だけでは駒城合戦に参加した数はわからない。
仕方がないので北畠親房結城親朝に宛てた御教書やほかの確実な史料から鎌倉勢の総数を検討、推測しかない。関係ありそうな史料を渉猟すると意外に多くの古文書が見つかった。なかには具体的な数字が書かれたものも含まれている。箇条書きに挙げてみよう。

・年が明けて暦応3年の正月22日、結城親朝北畠親房御教書には「駒楯辺凶徒、今春ハ以外微弱、散々式候(駒城周辺の敵は今春は思っていた以上に微弱で散々な有様)」「於今者静謐無程候歟(今の様子では程なく敵は静かになるだろう)」(3-32)
・同4月3日、「凶徒以外衰微、又無加増之勢候也(敵はとても弱っていて援軍もない)」(3-38)
・この駒城での戦いは暦応3年の5月末に駒城が落城することで一応の決着を見るのだが、そのとき駒城側の死者数は30余人だった。「下総国駒城没落、殞命者三十余人」(3-39)関城書裏書
・暦応4年4月5日の結城親朝北畠親房御教書曰く、「高師冬勢はたった6,70騎しかおらず、困り果てている。この機をとらえて出陣すれば倒すことができるだろう。」(「瓜連經廻勢不過六七〇騎云々」「高師冬窮蹙」「此時分奥勢打出候者、尤可然之由案内者等申候」)
・暦応4年12月、親房が籠もっていた小田城の城主小田治久が降伏し、親房自身は関城に逃れ、南朝方の退潮があらわになり始めたころの御教書で、親房は「敵は分散しておりこちらの敵は少数なので、たとえ2、300騎の援軍でもあれば敵敵を追い散らすことができる。」と援軍を求めている(「然者縦雖二三百騎勢打上テ」)(3-55)。
・興国3年(1342)正月、「雖四五百騎勢」「後悔無其益候哉」(3-57)。「4、500騎あればこちらから押し出すときに有利になる。大勢の勢を集めるためにいたずらに月日を送っていては得るものはなく後悔することになるだろう」と結城親朝にまた援軍を要請している。
・興国4年4月の親朝宛真壁幹重書状「御敵躰此ノ間見候ニ、ことの外無勢に▢りて候、」「六七百騎之分にても、御上子細あるましく候」(3-81)。南朝方の退勢いちじるしく降伏間近に迫った頃の手紙。親房からの御教書では結城親朝は動かず、代わって真壁幹重なる人物が救援を呼びかけている。強がりもあるだろうが敵は少数だ、と述べ、6、700騎くらいなら派遣できるのではないか、と懇願している。
・同じく興国4年4月、親朝宛春日顕国書状、「凶徒等躰微々散々事候間」「形勢頗相似元弘一統佳例候」「此時分勢三百騎合力候者」3-82。「(鎌倉幕府を滅ぼした)元弘の例に似ているので、300騎の助けがあれば」、と助けを求めているが、真壁幹重よりも求める数が少ないあたりに悲痛な思いがこもっている。
・親房の籠もる関城の落城半年前の興国4年5月6日、範忠なる人物の書状。「現在之分大手勢四五百騎ニ不可過、方々小楯寄合候とも、可為千騎之内候」。関城は完全に取り囲まれ、身動きが取れなくなっている状況のなかで、「敵(北朝方)は正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」と、必死に救援を求めている。

北畠親房は、鎌倉勢のことを「微弱、散々」、とか、「以ての外衰微」、などとひどい言い方をしている。高師冬が兵集めに苦労していたことと符合する内容である。鎌倉勢が兵力不足をきたしていたのは間違いない。具体的な数字があらわれている駒城落城を伝える関城書裏書によると、落城時の駒城側の死者数はわずか30余人。これは南朝側の犠牲なので鎌倉勢の数とは直接関連はないが、これを手がかりに何とか推測してみる。
一般に軍隊は30%の兵力を失うと崩壊、機能しなくなると言われているので、それを基準に駒城の死者数30余人から籠城していた兵の数を割り出すと、かなり強引だがおよそ100人前後となる。そして城攻めは3倍の兵力を要するといわれているので、100人で守る駒城を落とすには攻める鎌倉勢は300人くらい必要だったことになる。ただこれはあくまで「一般に・・・」とか「・・・と言われている」といったたぐいの、とくにこれといった明確な根拠に基づいた話ではなく、様々な事例から帰納しておおよそこのくらいではないかという経験則にすぎない。よって鎌倉勢は300人(騎?)だったと簡単に結論付けるわけにはいかない。要害堅固な城だとか、兵粮不足で兵の士気が低いとか様々な事情でも城攻めに必要な兵力は大きく左右される。
高師冬の鎌倉勢は兵の集まりが悪かった。武士たちは軍勢催促になかなか応じようとぜず、やむなく所領の没収をちらつかせて脅さなければならないほどだった。親房に「もってのほか微弱散々」などとあきれられる始末だ。ただ親房の見立ては実数に近いだろうが、あくまで結城親朝南朝方に引き入れるために書かれた書状中の方便であり、あえて相手の兵力を低く見積もることで親朝を参加しやすくする意図である可能性も否定できない。
高師冬と北畠親房による常陸合戦は実に5年近くに及んでいる。初戦の駒城での戦いこそ鎌倉勢は兵力確保に苦労したものの、それ以降は徐々に味方が集まりだし、充実していったとみられている。形勢が不利になった親房は結城親朝に再々援軍を求めているがその数も「二三百騎勢打上テ」、「雖四五百騎勢」、「六七百騎之分にても」、「此時分勢三百騎合力候者」と3桁止まりである。万には程遠い。もちろんここから鎌倉勢の数を割り出すことはできないが、そのくらいの援軍で足りるのなら鎌倉勢の数もたかが知れているだろう。
鎌倉勢の具体的な数に言及しているのは親房の御教書の「6、70騎」と、範忠の「城の正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」の二つ。
まずは「6、70騎」のほうだが、この数字は私個人的には衝撃的だった。この時代を代表する太平記などの軍記物に惜しげもなく出てくる数万、数十万という数字が誇張であることは薄々感づいていたが、そういうものに慣れてしまっていたので、「6、70騎」とは落差が大きすぎて、本当なのかとわが目をうたがった。実際にその場にいた北畠親房の御教書の記述であることからかなり実数に近いのではないかと思われるが、それにしてもずいぶん頼りない兵力である。これでも駒城合戦から一年ほど経って兵力を拡充しつつある頃の話だ。鎌倉勢は駒城合戦後、まっすぐに親房のいる小田城を目指すのではなくて、いったん常陸北部の瓜連城に入城して戦力を充実させるべく準備をし、その後、親房のいる小田城へと進軍を始めている。そのころの数である。それが「6、70騎」とは驚かざるを得ない。そんな鎌倉勢を親房は、「師冬は困り果てている」(「高師冬窮蹙」)と半ばあざけるように伝えているが、かく言う親房も事情は大して変わらないようで、その「6、70騎」を倒すために援軍を要求している。
鎌倉勢の具体的な数に言及しているもうひとつ、範忠の「城の正面に4、500騎、あちこちの小城を合わせても千騎に届かない」も見てみよう。このころ親房はそれまで籠っていた小田城を退去して関城にいる。小田城が落城してしまったからだ。関城は三方を沼に囲まれている、小さいがなかなか堅固な城だ。ここが常陸合戦最後の決戦の場になるのだが、親房の南朝勢は形勢がかなり悪く落城寸前であった。一方の鎌倉勢は関東や奥州をほぼ手中に収めることに成功して戦力的にも充実しているころである。「千騎」という数字は、終戦間際でそれまで日和見だった武士たちが、勝ち馬に乗ろうと付和雷同して参加したために膨らんだ結果とも考えられるが、それでも総勢千騎に満たない。
初戦の駒城合戦のときは当然もっと少なかったはずだ。千騎は多すぎで、せいぜい数百だろう。しかし「6、70騎」で城を落とせただろうか。いささか心もとないように思える。100人で守る城を攻めるのに必要な人数を300人と仮定する。少なくとも300は必要だろう。この場合の300は「騎」なのか「人」が問題になるが、城攻めの場合は騎乗の武士も下馬して戦うのが普通と思われるので「人」としておきたい。そして馬上の武士(騎)はそれぞれ数人ずつ従者を従えて参戦していると考えられるので、300人の兵力を得るのに300騎も必要とせず、100騎くらいが適当、充分といえる。ただ山内経之の場合、すくなくとも従者を10人は連れてきていると考えられるので、それを基準にすれば30騎もあれば城攻めに必要な300人は確保できることになる。しかし直感だがさすがこれは少なすぎると感じる。駒城は孤立無援の城ではなく、5キロほど背後に関城、大宝城がひかえ、さらには遠く小田城からも支援を期待できた。実際に援軍はあちこちに出没して鎌倉勢を悩ませている。援軍の数は不明だがそれらを跳ね返しつつ、城を落とすとなれば30騎の倍の60騎、総勢600人くらいは必要ではないか。・・・うむ、これだと6、70騎がにわかに真実味を帯びてくる。あやふやな前提の上に根拠の乏しい推測を重ねているのであまり真に受けないでほしいが、何も手掛かりがないよりはましなので検討してみた。どうだろうか。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その16

