山内経之 1339年の戦場からの手紙 その7

〈経之の金策のこと その1〉
経之の手紙からもう少し金策絡みの話を拾いだしてみよう。経之の手紙からはいくさを前にして金策に駆けずり回る様子がよくわかる。
上記の4号文書では「かしハハら」なる地に人を遣わす、とも告げている(「かしハハらへも人とつかハし候て」)。「かしハハら」は武蔵国高麗郡柏原のことで、経之はこの地にも所領を持っていたようだ。人を派遣する理由は年貢やいくさ用途の徴収以外に考え難い。
また6号文書では、「家政をうまく取り仕切る者がいないので年貢を徴収できていない、五郎もきっちり仕事をしない」、と役に立つ従者がいないこと嘆いている(「あまり物さはくり候物候ハて、事さらふさたにて候、五郎をも、ちかくは人も、又これの事も、つや/\なること候ハねとも」)。手持ちの従者では埒が明かないと見切りをつけたのか、8号文書では、百姓に命じて費用を持ってこさせるよう従者にではなく、親しい関係にあると思われるどこぞの寺の僧(「▢▢房」)に依頼している(「とく/\して、ひやくしやうともにさたして、もち候てのほれと、仰せあるへく候」)。
ただそれでもうまくいかなかったとみえて別の手紙では、寺の食事のまかない料があれば4,5月まで貸してもらえまいか、などと奇妙なお願いをしている。なぜ寺のまかない料なのか、4,5月まで、とは今年のことなのかそれとも来年のことを指しているのか、手紙の日付が不明なのでそれすらわからない。それにしても寺の食事代をよこせとはずいぶんと大胆な頼み事だとおもうが、それだけ経之はやりくりに困っていたのだろう。実際にまかない料を借りられたかは明らかでない。だがこれだけあちこちに手をまわしていくさ費用を確保しようと奮闘しているが、それだけでは足りずに、さらに別の寺(関戸観音堂)の坊主(「くわんのんだうのバうず」)に兵糧米を1,2駄無心している(「返々ひやうらまいの事仰候て、もし候ハヽ、一二たほしく候」24号文書)。

〈新井殿にまたお願い〉
さらに「あらいとの(新井殿)」に融資の仲介をお願いしたりしている。

 「あらいとのゝかたへも申▢て見候はゝやと存候て、申て候へは、御心ニ▢候て、御ひけい候て給候御心さし、はし▢ぬ御事に候へとも、返々申給へし」25号文書

この新井殿は前述したが、近隣の「新井」という地に住む、経之が日頃から信頼を寄せている在地領主であり、経之の手紙に再々名前が登場する。(マップ 新井殿の説明)
ここに言う「御ひけい(御秘計)」とは何をすることなのだろうか。不案内のために正確なことはわからないが、御秘計という言葉には仲介、周旋、金策の取り持ちという意味があり、おそらくだが経之が観音堂の坊主から金を借りる際、新井殿を保証人としてお願いしたということだろう。寺院が金融業のようなことをやっていたことはよく知られているし、観音堂の坊主もきっと近隣の者に貸し付けていたのだろう。ただ返すあてのない人に貸すはずがなく、その場合は保証人が求められる。経之には残念ながらそれだけの信用がなかった。そのために保証人をつけるよう求められたと考えられないか。新井殿に保証人を依頼するのは初めてのことではないらしくそれまでにも何度かあったようだ(「はし▢ぬ御事に候へとも」)。新井殿とはそれだけ強い信頼関係を構築できていたのだろう。
保証人が求められたといってもこの観音堂の坊主と経之は金の貸し借りだけのビジネスライクな関係ではなく、日頃から親しい交流があったようだ。そういう話も後に触れる。ちなみにこの関戸観音堂は現在も多摩市関戸に存在する。多摩川に近く、多摩川を挟んだ対岸には府中、当時でいえば武蔵国国府がある。関戸には関戸宿と呼ばれた宿場があり、鎌倉街道を通過して多摩川を渡る際はここを避けて通れなかった。前述の元弘の乱(1333)のときも鎌倉を目指した新田義貞が大軍を引き連れて鎌倉街道を南下した際に関戸宿で待ち構える幕府軍とのあいだで激戦になっている。関戸観音堂も戦禍に見舞われただろう。