山内経之 1339年の戦場からの手紙 その15

【下河辺へ】

〈高利貸しの「大しんハう」〉
鶴岡社務記録によると10月3日、下河辺でまた合戦があった(「十月三日、常州合戦、今日矢合之由聞之間、千返陀羅尼始行、其外種々祈祷始之了、」)。この合戦に経之は参戦していない。前述の33号文書で9月の27,8日には必ず必ず下河辺へ下るといっていたが、この予定もまた延期され、実際に経之が下河辺に到着するのは10月12日か13日であった。(妻宛10月12日日付の36号文書「これも十日なかへゝつき候て候か、けふ十二日ニていにしたかひ候て下かうへゑつかれ候へく候(10日なかへについた。この様子なら今日12日に下河辺に着くでしょう)」。「なかへ」は該当地不明。村岡と下河辺の間だろう。34号文書に、下河辺の向かい太田荘に着いた、とあることから、「なかへ」はこの太田荘に属しているのかもしれない(「下かうへのさうへのむかひにつき候て」)。
この頃になると経之はもう金策になりふり構わなくなってきている。とある僧に宛てて、
 「いかやうに仰せ候ても、ようとう二、三くハん、ほしく候、大しんハうにおほせ候て、ようとう五くハんとりちかゑてかせと仰せあるへく候」(どうしても用途2,3貫必要だ。大しんハう(大進房か)に言って用途5貫を所領と交換で借せと交渉してください)
と、所領を担保に借上(かしあげと読む)と思しき「大しんハう」なる人物から5貫(5000文)を借りるように頼んでいる。借上とは高利貸しのことだ。誰だってできれば関わりたくない借上に借りなければならないほど切羽詰まっていたのなら、先日の帰郷はあまり功を奏さなかったのだろう。うろおぼえながら借上に借りると金利は月6文子、と何の本か忘れたが読んだ記憶がある。年、ではない。月6文子だ。100文借りれば一月で106文にして返さなければならない。年率なら72%にもなる。本当だろうかと疑いたくなるが、現代だって闇金(もういないか)に借りればトイチ(10日で1割)なんて話を聞くから本当かもしれない。

〈忠ある者の行く末は〉
戦場が近くなったことで経之の心境にも変化が訪れている。同34号文書で、忠ある者の行く末は急に終着点が見えてきた、といつになく不安な心境を吐露している(「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也」)。経之はこれまで幾度もいくさを経験してきているはずだが、鎌倉幕府崩壊から南北朝の動乱期という激動の時代をくぐり抜けてきた経之でも合戦を前にするとやはり心が落ち着かなくなるようだ。そんな経之のことを武士らしくない、弱気だ、と非難すべきだろうか。武士の一般的イメージといえば少々極端ではあるがおおかた、平家物語の次の一節に代表されるような姿ではないかと思う。平家物語は巻第五富士川のくだりにおいて、東国の武士は「いくさは又おやも討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越えヽ戦ふ候。西国のいくさと申は、おや討たれぬれば孝養し、いみあけてよせ、子討たれぬれば、その思ひなげきによせ候はず。兵糧米尽きぬれば、春は田つくり、秋はかりをさめてよせ、夏はあつしと言ひ、冬はさむしときらひ候。東国にはすべて其儀候はず。」と、貴族文化に染まった西国武士をけなす一方、東国武士の剽悍さを武士の典型、あるべき姿として誇っている。しかしこれが本当の武士の姿だろうか。軍記物やそれを下敷きにした小説、新渡戸稲造の「武士道」、また「葉隠れ」の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」のようなくだりに接すると、武士とは今の我々とはかけ離れた存在のように思えてしまう。文化や習慣だけでなく精神構造からして全く別のものとつい考えがちになる。しかし実際の武士の姿はそのような潤色された軍記物とは違うようだ。経之の手紙からはそういった理想化された武士像はみじんも感じられない。胎内文書はそういう思い込みを改めさせてくれるという意味でとても貴重な資料といえる。

〈妻への手紙〉
いよいよ合戦の日が目睫に迫ってきている。34号文書から36号文書には、経之のあせり、緊張の高まり、胸が押しつぶされそうな悲壮感が現れている。
 「ちうある物々とろハ、とにいまきしゆかつき候也」(忠ある人々の行く末は今、急に終着点が見えてきた。)
戦力が十分に整わないことや遠い常陸までの遠征に不安を覚えたのか、この先、過酷な運命が待っていそうなことを「帰趨がつく」と表現している。
続く35号文書では、10月9日には必ず合戦になると断言し(「この九日ハかならす/\かせん候てあるへく候」)、関連してこのころ「よりあひ」(軍議)が開かれている。
そして経之の手紙の中でも佳境のひとつ、とでも言うべき10月12日付、妻にあてた36号文書は、いくさを前にした武士の、人間らしい偽らざる心情が奔出している。残念なことに文書の保存状態が悪く欠字だらけで一部しか読み取れないが、可能な限り抜き出してみる。
 「なにさまみやう日ハ、けんちやうニてあるへく候、なに事もさたまり・・・」(何があろうとあすはいよいよ合戦だ。運命は定まり・・・)
 「返々かせんのニハ・・・よりほかは申・・・心ほそくこそ・・・」(返す返す戦場というのは・・・より他に言うことは・・・心細く・・・)。
息子の又けさ宛ての手紙では事務的な連絡が多いが、妻宛の本状では、不安で揺れ動く心情を隠すことなく吐露している。そして結びに、
 「あすハかならす/\これをハたゝれ候へく候也、はや/\御こひしくこそ候へ/\、・・・」(明日は必ずここを出発します。まだいくさは始まっていないのに、もう恋しくてなりません・・・)。

〈茶・干し柿・搗栗〉
下河辺に到着したが、しかし経之の合戦はまだ始まらない。振り返れば10月9日には必ず合戦になると言っていたのにその日は戦場にも着かず、10月12日の手紙では明日こそは合戦だ、と気を引き締めていたにもかかわらず、その合戦の日とされた13日に経之はとても戦闘があったとは思えない、なんとものんきな手紙を書き送っている。以下、37号文書。
 「二まいらせ候、一にこはのちやにかく候ハさらんを、てらへ申て、入候て給るへく候、一にはなかにちやにてもかへ入候て給るへく候」
少し意味を取りずらい文書だ。「日野市資料集高幡不動胎内文書編」の解説によると「皮籠のような容器をふたつを送るので、ひとつには粉茶(もしくは古葉)の苦くないものを寺にお願いしてもらってきてください、もうひとつには茶でも買って入れてください」くらいの意味だそうだ。手紙は続けて、
 「▢しかき、かちくりすこし▢り候て候し、かへ入候て、もち候へく候」(干し柿、搗栗を少し買って送ってください)
などと、搗栗など戦場で欠かせない食品を求めている。下河辺からの手紙のはずだが合戦の緊迫感が感じられない。この日、いくさはなかったのだろう。

南朝勢の撤退〉
10月3日の矢合わせ以外にも、国境を越え下総国下河辺まで進出してきた常陸南朝勢と北朝方の先遣隊との間で小競り合いくらいはあっただろうが、高師冬率いる北朝鎌倉勢本体との本格的な衝突に至る前に南朝勢は一旦陣を引き払い、常陸国へとかえったと思われる。下河辺まで来た経之であったが、またしてもいくさに遭わずに済んだ。この撤退について、南朝方の重鎮であり、常陸における南朝勢の指導的立場にある北畠親房の御教書にはそれを推測させる記述がある。親房の手紙は読むのもうんざりするほど長いものが多いが、ここではその一部を引用する。
 「鎌倉凶徒率武蔵・相模等勢、寄来之由其聞候、今明之間、定寄歟之由、被待懸候也、鎌倉辺まても?可被打上之処、所々城郭等難被打捨、面々加斟酌了、今寄来之条、中/\早速静謐之基歟、就之?可被措合于常陸堺候」(武蔵、相模勢を率いた鎌倉凶徒が攻め寄せてきたと聞いた。今日明日にもきっとやってくるだろうから待っているところだ。いそぎ鎌倉まで攻め上るべきであるが、所々の城郭を捨てがたく、そのへんを考慮してやめた。今敵がやってくるのならかえって黙らせる良い機会になる。よっていそぎ常陸の境に軍勢を置くべきである)。 #注 ?はハム心、「怱」の異体字で「急ぎ」の意味
雑な訳で申し訳ないが、大意は伝わるだろう。親房は、敵の鎌倉勢がやってくるのならわざわざこちらから出てゆかずとも城郭をたのんで立て籠もり、返り討ちにすれば良いと考えている。下河辺は野与党の支配地域であり、常陸勢は下河辺を応援するために援軍を派遣してきたが、下河辺から南朝勢が引いたのもそういう意図があったものと思われる。
ちなみにこの暦応2年9月28日の結城親朝宛て御教書では後醍醐から義良親王への践祚も伝えている。
 「吉野殿御譲国事、定風聞候欤、奥州宮被開御運之条、聖運令然候哉」(後醍醐天皇が退位されたとのうわさを聞いているか。義良親王の運が開けてきたのは聖運のなせるわざか)
親房は突然の代位に困惑している。寝耳に水だったのだろう、代位の理由を義良親王の聖運のたまものと解したが、本当の理由は後醍醐の死によるものだった。後醍醐が亡くなったのは8月15日。経之たちが鎌倉から出発する直前のことだ。後醍醐の死は南北朝の争いのさなか、当然伏せられただろうが、そんな肝心な話がひと月以上たった9月の末になっても南朝重臣である親房の元には届いていなかった。
南朝勢の撤退後、経之を含む鎌倉勢はようやく常陸との国境にある下総国結城郡山川という地に布陣した。以後、鎌倉勢と常陸勢は衣川(ときに絹川、鬼怒川のこと)を挟んで対峙し、主に両者の中央に位置する駒城をめぐって攻防が繰り広げられることになる。経之にとってももういくさは避けられないところまで来た。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その14