第3部 常陸合戦

北畠親房から見た常陸合戦】

〈合戦が始まる前の常陸情勢〉
ここからはいよいよ山内経之が戦った駒城合戦を中心に常陸合戦を扱っていきたい。常陸合戦は通常北畠親房常陸に漂着し、それを追って高師冬が京から下ってきた暦応3年(1339)から始まるとされているが、常陸やその周辺の北関東ではそれ以前からその地域の領主たちによる争いが頻発していたのであり、それが本来武士とは関係のない南朝北朝の争いに取り込まれる形で拡大・激化していったのが常陸合戦である。
鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱(1333)後の常陸情勢について振り返ってみたい。北畠親房常陸国に漂着するより前、常陸国と、衣河(鬼怒川)を挟んだ対岸の下総国の関係は決して平穏ではなく、小競り合いが絶えなかった。争いは主に常陸国関郡の支配をめぐり関宗祐と、下総国結城郡の結城朝祐・直朝父子(下総結城)の対立として現れてくる。
鎌倉の武家政権に替わり、建武の新政を開始した後醍醐天皇は結城家の惣領であった結城朝祐を冷遇し、かわりに分家に過ぎなかった結城 宗広・親光(白河結城)を重用したが、そのことが結城朝祐を後醍醐、ひいては南朝側から離反させる契機となった。特に結城宗広の次男親光は後醍醐に寵愛され、三木一草のひとりとしてその栄達が世にうらやまれるほどであった。一方、冷遇された結城朝祐は親光への対抗上、足利尊氏北朝側にすり寄っていくことになる。
建武2年(1335)の12月、北朝方として参戦した結城朝祐は足柄山合戦の功により尊氏から常陸関郡を与えられたが、これが結城朝祐と関宗祐が争う直接のきっかけとなったと考えられる。常陸関郡の領主関宗祐はそれまで南朝北朝のどちらに加勢するのか旗幟不分明であったが、大事な領地が勝手に他人に与えられたとなると穏やかでない。こちらも敵の敵は味方の格言通り、結城朝祐への対抗上南朝の旗を掲げることになる。かくして後醍醐の覚えめでたい白河結城、関宗祐らと、北朝を選んだ下総結城が鬼怒川を挟んでにらみ合う構図が生まれた。
建武3年(1336)12月、足利尊氏後醍醐天皇の講和が破れ、後醍醐が吉野に走り南朝を樹立すると、南北朝の争いはいよいよ本格的な動乱となった。その余波は鬼怒川流域にもおよんだ。
講和が破れる直前の12月10日、奥州国司北畠親房の嫡男北畠顕家の代官が白河結城と共に一説によると数万騎の大軍をもって下総国結城郡になだれ込んだ。数万騎である。これに対し、下総結城の惣領朝祐は一族である山川景重や下野国の小山一族、茂木知政らと共にこれを迎え撃って終日合戦、これを退けると、翌11日には反対に茂木らが絹河の並木渡から関郡に攻め入り、奥州軍を追い返して一帯を焼き払った。ついで13日になると今度は関郡の関宗祐らが数万騎を率いて結城郡へと侵入、激戦となった。・・・と、史料の上では奥州の北畠顕家と関宗祐の連合軍は数万騎の兵力を有し、その数万騎による侵攻を下総結城勢は退け、すぐに反攻したことになっている。ということは下総結城勢もそれなりの勢力を抱えていたと考えてしかるべきだが・・・、本当だろうか。茂木知貞という武士の軍忠状にあらわれるこの数万騎という数字は後に見直すので覚えておいていただきたい。
年が明け、建武4年(1337)2月21日、北朝足利氏の重臣石塔義房が結城郡の上瀬中沼渡より関城へ発向、数万の敵を追い散らし、数百軒の在家焼払った。このときすでに北畠顕家陸奥国霊山に帰還していたため、関宗祐は援軍を期待できぬ中、孤軍ことに当たらなければならず、被害が大きくなった。史料上は数百軒の在家焼払った、とさらりと触れているだけだが、2月という寒気のまだ厳しい時期に家を焼かれ、風雪のしのぐすべを失った人々がどのような苦境に陥ったか、想像するにあまりある。食糧や売り物になりそうな家財什器は根こそぎ略奪されただろう。物取りだけでなく人取りも戦場の常だ。文献には残らなくても、いくさは武士よりも巻き込まれる周囲の住民のほうが被害が大きいという、陰惨で厳然たる現実がそこにあったはずだ。
南朝方はその報復、というわけではないが、3月16日に後醍醐天皇の綸旨をもって結城朝祐の下総国結城郡を白河結城宗広に宛行っている。同じ結城氏同士で争わせようという肚だ。
北畠顕家が霊山に逼塞していた7月、足利方は一大攻勢に出て関宗祐の籠もる関城へ直接攻撃を加えている。このいくさで攻撃側の茂木、野本らも一族・郎党から被害者を出したが、足利方のほうが若干優勢だったようである。

〈顕家の再上洛〉
しかしこうした足利方の攻勢に対し、8月11日、北畠顕家後醍醐天皇の命に従って霊山を発ち、ふたたび上洛を開始すると情勢は一変した。顕家は春日顕国、小田治久らの味方の勢を糾合して反攻を始めると徐々に常陸、武蔵の足利勢を後退させ、佐竹氏、上杉氏、高氏、斯波家長を次々と撃破。12月にはついに鎌倉を占拠するに至った。しかし顕家の奮闘もここまでだった。休む間もなく鎌倉を立ち西上を開始する顕家であったが和泉国堺浦でついに戦死してしまう。建武5年(1338)5月のことである。前年の8月から足掛け10ヶ月にも及ぶ長期の遠征はさすがに消耗が大きかった。二十歳の若武者の最後は本人の資質や戦術云々の問題というよりは長期のいくさで心身ともに燃え尽きたというのがふさわしい。この年、南朝方で武運つたなく力尽きたのは顕家だけではなく、うるう7月には南朝方の有力武将である新田義貞も戦死している。後醍醐天皇が右腕とも懐刀ともたのむふたりの武将を立て続けに失ったことは南朝方にとって大きな打撃となった。顕家は死の直前、後醍醐の政策をいさめる上奏文を奏上していたがその効果があったのか、その後、後醍醐は独断専行を改め、北畠親房や白河結城宗広の意見を入れて態勢の立て直しをはかった。
北畠親房が軍船を仕立てて伊勢から海路東国に下ったのはその年(1338)の9月である。しかし親房の船団は途中で嵐に見舞われ遭難、四散する。行方知れずになる者、伊勢に吹き返される者(結城宗広)、敵地に漂着して殺される者があり、わずかに親房の船のみが常陸までたどり着くことができた。
前途多難を予感させる親房の常陸入りであったが、小田治久を頼ってその小田城を拠点とし、そこから常陸陸奥国出羽国南朝勢に結集を呼びかけた。特に親房が期待したのは白河結城親朝であった。親朝の父の結城宗広は親房とともに船で関東に下ったものの、嵐で伊勢に戻されたあとは同地で死去し、三木一草のひとりで弟の親光も北朝大将足利尊氏の暗殺を企てたが見破られて殺され、すでにこの世にない。南朝の忠臣であったこの両者に代わり、結城家の家督を継いだ親朝に親房が期待したのは自然な成り行きであった。これ以降、親房は親朝に宛てて救援を乞う手紙を多数、矢継ぎ早に書き送ることになるのだが、しかし肝心の親朝は父や弟とは違い、濃密に南朝に入れ込むことはなく、やや距離をおいて冷静に世の転変をみつめていたようである。


