2020-11-16から1日間の記事一覧

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その9

【出陣までの出来事】 〈経之の帰郷〉以上が経之が手紙に書き残した暦応二年(1339)よりも前、数年の間に起きた主な出来事である。しかしそれでもまだ兵革は止まない。高師冬の関東下向で経之は戦乱で困窮した百姓の尻を叩いてまたいくさの準備をしなければな…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その8

【元弘の乱以降の関東の動乱と経之】 〈経之の所領についての検討〉 経之の本領である武蔵国多西郡土渕郷(現東京都日野市あたり)は北は多摩川、南は浅川に挟まれた地域と推定され、川辺堀之内、石田、万願寺など約10ヶ村で構成されていたとみられている。…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その7

〈経之の金策のこと その1〉経之の手紙からもう少し金策絡みの話を拾いだしてみよう。経之の手紙からはいくさを前にして金策に駆けずり回る様子がよくわかる。上記の4号文書では「かしハハら」なる地に人を遣わす、とも告げている(「かしハハらへも人とつ…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その6

【経之、いくさ準備に手間取ること】 〈軍勢催促はあったけど…〉 暦応二年(1339)6月、鎌倉に到着した高師冬は関東各地の武士に軍勢催促状を発した。軍勢催促は山内経之の下にも届けられたであろう。そこで経之はさっそく出陣・・・、というわけにはいかな…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その5

【南北朝という時代】 〈元弘の乱から南北朝分裂までの時代背景〉高師冬が京を発ったのは暦応二年(1339)4月6日のことである。師冬は足利尊氏の重臣高師泰、師直と同じ高一族であり、師直のいとこに当たる。師冬の東下の目的は関東、特に常陸から南朝勢力…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その4

【経之の身辺】 〈ほかにも裁判が・・・〉鎌倉まで訴訟のために来ていた経之、訴訟が済み次第すみやかに帰国し、その後なに事も起きなければ経之の手紙はここで終わっていたはずである。もしそうだったらたいして歴史的価値のないありふれた古文書という扱い…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その3

【経之の家族構成】 〈又けさ〉まえがきのところで山内経之の手紙は家族へあてて書かれた、と述べたが、ここではその経之の家族構成について見てみたい。経之の手紙は欠損部分が多くて差出人や名宛人のわからないものが大半を占める。ただ手紙の内容から判断…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その2

第1部 【山内経之の最初の手紙】 〈山内経之は鎌倉で裁判中〉山内経之の最初の手紙は暦応二年(1339)の3月、鎌倉滞在中に家族へ宛てて書かれたものだ。経之はなぜ鎌倉にいるのか。手紙には「身のそしようの事も」とか、「ほんふきやう(本奉行)」という言…

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その1

まえがき 山内経之《やまのうちつねゆき》という人物を知っている人はあまりいないに違いない。知っているとしたら相当の歴史通だ。最近は鎌倉から室町時代を扱った歴史本にその名が登場することがちらほら見られるが、それも軽くさらっと触れられる程度であ…