【村岡宿での出来事】

鎌倉街道を北に〉
8月の終わりに鎌倉を立った高師冬率いる北朝勢がまず向かったのが武蔵国国府(現在の東京都府中市)である。国府は鎌倉から北進し多摩川を超えたあたりに位置する。鎌倉府の執事であり、武蔵国の守護でもある師冬はここで武蔵の武士を糾合して戦力を充実させつつ、常陸へ向かうつもりであった。鎌倉勢がいつここに到着し、どのくらい滞在したのかは経之の手紙にはこれと言って言及がないのでわからない。一行は武州国府をさらに北上し、国府から50キロの地点にある同じ武蔵国大里郡村岡宿(現埼玉県熊谷市)が次なる目的地である。村岡宿は下河辺のある下総国武蔵国の国境に近く、交通の要所にあり、また宿場という性質上宿泊施設も多いことから鎌倉勢が兵や兵糧を補充する最後の拠点としてふさわしい。そのせいか鎌倉勢は国府よりもむしろここで時日を送っている。ただし戦略的に、というより兵の集まりが悪いために無為に時間を費やしているという印象が強い。
矢部定藤なる武士の軍忠状によると村岡に到着したのは9月8日のことだった。村岡まで武蔵の国府からは1日、2日で移動できる距離である。鎌倉からでも3、4日あればまず問題はなさそうな距離だ。鎌倉のある相模、武蔵は高師冬率いる北朝勢の支配地域であり、邪魔する敵はいない。行軍に支障はないはずだ。なのに8月20日に出発して9月8日に到着ではちょっと時間がかかり過ぎている。戦闘はすでに7月9日、下総国下河辺荘で始まっているにもかかわらずである。物見遊山じゃあるまいし、のんびりと行軍している余裕があるとは思えない。鎌倉勢の歩みは遅い、と言わざるを得ない。村岡到着後もすぐに発進したわけではない。31号文書には、
 「はう/\のはやむまのさうにより候ほとに、下かうへゑ下候ても、やかてかせんなんともある事も候へく候、いまハさたまりやらす候、さりなから下かうへに、一四五日もあるへきよし仰候へハ、」(方々に放たれた早馬の報告によると、下河辺に下ればすぐに合戦になることもあるだろう、いまはまだ定かではないが、しかし下河辺には14,5日にはゆくとの仰せがあった)
とあり、村岡宿に長々と腰を据えている様子が見て取れる。いったいなぜそんなに腰が重いのかといえばやはり軍勢の集まりが悪いからだ。32号文書は、
 「あまり人も候ハて、何事もふさたニて候しほとに、申て候、これはていにしたかひて、この月のすへまても、これにある事う▢あ▢へく候、せいは廿月廿四日の日むけられ候へく候(原文ママ)」(あまりにも人が揃わないので手持ち無沙汰です。人が言うには、この様子では月末までここにいるのは間違いないそうです。軍勢は9月24日に下河辺へ向けられるとのことです)
と、敵を目の前にしながら味方が足りずに戦えないというありえない醜態を晒している。しかもこの9月24日発向すら果たされず、結局鎌倉勢の村岡駐留はひと月以上にもおよび、出発は10月までまたなければならなかった。

〈笠幡の渋江殿〉
村岡宿からの出発が遅れたのは頭数が足りないからという消極的な理由だけだろうか。もしかしたら他の理由もあったのではないかと思わないでもない。第1部【常陸へ向け、鎌倉を出発】の章〈むかはぬ人は〉で以下の件を紹介したが、それが鎌倉勢が村岡宿に長くとどまっている理由を推測する手がかりになるかもしれない。
 「むかはぬ人はミな/\しよりやうをとられへきよし申候、そのほか御しやう申人ともは事に人の申候へハ、ほんりやうをとられ候也」(下河辺に向かわない人はみな所領を召し上げられる。その他訴状?を出して異議を唱える人は本領も没収されるそうだ)34号文書
所領の没収をちらつかせて参陣を要求していることを示すこの記述は単なる脅しではなく、実際に処分をくだされてしまった人もいたようだ。
 「かさハたのきたかたニしほゑとのゝあととも給候物か、そらからを申してミなニかくるへきよし申候」(笠幡の渋江殿という人が嘘をついて皆処分されてしまった)。
笠幡は経之の所領のひとつである柏原に近い。その地の武士が所領を召し上げられてしまった。経之としても他人事とは思えなかっただろう。この「しほゑとの(渋江殿)」は武蔵七党の野与党に属する渋江氏のことと思われ、笠幡は「しほゑとの」の所領のひとつと思われる。野与党の支配地域は下河辺に重なる部分がおおく、また同地は南朝方の勢力が優勢だったため、「しほゑとの」が師冬の催促に従わなかったのは、「しほゑとの」個人の意思というよりは、野与党の総意に基づく決断として南朝についたから、とみられる。下河辺に向かわぬ人の中には単にサボタージュした人もいれば、笠幡の渋江氏のように武蔵国の領主でありながら自発的に南朝方に付いた武士もいた。
その報復として渋江氏は所領を没収されてしまった。ここでこの所領の没収処分について考えてみる。ただ一口に没収といっても没収された人が素直に出ていけばよいが、そのまま居座ってしまえば処分は実効性を持たない。通常闕所地(没収された土地)は別の誰かに宛てがわれたあとは、その人自ら実力行使で奪い取る必要があった。ちょうど安保光泰が去る6月に敵の所領である松岡荘を宛てがわれたときのように。このとき安保光泰はすぐに軍事行動を起こしている。武蔵守護の高師冬からすれば自身の守護国から違背者が出たにも関わらず放っておいては示しがつかないし、こういう輩は常陸に向かう前に叩いて後顧の憂いを断っておく必要があった。そうしなければ常陸南朝勢と対戦中に背後を脅かされかねない。ただし渋江氏の場合、笠幡の地が野与党の根拠地である下河辺から西に遠く離れた飛び地のような位置にあり、むしろ武蔵国府に近いことから争ったりはせずに粛々と退却したのではないかと思われる。
また後顧の憂いを発つ、という理由のほかに、実利上の理由も考えられる。季節はちょうど9月(旧暦なので現在でいえば10月頃にあたる)、収穫期のさなかにある。敵方に付いた武士を懲らしめるだけでなく兵糧となる米を奪えば一石二鳥だ。山内経之のようにいくさ用途の捻出に四苦八苦している武士からすれば収穫したばかりの米を兵糧として手に入れることができるのだから嬉しくないわけがない。こう考えれば高師冬が村岡に長期滞在した目的は単に軍勢が集まるのを待っていただけでなく、笠幡の渋江殿のような「むかはぬ人」たちに対する処分とプラスαの利得が含まれていたと考えられる。