 元弘の乱後の常陸情勢
 
1335(建武2年3月10日、資料3ー9顕家下文)
 結城朝祐(下総結城)糠部郡を没収される(尊氏方であったためか)
1335(建武2年12月、資料3ー10、11)
 結城朝佑 足柄山合戦の功により尊氏から常陸関郡を与えられる
1336(建武3年12月、資料3ー20)
 12月10日、奥州国司代、引率数万騎、結城郡に寄せ来る。小山、茂木終日防戦、凶党引き退く
    11日、茂木ら、並木渡より関郡へ、凶類追返し、焼き払う。
    13日、関郡の凶徒、また引率数万騎寄せ来る
年末 那珂氏の瓜連城は佐竹氏に攻められ落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった
1337(建武4年)
  2月21日、石塔義房、結城郡から上瀬中沼渡より関城へ発向数万の敵追い散らし数百軒の在家焼払う(史料3ー21)
1337(延元2年建武4年3月16日)(史料3ー15後醍醐天皇綸旨)
 白河結城宗広、下総国結城郡結城朝佑跡を宛てがわれる
 3月5日 下野国で合戦(史料3-24)
 4月   宇都宮で合戦
 7月4日、春日顕国以下凶徒、下野国小山城打ち囲み、合戦の次第
 7月8日、常州関城合戦、足利方の桃井貞直、茂木知政、野本鶴寿丸、山川景重、結城犬鶴丸(直朝)ら藤枝原木戸口先駆け(茂木知政軍忠状、史料3ー22~25) 
8月11日、顕家、霊山を発ち、西上する(再上洛)。
 12月25日 鎌倉で合戦(茂木知政軍忠状)
*ここでいう史料とは関城町史のこと

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その15

【下河辺へ】

〈高利貸しの「大しんハう」〉
鶴岡社務記録によると10月3日、下河辺でまた合戦があった(「十月三日、常州合戦、今日矢合之由聞之間、千返陀羅尼始行、其外種々祈祷始之了、」)。この合戦に経之は参戦していない。前述の33号文書で9月の27,8日には必ず必ず下河辺へ下るといっていたが、この予定もまた延期され、実際に経之が下河辺に到着するのは10月12日か13日であった。(妻宛10月12日日付の36号文書「これも十日なかへゝつき候て候か、けふ十二日ニていにしたかひ候て下かうへゑつかれ候へく候(10日なかへについた。この様子なら今日12日に下河辺に着くでしょう)」。「なかへ」は該当地不明。村岡と下河辺の間だろう。34号文書に、下河辺の向かい太田荘に着いた、とあることから、「なかへ」はこの太田荘に属しているのかもしれない(「下かうへのさうへのむかひにつき候て」)。
この頃になると経之はもう金策になりふり構わなくなってきている。とある僧に宛てて、
 「いかやうに仰せ候ても、ようとう二、三くハん、ほしく候、大しんハうにおほせ候て、ようとう五くハんとりちかゑてかせと仰せあるへく候」(どうしても用途2,3貫必要だ。大しんハう(大進房か)に言って用途5貫を所領と交換で借せと交渉してください)
と、所領を担保に借上(かしあげと読む)と思しき「大しんハう」なる人物から5貫(5000文)を借りるように頼んでいる。借上とは高利貸しのことだ。誰だってできれば関わりたくない借上に借りなければならないほど切羽詰まっていたのなら、先日の帰郷はあまり功を奏さなかったのだろう。うろおぼえながら借上に借りると金利は月6文子、と何の本か忘れたが読んだ記憶がある。年、ではない。月6文子だ。100文借りれば一月で106文にして返さなければならない。年率なら72%にもなる。本当だろうかと疑いたくなるが、現代だって闇金(もういないか)に借りればトイチ(10日で1割)なんて話を聞くから本当かもしれない。

〈忠ある者の行く末は〉
戦場が近くなったことで経之の心境にも変化が訪れている。同34号文書で、忠ある者の行く末は急に終着点が見えてきた、といつになく不安な心境を吐露している(「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也」)。経之はこれまで幾度もいくさを経験してきているはずだが、鎌倉幕府崩壊から南北朝の動乱期という激動の時代をくぐり抜けてきた経之でも合戦を前にするとやはり心が落ち着かなくなるようだ。そんな経之のことを武士らしくない、弱気だ、と非難すべきだろうか。武士の一般的イメージといえば少々極端ではあるがおおかた、平家物語の次の一節に代表されるような姿ではないかと思う。平家物語は巻第五富士川のくだりにおいて、東国の武士は「いくさは又おやも討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越えヽ戦ふ候。西国のいくさと申は、おや討たれぬれば孝養し、いみあけてよせ、子討たれぬれば、その思ひなげきによせ候はず。兵糧米尽きぬれば、春は田つくり、秋はかりをさめてよせ、夏はあつしと言ひ、冬はさむしときらひ候。東国にはすべて其儀候はず。」と、貴族文化に染まった西国武士をけなす一方、東国武士の剽悍さを武士の典型、あるべき姿として誇っている。しかしこれが本当の武士の姿だろうか。軍記物やそれを下敷きにした小説、新渡戸稲造の「武士道」、また「葉隠れ」の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」のようなくだりに接すると、武士とは今の我々とはかけ離れた存在のように思えてしまう。文化や習慣だけでなく精神構造からして全く別のものとつい考えがちになる。しかし実際の武士の姿はそのような潤色された軍記物とは違うようだ。経之の手紙からはそういった理想化された武士像はみじんも感じられない。胎内文書はそういう思い込みを改めさせてくれるという意味でとても貴重な資料といえる。

〈妻への手紙〉
いよいよ合戦の日が目睫に迫ってきている。34号文書から36号文書には、経之のあせり、緊張の高まり、胸が押しつぶされそうな悲壮感が現れている。
 「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也」(忠ある人々の行く末は今、急に終着点が見えてきた。)
戦力が十分に整わないことや遠い常陸までの遠征に不安を覚えたのか、この先、過酷な運命が待っていそうなことを「帰趨がつく」と表現している。
続く35号文書では、10月9日には必ず合戦になると断言し(「この九日ハかならす/\かせん候てあるへく候」)、関連してこのころ「よりあひ」(軍議)が開かれている。
そして経之の手紙の中でも佳境のひとつ、とでも言うべき10月12日付、妻にあてた36号文書は、いくさを前にした武士の、人間らしい偽らざる心情が奔出している。残念なことに文書の保存状態が悪く欠字だらけで一部しか読み取れないが、可能な限り抜き出してみる。
 「なにさまみやう日ハ、けんちやうニてあるへく候、なに事もさたまり・・・」(何があろうとあすはいよいよ合戦だ。運命は定まり・・・)
 「返々かせんのニハ・・・よりほかは申・・・心ほそくこそ・・・」(返す返す戦場というのは・・・より他に言うことは・・・心細く・・・)。
息子の又けさ宛ての手紙では事務的な連絡が多いが、妻宛の本状では、不安で揺れ動く心情を隠すことなく吐露している。そして結びに、
 「あすハかならす/\これをハたゝれ候へく候也、はや/\御こひしくこそ候へ/\、・・・」(明日は必ずここを出発します。まだいくさは始まっていないのに、もう恋しくてなりません・・・)。

〈茶・干し柿・搗栗〉
下河辺に到着したが、しかし経之の合戦はまだ始まらない。振り返れば10月9日には必ず合戦になると言っていたのにその日は戦場にも着かず、10月12日の手紙では明日こそは合戦だ、と気を引き締めていたにもかかわらず、その合戦の日とされた13日に経之はとても戦闘があったとは思えない、なんとものんきな手紙を書き送っている。以下、37号文書。
 「二まいらせ候、一にこはのちやにかく候ハさらんを、てらへ申て、入候て給るへく候、一にはなかにちやにてもかへ入候て給るへく候」
少し意味を取りずらい文書だ。「日野市資料集高幡不動胎内文書編」の解説によると「皮籠のような容器をふたつを送るので、ひとつには粉茶(もしくは古葉)の苦くないものを寺にお願いしてもらってきてください、もうひとつには茶でも買って入れてください」くらいの意味だそうだ。手紙は続けて、
 「▢しかき、かちくりすこし▢り候て候し、かへ入候て、もち候へく候」(干し柿、搗栗を少し買って送ってください)
などと、搗栗など戦場で欠かせない食品を求めている。下河辺からの手紙のはずだが合戦の緊迫感が感じられない。この日、いくさはなかったのだろう。

