山内経之 1339年の戦場からの手紙 その4

【経之の身辺】

〈ほかにも裁判が・・・〉
鎌倉まで訴訟のために来ていた経之、訴訟が済み次第すみやかに帰国し、その後なに事も起きなければ経之の手紙はここで終わっていたはずである。もしそうだったらたいして歴史的価値のないありふれた古文書という扱いだったろう。それが思いがけず、この滞在中に運命を左右する出来事(いくさ)に遭遇し、帰るに帰れなくなってしまった経之はその後、戦場の様子を手紙に綴り、はからずも後世に残すことになる。が、今は戦場の話題に触れる前に、鎌倉滞在中の経之の身辺で起きたこまごまとした揉め事について。
 「あまりにけひくはいして申さす候、ひこ六郎殿、かくしんかりやうないらんハうの事も、たかはた殿、あらいとのゝ御かたへも申たく存候へとも、あまりに/\めんほくも候ハす、中/\・・・はち入候」(あまりに忙しくて言ってなかったが彦六郎殿が「かくしん」の領内で濫妨をはたらいた。高幡殿、新井殿に言いたくても、あまりにあまりに面目なくて、なかなか・・・恥ずかしい)
経之の縁者と思われる彦六郎という者が、「かくしん」なる人物の領内に押し入って乱妨を働いたそうだ。「かくしん」という名前からすると寺の住職か隠居した武士とおもわれるが、地域でそれなりの地位を得た有力者だろう。乱妨を働いた理由が単なる喧嘩沙汰なのか、それとも金銭のやりとりのごたごたとか、土地の帰属争いのような面倒な問題なのかはわからないが、経之は対処に窮している。近隣の武士(在地領主)である「たかはた殿(高幡殿)」や「あらいとの(新井殿」に仲介を頼みたいと考えているが、どういうわけか面目ないとか恥じ入っているなどと困惑しきりである。この件のその後の顛末は不明である。ただ少なくとも経之が近隣の武士と一定の信頼関係を築き、何かトラブルが生じたときに助け合っている様子が見て取れる。「あらいとの(新井殿」はこののちもたびたび名前が出てくる、経之がもっとも信頼を寄せている近隣の在地領主である。「たかはた殿(高幡殿)」は経之の所領である土渕郷に隣接する得恒郷の領主で、高幡はその名前から察せられるように、胎内文書が発見された高幡不動堂の所在地である。経之は高幡氏とも親しくしていたようだ。南北朝の騒乱期は日本中どこへ行っても武士たちが所領所領争いを繰り広げている油断のならない時代という印象が強いが、ここでは相互に扶助しあう好ましい関係が築かれていたようだ。こういう関係がのちの国人一揆につながっていったのだろう。
問題を起こしたのは彦六郎だけでなく、経之の従者である彦三郎、紀平次の小者(つまり経之にとって又者)も何やら問題になるふるまいをしてこちらも裁判沙汰になっている気配なのだ
 「ひこ三郎▢▢との物にて候よしきゝ候て、さはくる人/\御きにも、きへいしかもとの物、かようの事をふるまい候をは、なにともおほせ候ハて候けるよし、うけ給し事、うたてくこそ候へ、」(彦三郎の従者と聞き、奉行に、きへいじの従者がこのようなふるまいをしたのは、何と言ったらいいのか、と言われて心が痛む)
若干意味が分かりずらいが、続けざまに問題が起こって経之は「うたてくこそ候へ」(悲しい、心が痛い)と嘆いている。

〈高師冬〉
経之にとって悩みの種は縁者や従者ばかりではなかった。経之の所領では百姓たちが命令に背いて年貢を納めず抵抗しているようなのだ。
 「ねんくともの事ハ▢やくしやうともニ申つけ候て、いかにつか・・・・つき候とも、さたすましきよし申候」
経之は鎌倉から手紙を書き、年貢を取り立てるよう息子の又けさに命じているのだが結果はあまり芳しくないようだ。後の話になるが経之は百姓たちに強硬手段をとることになる。
経之が鎌倉でも所領でも「あまりにけひくはいして(諸事が重なって難儀すると)」、あわただしさにてんてこ舞いしている折も折、経之にとってさらなる災難・・・いや、京から北朝方大将、高三河守師冬が軍勢を引き連れて鎌倉へ下ってきた。これがきっかけとなって経之の運命は決定づけられ、手紙は歴史的価値のあるものになるのだが、むろん当の本人はそんなことにはみじんも気づいていない。