〈村岡宿での経之〉
村岡宿で山内経之は何をしていたのだろう。暇を持て余して昼寝でもしていたのだろうか。
残念ながら経之にはそんな余裕はなかった。実際は村岡に到着後も相変わらずいくさ用途(費用)の心配ばかりしている。これでいったい何度目だろう、30号文書では、
 「人の▢うとうを又いくハんはかりを、・・・候、いかやうにすへしとも・・・」(用途を一貫ばかりなんとしても送れ。)
と求めている。しかし家計が苦しいのは重々承知と見えて、同じ手紙で、
 「はやさそうせち(想折)も、のこりすくなくありけに候、るすの事も、いつもの事にて候へども、御いたわしくこそ候へども、いかようにも御はからい候て、ようとうも、」(生活費も残り少なくなっているようで、留守中のこともいつものことで不憫に思っていますが、なんとかして用途を)
と、残してきた家族の日々の生活費すらままならない状況を気遣いつつも、しっかり費用は要求している。ただ他方で経之は衣服を染めに出して結構な出費をしている。
 「かき、あさきハ百ニて候、ふたへ物ハ百あまりに候てそめ候也、まいらせ候しかたひらも、そめたく候しかとも、▢▢▢ようとう候ハて、」(単衣を柿色、浅黄色は百文、袷は百文以上で染めた。送った帷子は染賃が足りなかった)
と、少なくない出費をしていくさ前に服を染めている。
月末の24日、31号文書によれば、この日に鎌倉勢は下河辺に下る予定だったが、経之は休暇をもらって武州土淵郷の家に帰っている。もちろんのんびりと休むためではなく、あくまで金策のためだ。名宛人不明の9月25日の手紙(33号文書)を見てみよう。
 「わさと人をまいらせ候、うけ給るへき事候て、昨日二三日のいとまを申候てのほりて候、廿七か八のころ、かならす/\下へく候、御ひま候ハヽ、こなたへも御こへ▢へく候、よろつけさん(見参)ニ申▢け給るへく候」(わざわざ人を遣わしたのはお尋ねしたいことがあったからです。昨日(24日)2,3日の休みをもらって帰郷しました。27,8日には必ず必ず下河辺へ下ります。お暇があれば、こちら(経之の自宅?)へお越しください。いろいろお会いしてお願いしたいことがあります)。
誰宛ての手紙かはわからないが、経之のお願いごとといったら借財以外に考えにくい。経之は慎重になっているのか、いきなりその人の家に押しかけるのではなく、丁重に使者を立てて、自宅へ迎えいれようとしている。が、敵もさる者、経之の誘いの手には容易に乗ってこなかった。
 「御むかひに人をまいらせたく存に、御ひまも候ハぬよし、うけ給候あひた、人とも遣候也、これはやかて/\下へく候」(お迎えに人を行かせたいのですが、お隙がないとの由、承りました。代わりに人を遣わしたいのですが、これはすぐにすぐに着きます)。
迎えに行くという経之の申し出を、相手は忙しいから、との理由で面会を避けている。相手としたら、経之の家に招かれて歓待され、いい気分になったところで借財の話を持ちかけられたら断りにくい。そうやすやすと経之の手に乗らないように慎重になっている。しかし経之とて簡単に引き下がる訳にはいかない。そちらが来ないんだったらこちらからと、さらに使者を送ろうとしている。お迎えを拒否されてもなお使者を送っているあたり、経之もなかなかしつこい。それだけ追い込まれているということか。 

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その13

第2部 戦場までの行軍

【山内経之の従者】

〈経之勢は何人いたのか〉
さて、暦応2年(1339)の8月のおわり頃、山内経之は高師冬の供をして鎌倉を離れ、最初の目的地である武蔵国国府を目指して鎌倉街道を北上中であるが、その先、常陸国の戦場に到達するまではまだまだ時間がかかる。その間に経之の手勢について考えてみたい。経之はいったいどのくらいの従者を引き連れていくさにのぞんだのだろうか。小説を書く際、この問題には非常に頭を悩まされた。残念なことに経之の手紙にはこの重要な点についてあまり参考になりそうな記述がないので、具体的なことは皆目見当がつかない。しかし全く不明では小説にならないので自分なりに足りない知識と想像力を働かせて検討してみた。以下は不正確であろうことをご理解の上で、参考程度と思って読んでもらいたい。
手勢の数を推測するにあたって、まず、胎内文書資料集から経之の従者と思われる名前をすべて拾い出してみた。手紙の中のそれらしい人物名を数えると、断定はできないが少なくとも17人?は従者であろうと推測できる。もちろんこれはあくまで手紙に出てくる従者の数にすぎず、きっとこの他にもいたであろうから実際の数は不明である。
・山内経之家の従者  
  おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)
  さとう三郎(佐藤?三郎)
  しきめ▢のひこ三郎(彦三郎)
  さうとう二郎
  ゑちう八郎(越中八郎)
  やつ(谷)
  きへいし(紀平次か)
  いや七入道(弥七入道)
  八郎四郎
  太郎二郎入道
  太郎八郎
  ひこ三郎(彦三郎)
  七郎二郎
  四郎二郎
  小三郎
  やすのふ
  二郎太郎
  五郎  
#「しきめ▢のひこ三郎」と「ひこ三郎」については、「日野市史史料集 高幡不動胎内文書編」では同一人物としているので、ここでもそれに従うことにする。
戦場にはこの17人全員が行ったのかというとそうではない。行かなかった者もいる。むしろ経之の供をして常陸に下ったのが確実と言える従者の方が少ない。以下に実際に戦地まで赴いたことが明らかな者の名をあげる。
常陸まで経之の供をしたことが明らかな者
  ゑちう八郎(越中八郎)
  やつ(谷)
  きへいし(紀平次か)
確実に、と断言できる者はわずか3人しかいない。この者たちに共通していえることは、それぞれが独自の従者を抱えているという点である(39号文書に「ゑちう八郎か又、やつの又、きへいしか又」という記述がある。又とは又者、又家来のことで、従者の従者という意味)。独自の従者、つまり経之からしたら又者、又家来を抱えているということは、その従者は山内家での地位が高く、それなりに良い待遇を得ているということだろう。ただ、この3人とは違い、同じように従者を抱えていながら下らなかった者もいる。「おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)」だ。大久保の弥三郎が経之に従わなかった理由はよくわからない。従わないどころかこの者からは反抗的な印象すら受ける(「おほくほのいや三郎又くたしせぬ物ともに、しハらくのなかに、まいらせよと申へく候」39号文書)。大久保の弥三郎は本人が下らないだけでなく、又者を常陸に下らせよという経之の命を無視しているようなのだ。この大久保の弥三郎は一体どういう人物なのだろう。

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土渕郷古地図



経之の本領である土渕郷の古地図をみると大久保という地名がある(今もある)。ほかにも新井や谷もある。新井はすでに書いたことだが、経之が日頃から親しくしている新井殿の所在地と考えられ、新井殿は長くそこに住み着いて地名を名字として名乗るようになったのであろう。ならば同様に大久保の弥三郎や「やつ(谷)」も、もともとこの土渕郷の住人であり、経之とは経之が土渕郷へ移住してきてから主従関係を結ぶようになったのではないか。ということは大久保の弥三郎や「やつ(谷)」は武士の郎党ではなく、百姓、それも地名を名乗るくらいだからこの地を代々受け継いだ、この地域における指導的な立場の百姓と考えるべきだろう。それなら大久保の弥三郎が経之の命令を無視していくさに参加しない理由も理解できるかもしれない。百姓ならふつう(戦国時代のように徐々に軍勢に組み入れられるようになった時代とは違い)従軍を拒否するだろうし、土渕郷の百姓らはもとより年貢のこと、いくさ用途のことで常日頃から新規領主である経之と衝突していた。大久保の弥三郎はこの地の有力百姓であり、百姓を代表して経之と折衝にあたり、その過程で経之とは険悪な関係になっていったと容易に想像がつく。だから主人である経之から、いくさに参加せよとの仰せがあったのにかかわらず、恬として聞き流して従わなかったに違いない。ただ、同じ百姓(と思われる)の「やつ(谷)」は参戦している。事情はわからないが、ひとそれぞれ、立ち位置や性格の違いか。
また、常陸に下った「ゑちう八郎」ら上記3人に加え、もうひとり、四郎二郎か七郎二郎のどちらかも確実に常陸での戦闘に参加している。49号文書の記述からそれは間違いないのだが、非常に残念なことに「▢郎二郎め」と肝心な部分が欠字となっていてどちらなのかわからない。「▢郎二郎め」は戦場での重要なエピソードにかかわりがあるのでまたあとで触れる。
ここまで常陸に下ったのが明らかな従者は4人。うち3人には又者がいる(「▢郎二郎め」に又がいたかは不明)。経之勢の総数を考えるうえで、又者をそれぞれどのくらい連れて行ったかが問題になるがさほど多くはないだろう。身の回りの世話をする者や戦場での旗持ち、楯持ち、馬の口輪取りなど、戦場でどんな役割が求められるのかはわからないが又家来という性質上、せいぜい2,3人ではないか。とすると「ゑちう八郎」ら3人の手勢は又者も含めて9人から12人ということになる。これを前提に経之本人、「▢郎二郎め」を加えて経之の手勢を計算すると11人から14人となる。これではさすがにちょっと少ないような気がするが・・・。