南朝勢の撤退〉
10月3日の矢合わせ以外にも、国境を越え下総国下河辺まで進出してきた常陸南朝勢と北朝方の先遣隊との間で小競り合いくらいはあっただろうが、高師冬率いる北朝鎌倉勢本体との本格的な衝突に至る前に南朝勢は一旦陣を引き払い、常陸国へとかえったと思われる。下河辺まで来た経之であったが、またしてもいくさに遭わずに済んだ。この撤退について、南朝方の重鎮であり、常陸における南朝勢の指導的立場にある北畠親房の御教書にはそれを推測させる記述がある。親房の手紙は読むのもうんざりするほど長いものが多いが、ここではその一部を引用する。
 「鎌倉凶徒率武蔵・相模等勢、寄来之由其聞候、今明之間、定寄歟之由、被待懸候也、鎌倉辺まても?可被打上之処、所々城郭等難被打捨、面々加斟酌了、今寄来之条、中/\早速静謐之基歟、就之?可被措合于常陸堺候」(武蔵、相模勢を率いた鎌倉凶徒が攻め寄せてきたと聞いた。今日明日にもきっとやってくるだろうから待っているところだ。いそぎ鎌倉まで攻め上るべきであるが、所々の城郭を捨てがたく、そのへんを考慮してやめた。今敵がやってくるのならかえって黙らせる良い機会になる。よっていそぎ常陸の境に軍勢を置くべきである)。 #注 ?はハム心、「怱」の異体字で「急ぎ」の意味
雑な訳で申し訳ないが、大意は伝わるだろう。親房は、敵の鎌倉勢がやってくるのならわざわざこちらから出てゆかずとも城郭をたのんで立て籠もり、返り討ちにすれば良いと考えている。下河辺は野与党の支配地域であり、常陸勢は下河辺を応援するために援軍を派遣してきたが、下河辺から南朝勢が引いたのもそういう意図があったものと思われる。
ちなみにこの暦応2年9月28日の結城親朝宛て御教書では後醍醐から義良親王への践祚も伝えている。
 「吉野殿御譲国事、定風聞候欤、奥州宮被開御運之条、聖運令然候哉」(後醍醐天皇が退位されたとのうわさを聞いているか。義良親王の運が開けてきたのは聖運のなせるわざか)
親房は突然の代位に困惑している。寝耳に水だったのだろう、代位の理由を義良親王の聖運のたまものと解したが、本当の理由は後醍醐の死によるものだった。後醍醐が亡くなったのは8月15日。経之たちが鎌倉から出発する直前のことだ。後醍醐の死は南北朝の争いのさなか、当然伏せられただろうが、そんな肝心な話がひと月以上たった9月の末になっても南朝重臣である親房の元には届いていなかった。
南朝勢の撤退後、経之を含む鎌倉勢はようやく常陸との国境にある下総国結城郡山川という地に布陣した。以後、鎌倉勢と常陸勢は衣川(ときに絹川、鬼怒川のこと)を挟んで対峙し、主に両者の中央に位置する駒城をめぐって攻防が繰り広げられることになる。経之にとってももういくさは避けられないところまで来た。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その14

【村岡宿での出来事】

鎌倉街道を北に〉
8月の終わりに鎌倉を立った高師冬率いる北朝勢がまず向かったのが武蔵国国府(現在の東京都府中市)である。国府は鎌倉から北進し多摩川を超えたあたりに位置する。鎌倉府の執事であり、武蔵国の守護でもある師冬はここで武蔵の武士を糾合して戦力を充実させつつ、常陸へ向かうつもりであった。鎌倉勢がいつここに到着し、どのくらい滞在したのかは経之の手紙にはこれと言って言及がないのでわからない。一行は武州国府をさらに北上し、国府から50キロの地点にある同じ武蔵国大里郡村岡宿(現埼玉県熊谷市)が次なる目的地である。村岡宿は下河辺のある下総国武蔵国の国境に近く、交通の要所にあり、また宿場という性質上宿泊施設も多いことから鎌倉勢が兵や兵糧を補充する最後の拠点としてふさわしい。そのせいか鎌倉勢は国府よりもむしろここで時日を送っている。ただし戦略的に、というより兵の集まりが悪いために無為に時間を費やしているという印象が強い。
矢部定藤なる武士の軍忠状によると村岡に到着したのは9月8日のことだった。村岡まで武蔵の国府からは1日、2日で移動できる距離である。鎌倉からでも3、4日あればまず問題はなさそうな距離だ。鎌倉のある相模、武蔵は高師冬率いる北朝勢の支配地域であり、邪魔する敵はいない。行軍に支障はないはずだ。なのに8月20日に出発して9月8日に到着ではちょっと時間がかかり過ぎている。戦闘はすでに7月9日、下総国下河辺荘で始まっているにもかかわらずである。物見遊山じゃあるまいし、のんびりと行軍している余裕があるとは思えない。鎌倉勢の歩みは遅い、と言わざるを得ない。村岡到着後もすぐに発進したわけではない。31号文書には、
 「はう/\のはやむまのさうにより候ほとに、下かうへゑ下候ても、やかてかせんなんともある事も候へく候、いまハさたまりやらす候、さりなから下かうへに、一四五日もあるへきよし仰候へハ、」(方々に放たれた早馬の報告によると、下河辺に下ればすぐに合戦になることもあるだろう、いまはまだ定かではないが、しかし下河辺には14,5日にはゆくとの仰せがあった)
とあり、村岡宿に長々と腰を据えている様子が見て取れる。いったいなぜそんなに腰が重いのかといえばやはり軍勢の集まりが悪いからだ。32号文書は、
 「あまり人も候ハて、何事もふさたニて候しほとに、申て候、これはていにしたかひて、この月のすへまても、これにある事う▢あ▢へく候、せいは廿月廿四日の日むけられ候へく候(原文ママ)」(あまりにも人が揃わないので手持ち無沙汰です。人が言うには、この様子では月末までここにいるのは間違いないそうです。軍勢は9月24日に下河辺へ向けられるとのことです)
と、敵を目の前にしながら味方が足りずに戦えないというありえない醜態を晒している。しかもこの9月24日発向すら果たされず、結局鎌倉勢の村岡駐留はひと月以上にもおよび、出発は10月までまたなければならなかった。

〈笠幡の渋江殿〉
村岡宿からの出発が遅れたのは頭数が足りないからという消極的な理由だけだろうか。もしかしたら他の理由もあったのではないかと思わないでもない。第1部【常陸へ向け、鎌倉を出発】の章〈むかはぬ人は〉で以下の件を紹介したが、それが鎌倉勢が村岡宿に長くとどまっている理由を推測する手がかりになるかもしれない。
 「むかはぬ人はミな/\しよりやうをとられへきよし申候、そのほか御しやう申人ともは事に人の申候へハ、ほんりやうをとられ候也」(下河辺に向かわない人はみな所領を召し上げられる。その他訴状?を出して異議を唱える人は本領も没収されるそうだ)34号文書
所領の没収をちらつかせて参陣を要求していることを示すこの記述は単なる脅しではなく、実際に処分をくだされてしまった人もいたようだ。
 「かさハたのきたかたニしほゑとのゝあととも給候物か、そらからを申してミなニかくるへきよし申候」(笠幡の渋江殿という人が嘘をついて皆処分されてしまった)。
笠幡は経之の所領のひとつである柏原に近い。その地の武士が所領を召し上げられてしまった。経之としても他人事とは思えなかっただろう。この「しほゑとの(渋江殿)」は武蔵七党の野与党に属する渋江氏のことと思われ、笠幡は「しほゑとの」の所領のひとつと思われる。野与党の支配地域は下河辺に重なる部分がおおく、また同地は南朝方の勢力が優勢だったため、「しほゑとの」が師冬の催促に従わなかったのは、「しほゑとの」個人の意思というよりは、野与党の総意に基づく決断として南朝についたから、とみられる。下河辺に向かわぬ人の中には単にサボタージュした人もいれば、笠幡の渋江氏のように武蔵国の領主でありながら自発的に南朝方に付いた武士もいた。
その報復として渋江氏は所領を没収されてしまった。ここでこの所領の没収処分について考えてみる。ただ一口に没収といっても没収された人が素直に出ていけばよいが、そのまま居座ってしまえば処分は実効性を持たない。通常闕所地(没収された土地)は別の誰かに宛てがわれたあとは、その人自ら実力行使で奪い取る必要があった。ちょうど安保光泰が去る6月に敵の所領である松岡荘を宛てがわれたときのように。このとき安保光泰はすぐに軍事行動を起こしている。武蔵守護の高師冬からすれば自身の守護国から違背者が出たにも関わらず放っておいては示しがつかないし、こういう輩は常陸に向かう前に叩いて後顧の憂いを断っておく必要があった。そうしなければ常陸南朝勢と対戦中に背後を脅かされかねない。ただし渋江氏の場合、笠幡の地が野与党の根拠地である下河辺から西に遠く離れた飛び地のような位置にあり、むしろ武蔵国府に近いことから争ったりはせずに粛々と退却したのではないかと思われる。
また後顧の憂いを発つ、という理由のほかに、実利上の理由も考えられる。季節はちょうど9月(旧暦なので現在でいえば10月頃にあたる)、収穫期のさなかにある。敵方に付いた武士を懲らしめるだけでなく兵糧となる米を奪えば一石二鳥だ。山内経之のようにいくさ用途の捻出に四苦八苦している武士からすれば収穫したばかりの米を兵糧として手に入れることができるのだから嬉しくないわけがない。こう考えれば高師冬が村岡に長期滞在した目的は単に軍勢が集まるのを待っていただけでなく、笠幡の渋江殿のような「むかはぬ人」たちに対する処分とプラスαの利得が含まれていたと考えられる。

