山内経之 1339年の戦場からの手紙 その10

【出陣までの出来事】続き

〈新井殿〉
 「あらいとの(新井殿)」の住む新井という地は、経之の土渕郷の中の小さな区域である。古地図には新井郷という地名はないので土渕郷の一部だろう。新井殿は経之が借金の保証人を頼むほど特に信頼を寄せている人物とすでに書いたが、ほかにも新井殿への信頼の度合いがわかる記述が経之の手紙(21、22号文書)に散見できる。その具体的な内容を紹介しよう。
 「おなししたしく候なかに▢▢▢あらいとのゝ事ハ、はんしたのもしく事にて▢あひた、何事せう/\申うけ給るへにて候あひたかた/\いつれもしさいなく候ハん事、身の程も存候」
経之の手紙では、経之が日頃親しく交流している近隣の住人として「くわんのんだうのバうず(観音堂の坊主)」、「しゃうしん(高幡不動堂の住僧)」、「たかはた殿(高幡殿)」などの名が挙がるが、同じ親しい間柄の中でも新井殿は万事頼もしい、と彼ら以上に新井殿に特に厚い信頼を寄せている。後半部分は意味がよくわからなかった。また、
 「かねて申候しこと、したちの事ハ、いくたひもあらいとのにまかせておかせ候へく候」
 「ひやくしやうともの事をも、あらいとののかたへ仰候て」
と、年貢徴収について自分の所領であるにもかかわらず、息子の又けさや自身の従者をさしおいて、より任せるに足りると考えている。さらに、
 「人なんとの事ハ、御心とかせ給候ハす、おほせ候へく候、返々とれもあらい▢▢事、身の事、おなし事ニとは存候へとも、こなたからしてさしもなきていに候て、人々もいつしかいて入候へハと存候て、この物をハとゝめたく存へとも」
他人を信用するな、といいながらも一方で新井殿だけは自分と同じと思え、などと身内同様に信頼しているのがよくわかる。身内同様といったが、思い返せば経之の身内に「六郎との(山内六郎治清)」がいた。又けさとトラブルになっている六郎だ。経之の訴訟の相手である可能性もある。少なくともこの六郎より新井殿の方を信用しているだろう。残念ながらまたしても後半部分は理解できなかった。どなたか、解読できる方がいたらおねがいしたい。

〈新井殿はなぜいくさに行かなかったのか〉
この新井殿は常陸合戦に参加していない。いやそれどころか鎌倉幕府が滅びた元弘の乱にも参加していない可能性がある。常陸合戦には経之のほか、得恒郷の「高幡との」もいやおうなしに駆り出されている。なぜ新井殿に限って不参が許されるのだろうか。普通であれば軍勢催促を無視していくさに参陣しないとなると所領を没収されてしまうだろう。しかし新井殿は元弘の乱の際にもなにもせずにひょうひょうと戦乱の時代をのりきっているようにみえる。
経之が新井殿に対してかなりの信頼と敬意を払っていることからすると新井殿は少なくとも経之よりは年長者、けっこうな老人かもしれない。高齢を理由にいくさを免除されることはあるだろう。また従軍できそうな子息もなければ新井家はいくさで経済的に疲弊する可能性は低い。だとしたら親身になって山内家の面倒を見る余裕はありそうだ。新井殿がいくさに行かなかった理由としてまず年齢が考えられる。
ただ新井殿が参戦しなかった本当の理由は、それ以外にあるのではないか。
新井という地、村は経之の土渕郷の中にある。新井郷という郷はない。あくまで土渕郷の一部だ。妙なことを言うようだが、これが理由でそもそも新井殿は鎌倉幕府北朝足利尊氏にその存在を知られていなかったのではないか。つまり幕府は土渕郷の所有者の名前は把握していたが、その一部がほかの人に所有であることまで知らなかった。知られていないのであれば軍勢催促のしようがない。笑い話のような話だが、歴とした武士でありながら存在すら知られてなかったがために催促を受けなかった。元弘の乱後、土渕郷は幕府の御家人だった土渕氏から召し上げられ、討幕軍に参加した経之に恩賞として与えられた。経之は土渕郷に入植したとき、新井殿がそこにいることに驚いたかもしれない。自分の物である土地にすでに人がいたのだから。
新井殿は幕府側にも討幕勢にも加担してないと思われるが、新井殿は幕府のみならず、討幕軍(足利方)にも知られていなかったために、没収されることもなかった。経之と新井殿の出逢いは少し滑稽で、経之は困惑し、新井殿がばつが悪そうに恐縮している姿が頭に浮かぶ。本来ならそれこそ所有権を争って訴訟になったとしてもおかしくない事態だ。経之が強欲な人間なら新井殿を追い出しにかかっただろう。しかし経之は新井殿を尊重して彼の所有であることを快く受け入れた。そこで生まれた信頼関係が、経之が常陸に出発した後、年貢の徴収など「したち(下地)の事」を安心して新井殿に託せることにつながったのかもしれない。それもこれも存在を知られてなかったという幸運のおかげだ。あくまで推測に過ぎないが。