そのほかの従者についても検討する。
「さとう三郎」は参戦しなかったひとりだ。実際のところ、行けなかった、身動きが取れなかった、というべきかもしれない。「さとう三郎」はおそらく山内家の代官として、経之の所領のひとつである奥州の「ぬまと」(陸奥国牡鹿郡沼津)を預かっている(40号文書「さとう三郎わらハへめらか候し▢、あひかまへて/\、はせさせ給へきよし、おくゑも申つかはさせ給へく候」)。奥のさとう三郎に、息子に馳せさせよ、と伝えるように命令している経之の手紙からそう推測できる。「おく」の話は何度か出てくるが「おく」の従者として名前の挙がるのはさとう三郎しかいないので、その内容からさとう三郎は「おく」を代官として預かっていたとみることができそうだ。大事な所領を任されるくらいなのだからそれだけ信頼の厚い郎党に違いない。であれば山内家での地位も高く、従者(又家来)もそれなりに抱えていたはずだ。それなのに経之が戦力になりそうな「さとう三郎」を呼ばないとは考えづらい。事実、以前も紹介したが、経之は「ぬまと」と連絡を取ろうと試みている。しかし来なかった。そのわけは難しくない。陸奥国にある「ぬまと」から常陸まで下る場合、障害になるのが陸奥国南部、今の福島県あたりだ。この地域にはかつて陸奥国司であった北畠顕家が拠点としていた霊山(りょうぜん)があり南朝方の支持が多い。そこを通過して常陸でのいくさに参加するのは困難だったろう。「さとう三郎」の不参にはそういう理由があった。「さとう三郎」の息子も参陣していないだろう。
次に、しきめ▢のひこ三郎(彦三郎)について検討したい。彦三郎は経之の手紙の中で最も多く登場する従者であり、経之が鎌倉に滞在していたときも供をするなど、経之の信頼がとくに厚く、重用されている。彦三郎にも従者(又家来)の存在が確認できる(鎌倉滞在中に裁判沙汰を起こしている)。しかしそんな彦三郎でも従軍したかどうかは不明だ。たしかに経之勢が鎌倉を出発した直前の時期には彦三郎とその従者も鎌倉にいたので、経之の常陸下りに同行した可能性が高い。しかし本格的な戦闘が始まった10月の終わりに、彦三郎は経之あてに手紙書いていると思われる記述もあり(「しきめ▢のひ▢三郎かふ▢▢▢返事」39号文書、この文書は経之が息子の又けさ宛てた手紙で、彦三郎からの手紙に対する返答として書かれている。彦三郎から何か質問があり、その答えとして又けさに指示をしたのだろう)、また、経之は又けさ宛の手紙で、彦三郎によく伝えよ、と命じたりもしている(「ひこ三郎によく/\とき申へく候、」40号文書)。このことから彦三郎は本領の土渕郷で留守を守っていたかもしれない。留守中の家のことを常々心配していた経之のことだから、信頼している従者の彦三郎を土渕郷に残して任せていた、と考えられる。したがって彦三郎は参戦しなかった可能性が高い。
その他の人物は箇条書きで簡単に。
・小三郎と「やすのふ」は、又けさの手紙を戦場の経之まで届けている(「小三郎が下候のふミ、」43号文書、「やすのふの下のふミ、」47号文書)ことから参戦はせず、ただの連絡係といった役割か。このふたりは百姓かもしれない。
・いや七入道(弥七入道)も大久保の弥三郎とならんであまり従順ではないようだ。(「いや七入道めかなんこに候しものか、せふん/\申をも▢す候、おほくほのいや三郎おなしく▢▢しせぬ物ニて候」47号文書)。弥七入道はどこに行ったのか、せふんせふんを申して、大久保の弥三郎とおなじで・・・、と反抗的な態度が垣間見れる。「せふんせふん」の意味はわからない。経之の郎党なのかそれとも百姓なのかも疑問が残るが、入道というくらいだから隠居した百姓か。
・八郎四郎は宿直をしていた?(「八郎四郎ひ・・・・とのいよく/\申へく候よし、申つけへく候」)。ならば不参だろう。
・太郎二郎入道は不明ながら、名前から年寄りであろうこと、また4号文書で八郎四郎と一緒に農作物に点札を立てる作業に従事していることから、八郎四郎と一緒に留守を守っていたかもしれない。百姓?、いずれにせよ不詳。
・太郎八郎も不明。経之は又けさ宛の手紙(40号文書)で、太郎八郎に何かを伝えるよう指示している。これも留守居か。
・さうとう二郎、不明。47号文書の(「おくゑ・・・ひんき候ハヽ、さうとう二郎か・・・」)から奥州と何らかの関係がありそうだ。参戦の有無は不明。
・二郎太郎。不明。
・最後に五郎。さんざん経之からの催促を受けながら無視しているフシのある五郎。やはり行かなかったと見るべきか。
以上17名、ざっと従者たちの動向を概観するとこのようになる。やはり経之に付き従って常陸に下った者は少なそうだ。正確な数はもとよりわかるはずがないが、もしかしたら本当に経之の手勢は12,3人程度だったのかもしれない。

 〈五郎という従者〉
経之の従者の中で特に気になるのが五郎だ。五郎は経之の手紙の中で登場回数が6回と、もっとも多く登場する彦三郎の10回に次ぎ、2番目に多い。それだけ登場するのであれば重用されている家臣と考えてもおかしくないと思うのだが、実際の五郎の行動を見ていると、どうもそうは思えない。経之に付き従って鎌倉滞在中に突然寺で宿直したいと言い出して帰郷したり、帰郷後も参陣するよう命令を受けておきながら逃げているような身勝手、自堕落な人物だ。経之から信頼されている彦三郎が独自の従者を抱え、留守宅の仕事を任せられるなど山内家において重要な存在であることが明らかなのに対して、五郎は自由気ままにふるまい、許されるはずのない行動をとっているが、この従者はいったいどういう人物なのか、不思議でならない。忠臣という言葉がまったく似合わない、いつ追放されてもおかしくない五郎の身分や人となりを考えてみたい。
そもそも五郎は武士の郎党か、それともただの百姓なのだろうか。五郎には名字がなく彦三郎のように「又」(独自の従者)を抱えているわけでもないことから、郎党であったとしても中間や若党などの比較的地位の低い武士階級だと考えられる。しかし郎党の立場にありながら主人である経之の命令に背くなどの不遜な態度はどうにも解せない。経之は6号文書で信頼できる部下がいないと嘆いていたが、そのとき名前が挙がっていたのは唯一五郎だ(「あまり物さはくり候物候ハて、事さらふさたにて候、五郎をも、ちかくは人も、又これの事も、つやゝゝなること候ハねとも」)。そんな部下はさっさと首にすればよいではないか思うのだが、一方で経之は人手が足りていないことを匂わすようなことも述べている。人材不足の経之家中では切りたくても切れなかったのかもしれない。
経之の家中で反抗的な態度をとるのは何も五郎だけでなく、「おほくほのいや三郎(大久保の弥三郎)」のような百姓と思われる人物も同様である。百姓らが領主の経之に強気な態度をとるのは度重なる年貢やいくさ用途の請求に対する反発と、外からやってきたにわか領主と親密な関係を築けていないことによるのだろう。とすると五郎の不遜な態度も百姓ゆえなのだろうか。
時代背景を考慮に入れれば、五郎が下人だった可能性もある。以前、第1部【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で、武士(御家人)が窮迫して最終的に無足の御家人になる、と書いたが、百姓だって飢饉や病など様々な事情で生活苦におちいり、借金のかたに田畑を差し押さえられることはあった。債権者による差し押さえという点では現代と変わりはないが、大きな違いは借金を返せなければ奴隷へと身分を落とされてしまう時代であったという点だ。そこで考えたのだが、もしかしたら五郎は元百姓で、それが凶作による飢饉で年貢を払えないなどの事情があり、身分を下人(奴隷)に落とすことになってしまったのではないか。
鎌倉時代には飢饉の際、飢えて食えなくなった者を下人として所有してよい、という法律(御成敗式目)があった。耳を疑うように法律だが、背景には飢えて死ぬくらいなら奴隷のほうがまだましだろうという発想があった。奴隷商人に都合がいいだけの詭弁におもえるが、幕府に可能な弱者救済処置はその程度のものだった。そういう背景を考えあわせれば、五郎の不遜な態度も理解できるような気がする。下人に身を落とした五郎は経之の下に引き取られた。武士の郎党ではなく、進んで経之に付き従っているわけではないため、ほかの従者のように主人の経之と強い紐帯でむすばれているわけでもなく、いくさについてこいと言われても迷惑に思ったことだろう。また、下人に身分を落とした人の絶望を考えれば、寺くらいしか頼れる場所がなく、望みを託すのは後生のことばかりであってもおかしくない。

 