〈村岡宿での経之〉
村岡宿で山内経之は何をしていたのだろう。暇を持て余して昼寝でもしていたのだろうか。
残念ながら経之にはそんな余裕はなかった。実際は村岡に到着後も相変わらずいくさ用途(費用)の心配ばかりしている。これでいったい何度目だろう、30号文書では、
 「人の▢うとうを又いくハんはかりを、・・・候、いかやうにすへしとも・・・」(用途を一貫ばかりなんとしても送れ。)
と求めている。しかし家計が苦しいのは重々承知と見えて、同じ手紙で、
 「はやさそうせち(想折)も、のこりすくなくありけに候、るすの事も、いつもの事にて候へども、御いたわしくこそ候へども、いかようにも御はからい候て、ようとうも、」(生活費も残り少なくなっているようで、留守中のこともいつものことで不憫に思っていますが、なんとかして用途を)
と、残してきた家族の日々の生活費すらままならない状況を気遣いつつも、しっかり費用は要求している。ただ他方で経之は衣服を染めに出して結構な出費をしている。
 「かき、あさきハ百ニて候、ふたへ物ハ百あまりに候てそめ候也、まいらせ候しかたひらも、そめたく候しかとも、▢▢▢ようとう候ハて、」(単衣を柿色、浅黄色は百文、袷は百文以上で染めた。送った帷子は染賃が足りなかった)
と、少なくない出費をしていくさ前に服を染めている。
月末の24日、31号文書によれば、この日に鎌倉勢は下河辺に下る予定だったが、経之は休暇をもらって武州土淵郷の家に帰っている。もちろんのんびりと休むためではなく、あくまで金策のためだ。名宛人不明の9月25日の手紙(33号文書)を見てみよう。
 「わさと人をまいらせ候、うけ給るへき事候て、昨日二三日のいとまを申候てのほりて候、廿七か八のころ、かならす/\下へく候、御ひま候ハヽ、こなたへも御こへ▢へく候、よろつけさん(見参)ニ申▢け給るへく候」(わざわざ人を遣わしたのはお尋ねしたいことがあったからです。昨日(24日)2,3日の休みをもらって帰郷しました。27,8日には必ず必ず下河辺へ下ります。お暇があれば、こちら(経之の自宅?)へお越しください。いろいろお会いしてお願いしたいことがあります)。
誰宛ての手紙かはわからないが、経之のお願いごとといったら借財以外に考えにくい。経之は慎重になっているのか、いきなりその人の家に押しかけるのではなく、丁重に使者を立てて、自宅へ迎えいれようとしている。が、敵もさる者、経之の誘いの手には容易に乗ってこなかった。
 「御むかひに人をまいらせたく存に、御ひまも候ハぬよし、うけ給候あひた、人とも遣候也、これはやかて/\下へく候」(お迎えに人を行かせたいのですが、お隙がないとの由、承りました。代わりに人を遣わしたいのですが、これはすぐにすぐに着きます)。
迎えに行くという経之の申し出を、相手は忙しいから、との理由で面会を避けている。相手としたら、経之の家に招かれて歓待され、いい気分になったところで借財の話を持ちかけられたら断りにくい。そうやすやすと経之の手に乗らないように慎重になっている。しかし経之とて簡単に引き下がる訳にはいかない。そちらが来ないんだったらこちらからと、さらに使者を送ろうとしている。お迎えを拒否されてもなお使者を送っているあたり、経之もなかなかしつこい。それだけ追い込まれているということか。 

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その13

第2部 戦場までの行軍

【山内経之の従者】

〈経之勢は何人いたのか〉
さて、暦応2年(1339)の8月のおわり頃、山内経之は高師冬の供をして鎌倉を離れ、最初の目的地である武蔵国国府を目指して鎌倉街道を北上中であるが、その先、常陸国の戦場に到達するまではまだまだ時間がかかる。その間に経之の手勢について考えてみたい。経之はいったいどのくらいの従者を引き連れていくさにのぞんだのだろうか。小説を書く際、この問題には非常に頭を悩まされた。残念なことに経之の手紙にはこの重要な点についてあまり参考になりそうな記述がないので、具体的なことは皆目見当がつかない。しかし全く不明では小説にならないので自分なりに足りない知識と想像力を働かせて検討してみた。以下は不正確であろうことをご理解の上で、参考程度と思って読んでもらいたい。
手勢の数を推測するにあたって、まず、胎内文書資料集から経之の従者と思われる名前をすべて拾い出してみた。手紙の中のそれらしい人物名を数えると、断定はできないが少なくとも17人?は従者であろうと推測できる。もちろんこれはあくまで手紙に出てくる従者の数にすぎず、きっとこの他にもいたであろうから実際の数は不明である。
・山内経之家の従者  
  おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)
  さとう三郎(佐藤?三郎)
  しきめ▢のひこ三郎(彦三郎)
  さうとう二郎
  ゑちう八郎(越中八郎)
  やつ(谷)
  きへいし(紀平次か)
  いや七入道(弥七入道)
  八郎四郎
  太郎二郎入道
  太郎八郎
  ひこ三郎(彦三郎)
  七郎二郎
  四郎二郎
  小三郎
  やすのふ
  二郎太郎
  五郎  
#「しきめ▢のひこ三郎」と「ひこ三郎」については、「日野市史史料集 高幡不動胎内文書編」では同一人物としているので、ここでもそれに従うことにする。
戦場にはこの17人全員が行ったのかというとそうではない。行かなかった者もいる。むしろ経之の供をして常陸に下ったのが確実と言える従者の方が少ない。以下に実際に戦地まで赴いたことが明らかな者の名をあげる。
常陸まで経之の供をしたことが明らかな者
  ゑちう八郎(越中八郎)
  やつ(谷)
  きへいし(紀平次か)
確実に、と断言できる者はわずか3人しかいない。この者たちに共通していえることは、それぞれが独自の従者を抱えているという点である(39号文書に「ゑちう八郎か又、やつの又、きへいしか又」という記述がある。又とは又者、又家来のことで、従者の従者という意味)。独自の従者、つまり経之からしたら又者、又家来を抱えているということは、その従者は山内家での地位が高く、それなりに良い待遇を得ているということだろう。ただ、この3人とは違い、同じように従者を抱えていながら下らなかった者もいる。「おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)」だ。大久保の弥三郎が経之に従わなかった理由はよくわからない。従わないどころかこの者からは反抗的な印象すら受ける(「おほくほのいや三郎又くたしせぬ物ともに、しハらくのなかに、まいらせよと申へく候」39号文書)。大久保の弥三郎は本人が下らないだけでなく、又者を常陸に下らせよという経之の命を無視しているようなのだ。この大久保の弥三郎は一体どういう人物なのだろう。

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土渕郷古地図



経之の本領である土渕郷の古地図をみると大久保という地名がある(今もある)。ほかにも新井や谷もある。新井はすでに書いたことだが、経之が日頃から親しくしている新井殿の所在地と考えられ、新井殿は長くそこに住み着いて地名を名字として名乗るようになったのであろう。ならば同様に大久保の弥三郎や「やつ(谷)」も、もともとこの土渕郷の住人であり、経之とは経之が土渕郷へ移住してきてから主従関係を結ぶようになったのではないか。ということは大久保の弥三郎や「やつ(谷)」は武士の郎党ではなく、百姓、それも地名を名乗るくらいだからこの地を代々受け継いだ、この地域における指導的な立場の百姓と考えるべきだろう。それなら大久保の弥三郎が経之の命令を無視していくさに参加しない理由も理解できるかもしれない。百姓ならふつう(戦国時代のように徐々に軍勢に組み入れられるようになった時代とは違い)従軍を拒否するだろうし、土渕郷の百姓らはもとより年貢のこと、いくさ用途のことで常日頃から新規領主である経之と衝突していた。大久保の弥三郎はこの地の有力百姓であり、百姓を代表して経之と折衝にあたり、その過程で経之とは険悪な関係になっていったと容易に想像がつく。だから主人である経之から、いくさに参加せよとの仰せがあったのにかかわらず、恬として聞き流して従わなかったに違いない。ただ、同じ百姓(と思われる)の「やつ(谷)」は参戦している。事情はわからないが、ひとそれぞれ、立ち位置や性格の違いか。
また、常陸に下った「ゑちう八郎」ら上記3人に加え、もうひとり、四郎二郎か七郎二郎のどちらかも確実に常陸での戦闘に参加している。49号文書の記述からそれは間違いないのだが、非常に残念なことに「▢郎二郎め」と肝心な部分が欠字となっていてどちらなのかわからない。「▢郎二郎め」は戦場での重要なエピソードにかかわりがあるのでまたあとで触れる。
ここまで常陸に下ったのが明らかな従者は4人。うち3人には又者がいる(「▢郎二郎め」に又がいたかは不明)。経之勢の総数を考えるうえで、又者をそれぞれどのくらい連れて行ったかが問題になるがさほど多くはないだろう。身の回りの世話をする者や戦場での旗持ち、楯持ち、馬の口輪取りなど、戦場でどんな役割が求められるのかはわからないが又家来という性質上、せいぜい2,3人ではないか。とすると「ゑちう八郎」ら3人の手勢は又者も含めて9人から12人ということになる。これを前提に経之本人、「▢郎二郎め」を加えて経之の手勢を計算すると11人から14人となる。これではさすがにちょっと少ないような気がするが・・・。