〈経之の金策のこと その2〉
いままでいくさ用途の捻出のために、経之は新井殿に借財の保証人になってもらったり、寺の坊主から金銭、兵糧を借りたりする例を見てきたが、それだけではまだ足りない。一体いくさに総額でいくらかかるのだろう。百姓どもが年貢を納めようとしないので苦労しているのはわかるが、経之は思いあまってあまり好ましくない方法で資金調達しようとしている。
 「しろを二くハんはかりにてうけ候へく候、いかやうにも御はからひ候て、さいけをう・・・」(なんとしても在家を売って代金を2貫ばかり受け取れ)
この手紙(26号文書)の日付は欠損しているので断言はできないが、ほかの手紙との関係からは8月1日に又けさ宛てに出されたものと考えられる。文中の「さいけをう(在家を売る)」の在家とは、百姓の家と田畑が一体となった課税単位のことを指す。すなわち、年貢を徴収するには課税対象となる田畑と、そこを耕して米麦を育てる百姓の存在が欠かせない。これらを一体としてとらえたものが在家である。家にいる、ステイホームの意味ではない。売るといっても当然だがそこだけを物理的に切り離して手渡しするなどできるはずがないので、あくまで売却した在家に対する課税権が買主に移転するという仕組みである。この移転、譲渡はけっして売りっぱなしという意味ではなく、たいていの場合は代金に利息をつけて返金することで在家を取り戻すことは可能である。しかし在家を人に売ってしまえばその分、徴収できる年貢も減ってしまう。一時的に金銭を得て急場をしのいでも、のちのち利息を付けて返さなければ、いつまでたっても在家は人手に渡ったままになる。これを繰り返していればいずれ家計のやりくりに窮することになる。鎌倉時代の武士(御家人)が落魄した理由がこれだ。行きつく先は竹崎季長のようなすべてを失った無足の御家人である。経之が手を付けたのはこの禁じ手だ。経之は親しい寺の坊主からも借りているがこれも基本的には一緒だろう。在家を売る(担保にする)という点で変わりはない。違いがあるとしたら利息率や抵当(担保)流れまでの期間だろう。強欲な相手(高利貸し)から借りればあとでツケは大きくなる。のちにそういう話もでてくる。
続いて27号文書も見てみよう。
 「一日申候しやうに、いかにしてもさいけを一けんうらせて給へく候、こそて二,三申てき候ハてはかなうましく候、ちやそめのちかほしく候」(一日に申したように何としても在家を一軒売って、小袖2,3買い、着なければ、(寒くて?)かなわないだろう。色は茶染めの地が欲しい。)
ちなみに小袖は調べてみたら意外に高く、安いものでも500文、ほとんどは1貫から3貫の値がついている。現在の貨幣価値になおせば5万~30万円もする。布地が貴重な時代なので仕方ないとは思うがずいぶんと高い。生きてる時代が現代でよかった、ユニクロがあるし。
また28号文書でも「そしう候しさいけ(訴訟になった在家)」を売りたいという話がある。
 「そしう候しさいけまいらせへく候、もしようとうハしのこり候ハヽとり候て給候て、ゆミかハせてまいらせへく候」(訴訟になった在家を処分したい。もし費用が残ったら弓買って送ってくれ)
この「そしう(訴訟)」とは、第1部の【山内経之、鎌倉での訴訟のこと】で登場した例の訴訟のことと思われる。経之は家族に、この「さいけ(在家)」を売って諸々の支払いにあてた後、あまりがあれば弓を買え、と指示している。この訴訟について、第1部では所領の所有権争いだろう、と述べたが、この「訴訟で取り戻した所領(在家)を売る」という28号文書の記述により、ほぼそれで正しいと確定してよいと思う。しかし、訴訟相手は依然不明のままだ。結論を言うとこれは最後まで明らかにしえなかった。訴訟の勝敗については、訴訟になった在家を売れ、と言ってるくらいなのだから勝訴したのは言うまでもない。やはり奉行(裁判官)に酒を送った効果だろうか。
経之はせっかく勝って確保した在家をあっさり手放し、弓を手に入れようとしている。弓の値段も調べたが、これはもう値幅が広すぎて参考になりそうなおおよその数値をも提示しがたかった。調べた範囲では弓一張りが3文から1.5貫文(1500文)とあった。全く参考にならないと思う。私の朧気な記憶では一張り1貫文(1000文)くらい、と何かの本で読んだような気がするが・・・。