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その12

常陸へ向け、鎌倉を出発】

北朝勢の内紛〉
常陸に漂着して以降の北畠親房は、北関東や奥州で南朝方の勢力の扶植、拡大に力を注ぎ、常陸国から絹川を越えて隣国の下総国下河辺まで軍勢を進めるなど積極的な動きを見せている。それに対し、高師冬率いる北朝勢はいまだ鎌倉にとどまったままで、いっこうに常州御発向の軍令は下らない。常陸下りの日取りはなかなか決まらない。
その背景には軍勢の集まりが悪い、という事情があった。師冬は自身の守護国である武蔵国を中心に関東中の武士を結集しようと呼び掛けたものの、武士たちの反応は鈍かった。師冬の軍勢催促に武士たちの腰が重かったわけは、端的に言えばいくさ続きであらたに勢を起こす余裕がなかったからだ。いや、それ以前に積極的に参陣する理由も乏しかった。武士たちには鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱のときのような動機がなかった。元弘当時、多くの御家人をいくさへと駆り立てた背景には、得宗である北条一族に権限や富が集中する専制政治への不信、反感、怒りがあり、乱は、幕府が御家人の生存のよりどころである所領を十分に安堵して生活の保障してやれなくなったことへの不満の爆発であった。しかしこんどの常陸征伐においては、経之をはじめとする武士の多くはたしかに所領問題など様々な不満を抱えてはいたものの、それ自体は南朝勢と戦う明確な理由にはなり得なかった。武士が戦う理由の最大のものは所領の帰属争いであり、南朝政権によって所領を奪われた、というような特殊な事情がない限り、師冬に従っていくさに出向くには動機が不十分だった。
しかも北朝方内部に目を向けると、ここにも問題があった。当時、北朝方は決して一枚岩ではなく、足利尊氏を頂点とした北朝武家は、尊氏の弟である足利直義一派と、尊氏の執事高師直、師泰兄弟に与する一派に分裂していた。この内訌は高師冬の軍勢催促にも影響を与えたはずである。高家の一員である師冬が鎌倉に下ってきたとき、師冬は武蔵国守護と鎌倉府執事の地位に就任しているが、この執事職にはもうひとり足利直義に近い上杉憲顕がいた。関東北朝方の武士の中には、直義に心を寄せる者もいれば、高兄弟に同調する者もいたであろう。直義派の武士たちが高師冬とのかかわりを避けようとしたとしても不思議ではない。さらにいえば、師冬には申し訳ないが、北朝方の大将が師冬だったというのも影響したかもしれない。4年前の中先代の乱のときには京から足利尊氏御大が自ら鎌倉に下向してきた。このときと同じように尊氏が下って来たならば関東中の武士も気を引き締めて我先に鎌倉に駆け出したかもしれない。が、残念ながらやってきたのは尊氏ではなく、弟の直義でも、執事の高兄弟ですらなかった。明らかに格落ちの師冬が相手では「師冬? 誰だそれは?」と値踏みされたのでは、と勘ぐりたくなる。
8月1日の26号文書には出発が決まらないもどかしい雰囲気が現れている。
 「たちあしちかくなり候てなんと申候て、此七八ニはあらす候ゑとも、とてもかやうに候て、いくほとも候ハねハ、三かハとのゝむさし▢▢下も、廿日ころにてあるへく候」(発足間近といわれていてさすがに今月の7、8日のことではないだろうが、この様子ではそんなに先のことではなく、三河殿の武蔵下りは20日頃になるだろう)
師冬が鎌倉に到着してから2ヶ月近く経っている。その間、安保光泰の先遣隊こそ常陸へ向かったものの、常陸国と境を接する下総国下河辺荘では攻め込まれて苦戦している状況にもかかわらず、肝心の本体である師冬率いる鎌倉勢は、戦う以前にいまだ十分な兵すら集まっていない。

〈出陣の日はいつになるのか〉
師冬勢の常陸下りの日取りが初めて明らかになったのは、7月に書かれたと思われる20号文書で、日取りは8月11日であった(「ら月の十一日は、かならす/\ひたちゑ下へく候」原文ママ)。
ところが「来月の11日には必ず必ず」、と強調していたにもかかわらず、この11日には出発せず、13日へと延期になってしまった。
 「ひたち下の事、いまゝてかやうにのひ候へハ、人めない人ならすなけき入▢▢十三日ニたち候ハはや▢▢候へとも、今日・・・」(23号文書)。
意味は分かりづらいが、「今までこんなふうに(何度も)延期されれば、ひと目を気にせず放言するような人でなくとも嘆いてしまう。13日に出発できれば、と思っても・・・」ぐらいの意味か。単に11日が13日にたった二日延びただけならそう目くじらを立てるほどのことではないと思うが、手紙を読む限りでは、それまでもたびたび出発の噂はあったがその都度期待は裏切られていたようだ。出発が遅れていたため、武士たちから「今度もどうせ・・・」、と半ばあきれられている様子がうかがえる。武士たちからしてみれば、人をわざわざ鎌倉まで呼びつけておきながら、出発日すら決まらない斯様な体たらくでは、やきもきして愚痴のひとつやふたつ言いたくなるのも道理である。武士の不満の元はそれ以外にも、現実的な損失が発生していることも理由になっている。ただ無為に鎌倉に滞在しているだけでも宿代やら食費などで銭は出ていくのだ。経之も鎌倉滞在中に滞納した宿代が1貫文(千文)にものぼって困っている(「いまたやとためも一くハんあまり」30号文書)。この1貫文は日頃、経之が頼りにしている「あらいとの」(新井殿)に立て替えてもらったようだ。
関戸観音堂の坊主への返事(25号文書)では、
 「おほせのことく、下もけふあすと申て候しかとも、いつもの事にて候へば、つや▢▢下候ぬへきていも候はて候しほとに、・・・」(おっしゃる通り、常陸下りも今日か明日かと言われていますが、いつものことです。まったく下らないというわけではなさそうですが・・・)
と、鎌倉の様子を伝えている。観音堂の坊主からもいつになったら下るのかと心配されていたのだろう。しかしこんどばかりは本当に出発日が決まったようだ。
 「御下も十六日とうけ給候あひ▢」
 「とのかたよりもいかにし候ても下と仰られて候」
とある。残念ながら13日からまた延びてしまったが、それでもようやく16日に決まり、「とのかた(殿方)」からなんとしても下れ、と命じられている。この「とのかた(殿方)」とは高師冬の関係者と思われる。

放生会
13日が16日の延びた理由には放生会が考えられる。
 「はうしやうへのようとうの事、うけ給候、いそき/\ほんかうのひやくしやうともニ仰つけ候て、十▢四日ニこれ給へ・・・」(放生会の用途のことで命令を受けた。いそいで本郷の百姓どもに仰せ付けて13,4日までにもってこさせよ。7号文書)。
放生会といえば流鏑馬神事に代表されるように鎌倉武士にとって欠かすことのできない祭事である。例年8月の15日に執り行われる。現代の放生会は9月だが、それは旧暦と現在の暦の違いのためで、実際の開催時期はほぼ一緒だ。これからいくさに赴こうとする武士たちがいくさの前に戦捷祈願の法会を執り行うことは理にかなっているといえる。ここまで出発日が延びたことだし、せっかくだから放生会を終えてから出発しようではないか、と考えたのだろう。どうせこれまでもたびたび出発は遅れてきたのだ。いまさら13日が16日に延びたくらいなんでもない。それより盛大に放生会を開き、戦勝祈願をして士気を高めたほうがいい、と考えても不思議ではない。もっとも経之はこれをあまり喜ばなかったに違いない。放生会のために用途(費用)の負担を求められているからだ。負担額は不明だが、経之にはこれを支払うだけの手元資金がなかったと見える。そのためわざわざ土渕の家から持ってこさせようとしている。ただでさえいくさ用途に四苦八苦している経之には、追い打ちをかけるようなこの「はうしやうへのようとう」は全く予期しない、不要不急の出費に思えたことだろう。

めずらしく日付が明らかになっている放生会翌日、8月16日の手紙(28号文書)を見てみよう。残念ながら放生会の様子には全く触れられていないが、放生会と関連していそうな記述はある。
 「かまくらへものほせたく候しかとも、あまりミくるしけにしてもとて候、ゐ中や申、るすもいかにたいかたく候らんと心もなく候、五郎にも、ひたるくとも下候・・・」(鎌倉に上らせたかったがあまり見苦しことは、と思い、上らせなかった。田舎も、私の留守がいかにも耐え難いであろうと心もとない。五郎にもだるくても下れ・・・)
文中「かまくらへものほせたく候しかとも」(鎌倉に上らせたかったが)とある。これは一体誰を上らせたかったのかが問題になるが、どうやら息子である「又けさ」のことを指しているようだ。何のために上らせたかったのだろう。少し前に呼びつけておいてすぐに返したではないか。そして、上らせるとなぜ見苦しいのか(「あまりミくるしけにしてもとて候」)。
思うに経之は息子の「又けさ」に放生会を見せてやりたかったのではないか。放生会を見せるために鎌倉まで呼ぼうとしたが今年の放生会は特に出陣前の武士たちが一堂に会する場だ。そんなところに親バカ丸出しで元服前の子供を連れて物見遊山では格好がつかない。見苦しいとはそのことだろう。しかしながら、だ。その後の経之の運命を知っているだけに、できることなら連れて行ってあげてほしかった。今回を逃しては経之が「又けさ」と一緒に過ごす機会はもう訪れないのだから。