そのほかの従者についても検討する。
「さとう三郎」は参戦しなかったひとりだ。実際のところ、行けなかった、身動きが取れなかった、というべきかもしれない。「さとう三郎」はおそらく山内家の代官として、経之の所領のひとつである奥州の「ぬまと」(陸奥国牡鹿郡沼津)を預かっている(40号文書「さとう三郎わらハへめらか候し▢、あひかまへて/\、はせさせ給へきよし、おくゑも申つかはさせ給へく候」)。奥のさとう三郎に、息子に馳せさせよ、と伝えるように命令している経之の手紙からそう推測できる。「おく」の話は何度か出てくるが「おく」の従者として名前の挙がるのはさとう三郎しかいないので、その内容からさとう三郎は「おく」を代官として預かっていたとみることができそうだ。大事な所領を任されるくらいなのだからそれだけ信頼の厚い郎党に違いない。であれば山内家での地位も高く、従者(又家来)もそれなりに抱えていたはずだ。それなのに経之が戦力になりそうな「さとう三郎」を呼ばないとは考えづらい。事実、以前も紹介したが、経之は「ぬまと」と連絡を取ろうと試みている。しかし来なかった。そのわけは難しくない。陸奥国にある「ぬまと」から常陸まで下る場合、障害になるのが陸奥国南部、今の福島県あたりだ。この地域にはかつて陸奥国司であった北畠顕家が拠点としていた霊山(りょうぜん)があり南朝方の支持が多い。そこを通過して常陸でのいくさに参加するのは困難だったろう。「さとう三郎」の不参にはそういう理由があった。「さとう三郎」の息子も参陣していないだろう。
次に、しきめ▢のひこ三郎(彦三郎)について検討したい。彦三郎は経之の手紙の中で最も多く登場する従者であり、経之が鎌倉に滞在していたときも供をするなど、経之の信頼がとくに厚く、重用されている。彦三郎にも従者(又家来)の存在が確認できる(鎌倉滞在中に裁判沙汰を起こしている)。しかしそんな彦三郎でも従軍したかどうかは不明だ。たしかに経之勢が鎌倉を出発した直前の時期には彦三郎とその従者も鎌倉にいたので、経之の常陸下りに同行した可能性が高い。しかし本格的な戦闘が始まった10月の終わりに、彦三郎は経之あてに手紙書いていると思われる記述もあり(「しきめ▢のひ▢三郎かふ▢▢▢返事」39号文書、この文書は経之が息子の又けさ宛てた手紙で、彦三郎からの手紙に対する返答として書かれている。彦三郎から何か質問があり、その答えとして又けさに指示をしたのだろう)、また、経之は又けさ宛の手紙で、彦三郎によく伝えよ、と命じたりもしている(「ひこ三郎によく/\とき申へく候、」40号文書)。このことから彦三郎は本領の土渕郷で留守を守っていたかもしれない。留守中の家のことを常々心配していた経之のことだから、信頼している従者の彦三郎を土渕郷に残して任せていた、と考えられる。したがって彦三郎は参戦しなかった可能性が高い。
その他の人物は箇条書きで簡単に。
・小三郎と「やすのふ」は、又けさの手紙を戦場の経之まで届けている(「小三郎が下候のふミ、」43号文書、「やすのふの下のふミ、」47号文書)ことから参戦はせず、ただの連絡係といった役割か。このふたりは百姓かもしれない。
・いや七入道(弥七入道)も大久保の弥三郎とならんであまり従順ではないようだ。(「いや七入道めかなんこに候しものか、せふん/\申をも▢す候、おほくほのいや三郎おなしく▢▢しせぬ物ニて候」47号文書)。弥七入道はどこに行ったのか、せふんせふんを申して、大久保の弥三郎とおなじで・・・、と反抗的な態度が垣間見れる。「せふんせふん」の意味はわからない。経之の郎党なのかそれとも百姓なのかも疑問が残るが、入道というくらいだから隠居した百姓か。
・八郎四郎は宿直をしていた?(「八郎四郎ひ・・・・とのいよく/\申へく候よし、申つけへく候」)。ならば不参だろう。
・太郎二郎入道は不明ながら、名前から年寄りであろうこと、また4号文書で八郎四郎と一緒に農作物に点札を立てる作業に従事していることから、八郎四郎と一緒に留守を守っていたかもしれない。百姓?、いずれにせよ不詳。
・太郎八郎も不明。経之は又けさ宛の手紙(40号文書)で、太郎八郎に何かを伝えるよう指示している。これも留守居か。
・さうとう二郎、不明。47号文書の(「おくゑ・・・ひんき候ハヽ、さうとう二郎か・・・」)から奥州と何らかの関係がありそうだ。参戦の有無は不明。
・二郎太郎。不明。
・最後に五郎。さんざん経之からの催促を受けながら無視しているフシのある五郎。やはり行かなかったと見るべきか。
以上17名、ざっと従者たちの動向を概観するとこのようになる。やはり経之に付き従って常陸に下った者は少なそうだ。正確な数はもとよりわかるはずがないが、もしかしたら本当に経之の手勢は12,3人程度だったのかもしれない。

 〈五郎という従者〉
経之の従者の中で特に気になるのが五郎だ。五郎は経之の手紙の中で登場回数が6回と、もっとも多く登場する彦三郎の10回に次ぎ、2番目に多い。それだけ登場するのであれば重用されている家臣と考えてもおかしくないと思うのだが、実際の五郎の行動を見ていると、どうもそうは思えない。経之に付き従って鎌倉滞在中に突然寺で宿直したいと言い出して帰郷したり、帰郷後も参陣するよう命令を受けておきながら逃げているような身勝手、自堕落な人物だ。経之から信頼されている彦三郎が独自の従者を抱え、留守宅の仕事を任せられるなど山内家において重要な存在であることが明らかなのに対して、五郎は自由気ままにふるまい、許されるはずのない行動をとっているが、この従者はいったいどういう人物なのか、不思議でならない。忠臣という言葉がまったく似合わない、いつ追放されてもおかしくない五郎の身分や人となりを考えてみたい。
そもそも五郎は武士の郎党か、それともただの百姓なのだろうか。五郎には名字がなく彦三郎のように「又」(独自の従者)を抱えているわけでもないことから、郎党であったとしても中間や若党などの比較的地位の低い武士階級だと考えられる。しかし郎党の立場にありながら主人である経之の命令に背くなどの不遜な態度はどうにも解せない。経之は6号文書で信頼できる部下がいないと嘆いていたが、そのとき名前が挙がっていたのは唯一五郎だ(「あまり物さはくり候物候ハて、事さらふさたにて候、五郎をも、ちかくは人も、又これの事も、つやゝゝなること候ハねとも」)。そんな部下はさっさと首にすればよいではないか思うのだが、一方で経之は人手が足りていないことを匂わすようなことも述べている。人材不足の経之家中では切りたくても切れなかったのかもしれない。
経之の家中で反抗的な態度をとるのは何も五郎だけでなく、「おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)」のような百姓と思われる人物も同様である。百姓らが領主の経之に強気な態度をとるのは度重なる年貢やいくさ用途の請求に対する反発と、外からやってきたにわか領主と親密な関係を築けていないことによるのだろう。とすると五郎の不遜な態度も百姓ゆえなのだろうか。
時代背景を考慮に入れれば、五郎が下人だった可能性もある。以前、第1部【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で、武士(御家人)が窮迫して最終的に無足の御家人になる、と書いたが、百姓だって飢饉や病など様々な事情で生活苦におちいり、借金のかたに田畑を差し押さえられることはあった。債権者による差し押さえという点では現代と変わりはないが、大きな違いは借金を返せなければ奴隷へと身分を落とされてしまう時代であったという点だ。そこで考えたのだが、もしかしたら五郎は元百姓で、それが凶作による飢饉で年貢を払えないなどの事情があり、身分を下人(奴隷)に落とすことになってしまったのではないか。
鎌倉時代には飢饉の際、飢えて食えなくなった者を下人として所有してよい、という法律(御成敗式目)があった。耳を疑うように法律だが、背景には飢えて死ぬくらいなら奴隷のほうがまだましだろうという発想があった。奴隷商人に都合がいいだけの詭弁におもえるが、幕府に可能な弱者救済処置はその程度のものだった。そういう背景を考えあわせれば、五郎の不遜な態度も理解できるような気がする。下人に身を落とした五郎は経之の下に引き取られた。武士の郎党ではなく、進んで経之に付き従っているわけではないため、ほかの従者のように主人の経之と強い紐帯でむすばれているわけでもなく、いくさについてこいと言われても迷惑に思ったことだろう。また、下人に身分を落とした人の絶望を考えれば、寺くらいしか頼れる場所がなく、望みを託すのは後生のことばかりであってもおかしくない。

 

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その12

常陸へ向け、鎌倉を出発】

北朝勢の内紛〉
常陸に漂着して以降の北畠親房は、北関東や奥州で南朝方の勢力の扶植、拡大に力を注ぎ、常陸国から絹川を越えて隣国の下総国下河辺まで軍勢を進めるなど積極的な動きを見せている。それに対し、高師冬率いる北朝勢はいまだ鎌倉にとどまったままで、いっこうに常州御発向の軍令は下らない。常陸下りの日取りはなかなか決まらない。
その背景には軍勢の集まりが悪い、という事情があった。師冬は自身の守護国である武蔵国を中心に関東中の武士を結集しようと呼び掛けたものの、武士たちの反応は鈍かった。師冬の軍勢催促に武士たちの腰が重かったわけは、端的に言えばいくさ続きであらたに勢を起こす余裕がなかったからだ。いや、それ以前に積極的に参陣する理由も乏しかった。武士たちには鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱のときのような動機がなかった。元弘当時、多くの御家人をいくさへと駆り立てた背景には、得宗である北条一族に権限や富が集中する専制政治への不信、反感、怒りがあり、乱は、幕府が御家人の生存のよりどころである所領を十分に安堵して生活の保障してやれなくなったことへの不満の爆発であった。しかしこんどの常陸征伐においては、経之をはじめとする武士の多くはたしかに所領問題など様々な不満を抱えてはいたものの、それ自体は南朝勢と戦う明確な理由にはなり得なかった。武士が戦う理由の最大のものは所領の帰属争いであり、南朝政権によって所領を奪われた、というような特殊な事情がない限り、師冬に従っていくさに出向くには動機が不十分だった。
しかも北朝方内部に目を向けると、ここにも問題があった。当時、北朝方は決して一枚岩ではなく、足利尊氏を頂点とした北朝武家は、尊氏の弟である足利直義一派と、尊氏の執事高師直、師泰兄弟に与する一派に分裂していた。この内訌は高師冬の軍勢催促にも影響を与えたはずである。高家の一員である師冬が鎌倉に下ってきたとき、師冬は武蔵国守護と鎌倉府執事の地位に就任しているが、この執事職にはもうひとり足利直義に近い上杉憲顕がいた。関東北朝方の武士の中には、直義に心を寄せる者もいれば、高兄弟に同調する者もいたであろう。直義派の武士たちが高師冬とのかかわりを避けようとしたとしても不思議ではない。さらにいえば、師冬には申し訳ないが、北朝方の大将が師冬だったというのも影響したかもしれない。4年前の中先代の乱のときには京から足利尊氏御大が自ら鎌倉に下向してきた。このときと同じように尊氏が下って来たならば関東中の武士も気を引き締めて我先に鎌倉に駆け出したかもしれない。が、残念ながらやってきたのは尊氏ではなく、弟の直義でも、執事の高兄弟ですらなかった。明らかに格落ちの師冬が相手では「師冬? 誰だそれは?」と値踏みされたのでは、と勘ぐりたくなる。
8月1日の26号文書には出発が決まらないもどかしい雰囲気が現れている。
 「たちあしちかくなり候てなんと申候て、此七八ニはあらす候ゑとも、とてもかやうに候て、いくほとも候ハねハ、三かハとのゝむさし▢▢下も、廿日ころにてあるへく候」(発足間近といわれていてさすがに今月の7、8日のことではないだろうが、この様子ではそんなに先のことではなく、三河殿の武蔵下りは20日頃になるだろう)
師冬が鎌倉に到着してから2ヶ月近く経っている。その間、安保光泰の先遣隊こそ常陸へ向かったものの、常陸国と境を接する下総国下河辺荘では攻め込まれて苦戦している状況にもかかわらず、肝心の本体である師冬率いる鎌倉勢は、戦う以前にいまだ十分な兵すら集まっていない。

〈出陣の日はいつになるのか〉
師冬勢の常陸下りの日取りが初めて明らかになったのは、7月に書かれたと思われる20号文書で、日取りは8月11日であった(「ら月の十一日は、かならす/\ひたちゑ下へく候」原文ママ)。
ところが「来月の11日には必ず必ず」、と強調していたにもかかわらず、この11日には出発せず、13日へと延期になってしまった。
 「ひたち下の事、いまゝてかやうにのひ候へハ、人めない人ならすなけき入▢▢十三日ニたち候ハはや▢▢候へとも、今日・・・」(23号文書)。
意味は分かりづらいが、「今までこんなふうに(何度も)延期されれば、ひと目を気にせず放言するような人でなくとも嘆いてしまう。13日に出発できれば、と思っても・・・」ぐらいの意味か。単に11日が13日にたった二日延びただけならそう目くじらを立てるほどのことではないと思うが、手紙を読む限りでは、それまでもたびたび出発の噂はあったがその都度期待は裏切られていたようだ。出発が遅れていたため、武士たちから「今度もどうせ・・・」、と半ばあきれられている様子がうかがえる。武士たちからしてみれば、人をわざわざ鎌倉まで呼びつけておきながら、出発日すら決まらない斯様な体たらくでは、やきもきして愚痴のひとつやふたつ言いたくなるのも道理である。武士の不満の元はそれ以外にも、現実的な損失が発生していることも理由になっている。ただ無為に鎌倉に滞在しているだけでも宿代やら食費などで銭は出ていくのだ。経之も鎌倉滞在中に滞納した宿代が1貫文(千文)にものぼって困っている(「いまたやとためも一くハんあまり」30号文書)。この1貫文は日頃、経之が頼りにしている「あらいとの」(新井殿)に立て替えてもらったようだ。
関戸観音堂の坊主への返事(25号文書)では、
 「おほせのことく、下もけふあすと申て候しかとも、いつもの事にて候へば、つや▢▢下候ぬへきていも候はて候しほとに、・・・」(おっしゃる通り、常陸下りも今日か明日かと言われていますが、いつものことです。まったく下らないというわけではなさそうですが・・・)
と、鎌倉の様子を伝えている。観音堂の坊主からもいつになったら下るのかと心配されていたのだろう。しかしこんどばかりは本当に出発日が決まったようだ。
 「御下も十六日とうけ給候あひ▢」
 「とのかたよりもいかにし候ても下と仰られて候」
とある。残念ながら13日からまた延びてしまったが、それでもようやく16日に決まり、「とのかた(殿方)」からなんとしても下れ、と命じられている。この「とのかた(殿方)」とは高師冬の関係者と思われる。

放生会
13日が16日の延びた理由には放生会が考えられる。
 「はうしやうへのようとうの事、うけ給候、いそき/\ほんかうのひやくしやうともニ仰つけ候て、十▢四日ニこれ給へ・・・」(放生会の用途のことで命令を受けた。いそいで本郷の百姓どもに仰せ付けて13,4日までにもってこさせよ。7号文書)。
放生会といえば流鏑馬神事に代表されるように鎌倉武士にとって欠かすことのできない祭事である。例年8月の15日に執り行われる。現代の放生会は9月だが、それは旧暦と現在の暦の違いのためで、実際の開催時期はほぼ一緒だ。これからいくさに赴こうとする武士たちがいくさの前に戦捷祈願の法会を執り行うことは理にかなっているといえる。ここまで出発日が延びたことだし、せっかくだから放生会を終えてから出発しようではないか、と考えたのだろう。どうせこれまでもたびたび出発は遅れてきたのだ。いまさら13日が16日に延びたくらいなんでもない。それより盛大に放生会を開き、戦勝祈願をして士気を高めたほうがいい、と考えても不思議ではない。もっとも経之はこれをあまり喜ばなかったに違いない。放生会のために用途(費用)の負担を求められているからだ。負担額は不明だが、経之にはこれを支払うだけの手元資金がなかったと見える。そのためわざわざ土渕の家から持ってこさせようとしている。ただでさえいくさ用途に四苦八苦している経之には、追い打ちをかけるようなこの「はうしやうへのようとう」は全く予期しない、不要不急の出費に思えたことだろう。