〈五郎、再登場〉
28号文書では五郎が再登場する(「五郎にも、ひたるくとも下候・・・」)。少し前に寺で宿直をしたいというので五郎は帰宅を許されたが、なにもいくさ、つまり常陸下りまで免除されたわけではない。経之は連れてゆくつもりだった。しかし五郎にはあまりその気はないようだ。出陣直前のこの時期には経之は配下の従者たちを鎌倉に呼び集めていたと思われる。予定ではその中に五郎も含まれていた。しかしどうもさぼっている気配が濃厚である。わざわざ名指しで呼び出しを食らうのだから間違いない。従者が主人の命令を「ひたる」い(だるい)からと称して従わないなんてことがあるのだろうか。このあたりの人間関係は興味を惹かれる。
続く又けさ宛と思われる29号文書でも五郎は話題になっている。
 「六郎との、五郎いかにひたるく候らんと▢もいやりこそ候へ、六郎とのニやかてたひ候へくよし・・・」(六郎殿、五郎、とても疲れていることとは思うけれども、六郎殿にすぐに来るように伝えよ)。
度重なる主人の催促に耳を貸さない五郎の不遜な態度はどこから来るのだろうか。譜代の郎党ならば主人と強い紐帯で結ばれ、もう少し忠実であると思うが。五郎の態度は山内家における五郎の立場、身分を考える上で興味深い。

〈むかはぬ人は〉
「六郎との」は山内六郎治清だろう。六郎は訴訟相手である可能性があり、経之とは関係が悪化していたと考えられる。別の手紙では六郎は又けさともこじれていると読める箇所もある(【経之の家族構成】参照)。経之は放っておけばいいのに、そんな六郎にもいくさに参加するように呼びかけているのはなぜか。同じ29号文書内の以下の文言がヒントになりそうだ。
 「むかぬ人をハ、事さら▢▢▢事もきひしく候うゑニ、▢▢▢かく申候、▢▢はなんきはかりなく候」
意味は分かりづらいが「常陸に向かわない人は特に厳しい罰が下り、計り知れない難儀を被ることになる」、くらいに理解しておくべきか。関連して34号文書に重大な事が書かれている。
 「むかはぬ人はミな/\しよりやうをとられへきよし申候、そのほか御しやう申人ともは事に人の申候へハ、ほんりやうをとられ候也」(出陣しない者は所領を没収されるそうだ。そのことについて異議を唱える人は本領まで取られるそうだ)。
あまりに参陣者が少ないことに業を煮やした高師冬は強硬手段に打って出た。所領を没収するというのである。この場合の所領とは、元弘の乱などのいくさで功績のあった武士に新たにくだされた土地であり、本領とはそれ以前から先祖代々受け継ぎ所有していた土地のことを指す。従わない者は北朝方の大将である足利尊氏から与えられた土地を没収する。そしてそれににとどまらず、そのことで文句を言うのならもともと持っていた本領も奪うぞ、と脅しているのである。これは一大事である。所領や本領を取られるとなれば武士たちとしても閑却にはできない。経之からすれば、参陣を拒否する六郎が所領を召し上げられるだけなら困らないかもしれないが、もし経之が山内家の惣領で、庶子である六郎を連れてゆく責任を負わされているとしたら、いくら自分は参陣していると言い訳しても無関係では済まされそうにない。なおざりにすれば一族である六郎の不参のとばっちりが自身にも及ぶおそれがある。わざわざ手紙にするわけだ。

〈彦三郎の又、きへいじの又〉
常陸下り間近のこの時期、当然ながら鎌倉には召集を受けた武士とその一族郎党、従者たちが多数上ってきている。いくさを前に気の立っている男たちがひとところに集まればたいてい何らかのトラブルは避けられまい。放生会直前の7号文書を見てみよう。
 「ひこ三郎▢▢との物にて候よしきゝ下候て、さはくる人/\御きにも、きへいしかもとの物、かやうの事をふるまい候をは、なにともおほせ候ハて候けるよし、うけ給し事、うたてくこそ候へ」
非常に意味の取りにくい文章である。経之の従者である彦三郎ときへいじの下の者、つまり経之からしたら又家来たちがなにか騒動を起こして裁判になっているようだ。大方けんか沙汰だろうが。そして裁判を担当している人?に何かを言われたのか、それとも、もう何も言うことはないと突き放されたのか、経之は悲しい、せつない気持ち(「うたてくこそ候」)になっている。後半部分は例によって意味が分からない。自分の読解力のなさをうたてし、と恥じている。

〈出発日はまた延期〉
出発日とされた8月16日、予定通り、師冬勢は常陸へ下ったのか、というとそうではないらしい。
15日の放生会も終わり、翌16日の出発予定日、ちょうどその日8月16日付の経之の手紙は、訴訟で得た在家を売って弓を買えとか、五郎もひだるくても鎌倉まで来いだの、留守中の田舎家のことが心配だ、などと、それまでとあまり変わらない話に終始していて、出発当日のあわただしさは感じられない。
27号文書によると、
 「ちかく下候ハするよし申て候しかとも、とてもはうしやうへにあひ候ハて、下候ハん事とて候、三かハとのゝ御下も、この廿日けんちゃうにて候へく候ほとニ、とてもむさしのこふまて、御ともし候て」(近いうちに下るとは言ったけれど、とても放生会に参加しないで下るなんて、というわけで、三河殿(師冬)のお下りもこの20日に厳重に、となった。武蔵の国府(現東京都府中市)までお供して)
とあり、こんどは20日へと変更されたようだ。一体いつになったら・・・。

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府中大國魂神社 かつては六所宮と呼ばれ武蔵国国府の近くにあった

高師冬率いる北朝勢が鎌倉をあとにしたのが正確にいつのことか明らかでないが、20日とされて以降、新たに出発日が変更されたとの記述がないことから、やはりそのあたりに出発したとみるのが妥当だろう。これ以降、「日野市史史料集 高幡不動胎内文書編」でいえば30号文書からは話題が行軍中の出来事に移る。長くなった。鎌倉滞在中の話をやっと終えることができる。しかしこれからがまた長い。いくさと言ったら華々しく勇ましい話ばかりに注目がいくが、実際はそんなにすんなりといくさが始まるわけではなく、その前段階の準備も含めていくさの本当の有り様なのだと、胎内文書にふれて初めて思い知らされた。もう少し我慢してお付き合い願いたい。経之の手紙のようにこれほどまとまった量の、それもいくさ用途の確保に汲々としている武士の姿はなかなか他の史書ではお目にかかれないのではないか。このリアルさにこそ胎内文書編の価値がある、と理解してもらえれば、と願う。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その11

【出陣までの出来事】その3

北畠親房常陸上陸〉
ここで少し山内経之が鎌倉滞在している頃の常陸情勢について概観したい。実は常陸ではもう合戦は始まっている。
後醍醐天皇重臣で、南朝の実質ナンバー2である北畠親房常陸に上陸したのは、経之の手紙が書かれた年の前年、暦応元年(1338)のことであった。
親房は奥州勢を再結集するため、当初陸奥国に向かうはずであったが、伊勢を出帆後まもなく海路を航行中に嵐に見舞われ、多くの船が遭難、難破して散り散りになってしまった。親房の船のみがかろうじて常陸国東條庄に漂着し、東条氏の庇護を受けてひとまずは同庄内の神宮寺城にかくまわれた。しかし親房の到着を知った常陸北朝方のひとり佐竹氏は、親房のいる神宮寺城を攻めてこれを落とし、次いで逃亡先の阿波崎城をも陥いれた。命からがら漂着した親房は上陸後もしばらくは気を休める暇もなかった。親房はその後小田治久の居城である小田城に身を寄せ、ここから石川、田村、小山氏ら奥州各地の武士に書状を送って南朝方へ招誘したり、特に親房が期待していた結城親朝には再々にわたって書を与へて、自ら陸奥に赴かんとするを告げ、挙兵するよう協力を求めている。これを機に東国の南朝勢は活性化した。親房の結城親朝への期待、信頼は相当なもので、戦死した北畠顕家の娘を親朝に預けて後見人とするほどであった。
翌暦応2年3月に入ると、親房の配下の一人、春日中将顕国が下野国に発向し矢木岡、益子城を落とすと、その余波で上三河箕輪城も自落させ、4月には宇都宮氏を破る戦果を上げた。北朝方が高師冬を関東に派遣したのはこの春日中将の働きへの対応である。
高師冬は鎌倉到着後の6月、武蔵七党の安保光泰に下総国松岡荘をあてがっている。松岡荘は南朝方の豊田弥次郎入道の所領だが、それをあてがうということは安保光泰にその地を攻め取れと命じていることを意味する。常陸国関郡、下妻荘と隣接する松岡荘は常陸攻略の最前線にふさわしい位置にあり、師冬はここを確保して常陸攻めの足がかりにしようとしたのである。
さらに7月9日には絹川(鬼怒川)をはさんで常陸と境を接する下総国下河辺荘でも合戦が始まっている。このときは常陸勢が先んじて川を越えて攻め寄せてきた。記録に残されたのはこの2つの合戦のみだが、実際にはもっと多くの合戦や小競り合いがあったと思われる。経之が鎌倉で裁判だの用途が足りないなどと右往左往しているころも常陸では戦闘が継続中であった。