めずらしく日付が明らかになっている放生会翌日、8月16日の手紙(28号文書)を見てみよう。残念ながら放生会の様子には全く触れられていないが、放生会と関連していそうな記述はある。
 「かまくらへものほせたく候しかとも、あまりミくるしけにしてもとて候、ゐ中や申、るすもいかにたいかたく候らんと心もなく候、五郎にも、ひたるくとも下候・・・」(鎌倉に上らせたかったがあまり見苦しことは、と思い、上らせなかった。田舎も、私の留守がいかにも耐え難いであろうと心もとない。五郎にもだるくても下れ・・・)
文中「かまくらへものほせたく候しかとも」(鎌倉に上らせたかったが)とある。これは一体誰を上らせたかったのかが問題になるが、どうやら息子である「又けさ」のことを指しているようだ。何のために上らせたかったのだろう。少し前に呼びつけておいてすぐに返したではないか。そして、上らせるとなぜ見苦しいのか(「あまりミくるしけにしてもとて候」)。
思うに経之は息子の「又けさ」に放生会を見せてやりたかったのではないか。放生会を見せるために鎌倉まで呼ぼうとしたが今年の放生会は特に出陣前の武士たちが一堂に会する場だ。そんなところに親バカ丸出しで元服前の子供を連れて物見遊山では格好がつかない。見苦しいとはそのことだろう。しかしながら、だ。その後の経之の運命を知っているだけに、できることなら連れて行ってあげてほしかった。今回を逃しては経之が「又けさ」と一緒に過ごす機会はもう訪れないのだから。

〈五郎、再登場〉
28号文書では五郎が再登場する(「五郎にも、ひたるくとも下候・・・」)。少し前に寺で宿直をしたいというので五郎は帰宅を許されたが、なにもいくさ、つまり常陸下りまで免除されたわけではない。経之は連れてゆくつもりだった。しかし五郎にはあまりその気はないようだ。出陣直前のこの時期には経之は配下の従者たちを鎌倉に呼び集めていたと思われる。予定ではその中に五郎も含まれていた。しかしどうもさぼっている気配が濃厚である。わざわざ名指しで呼び出しを食らうのだから間違いない。従者が主人の命令を「ひたる」い(だるい)からと称して従わないなんてことがあるのだろうか。このあたりの人間関係は興味を惹かれる。
続く又けさ宛と思われる29号文書でも五郎は話題になっている。
 「六郎との、五郎いかにひたるく候らんと▢もいやりこそ候へ、六郎とのニやかてたひ候へくよし・・・」(六郎殿、五郎、とても疲れていることとは思うけれども、六郎殿にすぐに来るように伝えよ)。
度重なる主人の催促に耳を貸さない五郎の不遜な態度はどこから来るのだろうか。譜代の郎党ならば主人と強い紐帯で結ばれ、もう少し忠実であると思うが。五郎の態度は山内家における五郎の立場、身分を考える上で興味深い。

〈むかはぬ人は〉
「六郎との」は山内六郎治清だろう。六郎は訴訟相手である可能性があり、経之とは関係が悪化していたと考えられる。別の手紙では六郎は又けさともこじれていると読める箇所もある(【経之の家族構成】参照)。経之は放っておけばいいのに、そんな六郎にもいくさに参加するように呼びかけているのはなぜか。同じ29号文書内の以下の文言がヒントになりそうだ。
 「むかぬ人をハ、事さら▢▢▢事もきひしく候うゑニ、▢▢▢かく申候、▢▢はなんきはかりなく候」
意味は分かりづらいが「常陸に向かわない人は特に厳しい罰が下り、計り知れない難儀を被ることになる」、くらいに理解しておくべきか。関連して34号文書に重大な事が書かれている。
 「むかはぬ人はミな/\しよりやうをとられへきよし申候、そのほか御しやう申人ともは事に人の申候へハ、ほんりやうをとられ候也」(出陣しない者は所領を没収されるそうだ。そのことについて異議を唱える人は本領まで取られるそうだ)。
あまりに参陣者が少ないことに業を煮やした高師冬は強硬手段に打って出た。所領を没収するというのである。この場合の所領とは、元弘の乱などのいくさで功績のあった武士に新たにくだされた土地であり、本領とはそれ以前から先祖代々受け継ぎ所有していた土地のことを指す。従わない者は北朝方の大将である足利尊氏から与えられた土地を没収する。そしてそれににとどまらず、そのことで文句を言うのならもともと持っていた本領も奪うぞ、と脅しているのである。これは一大事である。所領や本領を取られるとなれば武士たちとしても閑却にはできない。経之からすれば、参陣を拒否する六郎が所領を召し上げられるだけなら困らないかもしれないが、もし経之が山内家の惣領で、庶子である六郎を連れてゆく責任を負わされているとしたら、いくら自分は参陣していると言い訳しても無関係では済まされそうにない。なおざりにすれば一族である六郎の不参のとばっちりが自身にも及ぶおそれがある。わざわざ手紙にするわけだ。

〈彦三郎の又、きへいじの又〉
常陸下り間近のこの時期、当然ながら鎌倉には召集を受けた武士とその一族郎党、従者たちが多数上ってきている。いくさを前に気の立っている男たちがひとところに集まればたいてい何らかのトラブルは避けられまい。放生会直前の7号文書を見てみよう。
 「ひこ三郎▢▢との物にて候よしきゝ下候て、さはくる人/\御きにも、きへいしかもとの物、かやうの事をふるまい候をは、なにともおほせ候ハて候けるよし、うけ給し事、うたてくこそ候へ」
非常に意味の取りにくい文章である。経之の従者である彦三郎ときへいじの下の者、つまり経之からしたら又家来たちがなにか騒動を起こして裁判になっているようだ。大方けんか沙汰だろうが。そして裁判を担当している人?に何かを言われたのか、それとも、もう何も言うことはないと突き放されたのか、経之は悲しい、せつない気持ち(「うたてくこそ候」)になっている。後半部分は例によって意味が分からない。自分の読解力のなさをうたてし、と恥じている。

〈出発日はまた延期〉
出発日とされた8月16日、予定通り、師冬勢は常陸へ下ったのか、というとそうではないらしい。
15日の放生会も終わり、翌16日の出発予定日、ちょうどその日8月16日付の経之の手紙は、訴訟で得た在家を売って弓を買えとか、五郎もひだるくても鎌倉まで来いだの、留守中の田舎家のことが心配だ、などと、それまでとあまり変わらない話に終始していて、出発当日のあわただしさは感じられない。
27号文書によると、
 「ちかく下候ハするよし申て候しかとも、とてもはうしやうへにあひ候ハて、下候ハん事とて候、三かハとのゝ御下も、この廿日けんちゃうにて候へく候ほとニ、とてもむさしのこふまて、御ともし候て」(近いうちに下るとは言ったけれど、とても放生会に参加しないで下るなんて、というわけで、三河殿(師冬)のお下りもこの20日に厳重に、となった。武蔵の国府(現東京都府中市)までお供して)
とあり、こんどは20日へと変更されたようだ。一体いつになったら・・・。

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府中大國魂神社 かつては六所宮と呼ばれ武蔵国国府の近くにあった

高師冬率いる北朝勢が鎌倉をあとにしたのが正確にいつのことか明らかでないが、20日とされて以降、新たに出発日が変更されたとの記述がないことから、やはりそのあたりに出発したとみるのが妥当だろう。これ以降、「日野市史史料集 高幡不動胎内文書編」でいえば30号文書からは話題が行軍中の出来事に移る。長くなった。鎌倉滞在中の話をやっと終えることができる。しかしこれからがまた長い。いくさと言ったら華々しく勇ましい話ばかりに注目がいくが、実際はそんなにすんなりといくさが始まるわけではなく、その前段階の準備も含めていくさの本当の有り様なのだと、胎内文書にふれて初めて思い知らされた。もう少し我慢してお付き合い願いたい。経之の手紙のようにこれほどまとまった量の、それもいくさ用途の確保に汲々としている武士の姿はなかなか他の史書ではお目にかかれないのではないか。このリアルさにこそ胎内文書編の価値がある、と理解してもらえれば、と願う。