〈七郎二郎はぬまとへ行った?〉
 「又けふ▢▢▢〇まとへ、七郎二郎め▢▢▢て候也、とてもこのさう(左右)もきゝたく候」(▢▢▢〇や▢▢▢は複数字欠字、具体的な欠字数は不明)。
欠字ばかりで解読がむつかしいが可能な限り意味を推測してみよう。まず七郎二郎というのは経之の従者の一人だろう。経之はその七郎二郎に何かをさせたようだ。そしてその結果を知りたがっている(「さう(左右)」は成り行き、知らせという意味)。
経之は七郎二郎に何をさせたのか、冒頭の「又けふ▢▢▢〇まとへ」の部分の解釈が悩ましい。「また、今日」はわかる。その後の▢▢▢の部分はともかく、〇のところには「ぬ」が入るのではないか。ここに「ぬ」が入るとすると「〇まとへ」は「ぬまとへ」になる。「ぬまと」とはもちろん陸奥国にある経之の所領の一つである。つまりここからどんな結論が導き出されるのかはあくまでこういう憶測が許されるのならばの話だが、経之は七郎二郎を「ぬまと」へ使いとして送り出したのではないか。先に経之は「ぬまと」へ曽我殿と一緒に往くつもりだったが断念した、という話があった。馬を用意できないなど、断念したのは致し方ない理由はあったものの、しかし、だからといってこれからいくさだというのに、しかも金策に四苦八苦している経之が「ぬまと」を放っておくとは思えない。なんとか連絡をとっていくさ用途に充てる金銭や兵糧、いくたりかの兵を期待するのが自然だろう。そのために七郎二郎を「ぬまと」へ派遣したのではないか。繰り返しになるがわたしの勝手な憶測なので話半分に考えておく必要はあるが全くありえない話ではない。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その10

【出陣までの出来事】続き

〈新井殿〉
 「あらいとの(新井殿)」の住む新井という地は、経之の土渕郷の中の小さな区域である。古地図には新井郷という地名はないので土渕郷の一部だろう。新井殿は経之が借金の保証人を頼むほど特に信頼を寄せている人物とすでに書いたが、ほかにも新井殿への信頼の度合いがわかる記述が経之の手紙(21、22号文書)に散見できる。その具体的な内容を紹介しよう。
 「おなししたしく候なかに▢▢▢あらいとのゝ事ハ、はんしたのもしく事にて▢あひた、何事せう/\申うけ給るへにて候あひたかた/\いつれもしさいなく候ハん事、身の程も存候」
経之の手紙では、経之が日頃親しく交流している近隣の住人として「くわんのんだうのバうず(観音堂の坊主)」、「しゃうしん(高幡不動堂の住僧)」、「たかはた殿(高幡殿)」などの名が挙がるが、同じ親しい間柄の中でも新井殿は万事頼もしい、と彼ら以上に新井殿に特に厚い信頼を寄せている。後半部分は意味がよくわからなかった。また、
 「かねて申候しこと、したちの事ハ、いくたひもあらいとのにまかせておかせ候へく候」
 「ひやくしやうともの事をも、あらいとののかたへ仰候て」
と、年貢徴収について自分の所領であるにもかかわらず、息子の又けさや自身の従者をさしおいて、より任せるに足りると考えている。さらに、
 「人なんとの事ハ、御心とかせ給候ハす、おほせ候へく候、返々とれもあらい▢▢事、身の事、おなし事ニとは存候へとも、こなたからしてさしもなきていに候て、人々もいつしかいて入候へハと存候て、この物をハとゝめたく存へとも」
他人を信用するな、といいながらも一方で新井殿だけは自分と同じと思え、などと身内同様に信頼しているのがよくわかる。身内同様といったが、思い返せば経之の身内に「六郎との(山内六郎治清)」がいた。又けさとトラブルになっている六郎だ。経之の訴訟の相手である可能性もある。少なくともこの六郎より新井殿の方を信用しているだろう。残念ながらまたしても後半部分は理解できなかった。どなたか、解読できる方がいたらおねがいしたい。

〈新井殿はなぜいくさに行かなかったのか〉
この新井殿は常陸合戦に参加していない。いやそれどころか鎌倉幕府が滅びた元弘の乱にも参加していない可能性がある。常陸合戦には経之のほか、得恒郷の「高幡との」もいやおうなしに駆り出されている。なぜ新井殿に限って不参が許されるのだろうか。普通であれば軍勢催促を無視していくさに参陣しないとなると所領を没収されてしまうだろう。しかし新井殿は元弘の乱の際にもなにもせずにひょうひょうと戦乱の時代をのりきっているようにみえる。
経之が新井殿に対してかなりの信頼と敬意を払っていることからすると新井殿は少なくとも経之よりは年長者、けっこうな老人かもしれない。高齢を理由にいくさを免除されることはあるだろう。また従軍できそうな子息もなければ新井家はいくさで経済的に疲弊する可能性は低い。だとしたら親身になって山内家の面倒を見る余裕はありそうだ。新井殿がいくさに行かなかった理由としてまず年齢が考えられる。
ただ新井殿が参戦しなかった本当の理由は、それ以外にあるのではないか。
新井という地、村は経之の土渕郷の中にある。新井郷という郷はない。あくまで土渕郷の一部だ。妙なことを言うようだが、これが理由でそもそも新井殿は鎌倉幕府北朝足利尊氏にその存在を知られていなかったのではないか。つまり幕府は土渕郷の所有者の名前は把握していたが、その一部がほかの人に所有であることまで知らなかった。知られていないのであれば軍勢催促のしようがない。笑い話のような話だが、歴とした武士でありながら存在すら知られてなかったがために催促を受けなかった。元弘の乱後、土渕郷は幕府の御家人だった土渕氏から召し上げられ、討幕軍に参加した経之に恩賞として与えられた。経之は土渕郷に入植したとき、新井殿がそこにいることに驚いたかもしれない。自分の物である土地にすでに人がいたのだから。
新井殿は幕府側にも討幕勢にも加担してないと思われるが、新井殿は幕府のみならず、討幕軍(足利方)にも知られていなかったために、没収されることもなかった。経之と新井殿の出逢いは少し滑稽で、経之は困惑し、新井殿がばつが悪そうに恐縮している姿が頭に浮かぶ。本来ならそれこそ所有権を争って訴訟になったとしてもおかしくない事態だ。経之が強欲な人間なら新井殿を追い出しにかかっただろう。しかし経之は新井殿を尊重して彼の所有であることを快く受け入れた。そこで生まれた信頼関係が、経之が常陸に出発した後、年貢の徴収など「したち(下地)の事」を安心して新井殿に託せることにつながったのかもしれない。それもこれも存在を知られてなかったという幸運のおかげだ。あくまで推測に過ぎないが。

〈経之の金策のこと その2〉
いままでいくさ用途の捻出のために、経之は新井殿に借財の保証人になってもらったり、寺の坊主から金銭、兵糧を借りたりする例を見てきたが、それだけではまだ足りない。一体いくさに総額でいくらかかるのだろう。百姓どもが年貢を納めようとしないので苦労しているのはわかるが、経之は思いあまってあまり好ましくない方法で資金調達しようとしている。
 「しろを二くハんはかりにてうけ候へく候、いかやうにも御はからひ候て、さいけをう・・・」(なんとしても在家を売って代金を2貫ばかり受け取れ)
この手紙(26号文書)の日付は欠損しているので断言はできないが、ほかの手紙との関係からは8月1日に又けさ宛てに出されたものと考えられる。文中の「さいけをう(在家を売る)」の在家とは、百姓の家と田畑が一体となった課税単位のことを指す。すなわち、年貢を徴収するには課税対象となる田畑と、そこを耕して米麦を育てる百姓の存在が欠かせない。これらを一体としてとらえたものが在家である。家にいる、ステイホームの意味ではない。売るといっても当然だがそこだけを物理的に切り離して手渡しするなどできるはずがないので、あくまで売却した在家に対する課税権が買主に移転するという仕組みである。この移転、譲渡はけっして売りっぱなしという意味ではなく、たいていの場合は代金に利息をつけて返金することで在家を取り戻すことは可能である。しかし在家を人に売ってしまえばその分、徴収できる年貢も減ってしまう。一時的に金銭を得て急場をしのいでも、のちのち利息を付けて返さなければ、いつまでたっても在家は人手に渡ったままになる。これを繰り返していればいずれ家計のやりくりに窮することになる。鎌倉時代の武士(御家人)が落魄した理由がこれだ。行きつく先は竹崎季長のようなすべてを失った無足の御家人である。経之が手を付けたのはこの禁じ手だ。経之は親しい寺の坊主からも借りているがこれも基本的には一緒だろう。在家を売る(担保にする)という点で変わりはない。違いがあるとしたら利息率や抵当(担保)流れまでの期間だろう。強欲な相手(高利貸し)から借りればあとでツケは大きくなる。のちにそういう話もでてくる。
続いて27号文書も見てみよう。
 「一日申候しやうに、いかにしてもさいけを一けんうらせて給へく候、こそて二,三申てき候ハてはかなうましく候、ちやそめのちかほしく候」(一日に申したように何としても在家を一軒売って、小袖2,3買い、着なければ、(寒くて?)かなわないだろう。色は茶染めの地が欲しい。)
ちなみに小袖は調べてみたら意外に高く、安いものでも500文、ほとんどは1貫から3貫の値がついている。現在の貨幣価値になおせば5万~30万円もする。布地が貴重な時代なので仕方ないとは思うがずいぶんと高い。生きてる時代が現代でよかった、ユニクロがあるし。
また28号文書でも「そしう候しさいけ(訴訟になった在家)」を売りたいという話がある。
 「そしう候しさいけまいらせへく候、もしようとうハしのこり候ハヽとり候て給候て、ゆミかハせてまいらせへく候」(訴訟になった在家を処分したい。もし費用が残ったら弓買って送ってくれ)
この「そしう(訴訟)」とは、第1部の【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で登場した例の訴訟のことと思われる。経之は家族に、この「さいけ(在家)」を売って諸々の支払いにあてた後、あまりがあれば弓を買え、と指示している。この訴訟について、第1部では所領の所有権争いだろう、と述べたが、この「訴訟で取り戻した所領(在家)を売る」という28号文書の記述により、ほぼそれで正しいと確定してよいと思う。しかし、訴訟相手は依然不明のままだ。結論を言うとこれは最後まで明らかにしえなかった。訴訟の勝敗については、訴訟になった在家を売れ、と言ってるくらいなのだから勝訴したのは言うまでもない。やはり奉行(裁判官)に酒を送った効果だろうか。
経之はせっかく勝って確保した在家をあっさり手放し、弓を手に入れようとしている。弓の値段も調べたが、これはもう値幅が広すぎて参考になりそうなおおよその数値をも提示しがたかった。調べた範囲では弓一張りが3文から1.5貫文(1500文)とあった。全く参考にならないと思う。私の朧気な記憶では一張り1貫文(1000文)くらい、と何かの本で読んだような気がするが・・・。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その9

【出陣までの出来事】

〈経之の帰郷〉
以上が経之が手紙に書き残した暦応二年(1339)よりも前、数年の間に起きた主な出来事である。しかしそれでもまだ兵革は止まない。高師冬の関東下向で経之は戦乱で困窮した百姓の尻を叩いてまたいくさの準備をしなければならなかった。
6月か7月ころのことだと思われるが、経之は彦三郎という従者を常陸下向までの間、休暇を与える目的なのかしばらく本領(武蔵国多西郡土渕郷)に帰らせようとしている。滞っている年貢徴収のためかもしれない。しかし実際には彦三郎を帰すことはなかった。
 「ひこ三郎をしハらくひたちへ下候まてもと存候て、まいらせ候へハ、五郎あまりにまいりたきよし申候」(21号文書)
常陸下向まで留守宅に彦三郎を帰すつもりでいたが五郎という従者があまりにも帰りたいというので五郎を代わりとしている。その理由として寺で奉仕活動をしたいからだそうだ。この五郎、信心深いのか高幡不動堂で宿直をしたい、と殊勝な申し出をしているのだ。が、どうも嘘くさい。本音は経之のそばから離れたかっただけのような気がする。この従者の行動を見ているとそんな風に思えてくる。五郎は6号文書で役に立たないと名指しされた従者である。
五郎を土渕郷に返したものの、その後、経之は自ら金策のために一旦帰郷している。やはり五郎では役に立たなかった。経之は帰郷して直接百姓らとの折衝に当たるつもりだったのだろうが、果たして百姓が聞く耳を持ったかどうか。実際芳しい結果は得られなかった。「しやうしん」という高幡不動堂の坊主への手紙(22号文書)の中で、
 「兼又こんともまいり候て、御てらをもみまいらせたく相存候しに、あまりにけしきもさたうけ(左道気)にて候しほとに、かへりて候御事、返々心よりほかに存候」(帰ったついでにお寺にお参りをしたかったがあまりに金策が思ったようにゆかず、そのまま鎌倉に戻ってしまった。返す返す残念だ)
と述べている。
この高幡不動堂は経之の手紙が発見された寺であり、経之との関係は深い。経之が土渕郷に入植してきて間もない1335年(建武2年)8月4日にこの寺の御堂は嵐で倒壊し、中にあった不動明王像も損傷している。その修理ために高幡氏を始め近郷の武士たちが尽力した。経之も近隣の好で手を貸していたはずだ。そういう縁もあって経之の手紙は不動明王像の胎内に残されることになったのであろう。
またこの時期、新井殿?に宛てた手紙には「ねうほう(女房)やせて候」(15号文書)とあり、妻の心配をしている。帰郷した際に見たのだろうか。経之が不在中の心労がたたって体調を崩したのかもしれない。

〈ぬまとへ〉
鎌倉でいくさ準備中の山内経之は、準備の一環として自身の所領の一つである「ぬまと」(陸奥国牡鹿郡沼津、現宮城県石巻市)へ下ろうと考えている。わざわざ遠く陸奥国まで行く目的としては、「ぬまと」からもいくさ費用を徴収し、軍勢を連れて来ることにあると考えられる。
7月19日付の10号文書によると、経之は「有本」という地から物見が帰ってきたら「ぬまと」へ行くつもり、とある。
 「身ハぬまとへまかり候ハんと存候也、有本よりの物見候ハヽ、▢▢▢のへまかり候へく▢」(ぬまとへ参ろうと思っています、有本からの物見が到着すれば・・・参るつもりです)
「有本」がどこかは不明。物見の存在は、関東以北の地域情勢が緊迫していることを感じさせる。経之が向かおうとしている奥州の「ぬまと」あたりは敵方である南朝が優勢であり、また利根川以北の北関東も北畠親房常陸入りして以来、南朝勢の活動が活発化している。道中は決して安全とは言えなかった。
「ぬまと」行きに関連して本領の土渕郷から息子の「又けさ」を鎌倉まで呼び寄せている(8号文書)。
 「ぬまとへ下へき事におもひ候て、子をもよひのほせて候し□とも、そかとのもはやたち候よし申候、又あまりにのりかいの一きたにも候ハてと存候て、下候ハて、これより子を下て候へハ」(ぬまとへ下ろうと思って子を鎌倉まで呼び上らせましたが、曽我殿も早々に旅立ってしまいましたし、また乗り換えの馬一騎すらいないので、同行して下ることができませんでした。鎌倉から子を帰らせました。)
経之がぬまとへ下る理由は理解できるがそのために又けさを鎌倉まで呼んだのはなぜだろうか。それらしい記述がないので推測するしかないが、おそらく又けさをぬまとまで連れてゆくつもりだったのではないかと思う。
武州多西郡土渕郷を本領とする経之ではあったが、百姓の抵抗もあって土渕では思うように所領経営がうまくいかず、領主でありながら経之一家は肩身の狭い思いを味わっていた。そこで経之が常陸で戦っている間だけでも慣れ親しんだぬまとへ又けさを帰そうと思ったのではないかと思う。
だが結局この「ぬまと」行きは沙汰止みとなった。経之は乗り換え用の馬を用意できず、また同行する予定だった「そかとの(曽我殿)」も経之を待たずにさっさと出発してしまったという理由で断念することになった。準備が整わず、同行者もいない状況下で、はるばる「ぬまと」までの移動は、道中の危険を考え合わせれば諦めるのが懸命である。そのあおりを受けてわざわざ呼び寄せた「又けさ」はそのまま土渕の家に帰されることになった。

曽我殿は曽我太郎貞光と思われ、同時期3月頃に、陸奥国にある同氏の本拠大光寺外楯が南朝方に攻められ奪われてしまっている。曽我氏がその奪還のために兵を集めて帰郷する際に、経之も便乗してぬまとまで帰る計画だったのだろう。