山内経之 1339年の戦場からの手紙 その6

【経之、いくさ準備に手間取ること】


〈軍勢催促はあったけど…〉

暦応二年(1339)6月、鎌倉に到着した高師冬は関東各地の武士に軍勢催促状を発した。軍勢催促は山内経之の下にも届けられたであろう。そこで経之はさっそく出陣・・・、というわけにはいかなかった。経之はまずはいくさ支度にとりかかるのだが、これにかなり苦労している。ちょっと話は変わって戦国時代の話ではあるが、一領具足という軍事動員の仕組みがよく知られている。平素は農作業に従事している半農半兵の下級武士たちは、いざ出陣の号令がかかったとき、農作業を放り出し、田畑の脇に置いておいた武具(鎧、兜、刀など)を手に取って城に向かった。まゆつばのような気もするが、本当なら効率的でよく整備された制度だとおもう。それが真実だとしても経之の南北朝期にはまだ一領具足のような国単位の、大規模な軍事動員制度は存在しない。経之の時代に存在していた軍事組織といえば、惣領を中心として庶子、家子郎党をまとめた家族的な集団くらいしかない。そんな家族的な小規模な軍勢であればすぐにでも行動にうつせそうだが、経之が軍勢催促を受けてすぐに家臣団を動かしたのかというとそうではない。最終的に鎌倉まで家臣たちを呼びつけるのだがその前に、別の準備が必要だった。ここからしばらく経之の右往左往が始まる。


〈耳慣れない点役とはなにか〉

いくさ準備と関連して、高幡不動胎内文書4号文書にはこんな記述がある。

 「ひやくしやうとも、てんニやくかけ候しを、けふ御さたせず候よしきゝ、八郎四郎、太郎二郎入道ニ申つ▢▢て、つくり物ニふたをさゝせ▢く候」(百姓どもに点役を課したが今日に至っていまだに支払わないと聞いた。八郎四郎、太郎二郎入道に申しつけて農作物に差し押さえの札を差させた)

点役とは通常の年貢とは別の、臨時に課される税、公事のことである。経之は臨時の税を百姓たちに課した。その目的はおそらくいくさの準備資金に充てるためだ。4号文書は損傷が激しく、日付もわからないため、師冬の軍勢催促との前後関係は不明である。ただ他の手紙の内容も加味すればこの点役はいくさ資金と考えるのが自然で、4号文書は師冬が鎌倉に着いた6月以降のものだろう。経之には高師冬から軍勢催促があり、それに基づき点役で資金を用意しようとしたと見るべきだ。いくさ支度のために最初にすることが配下の兵をそろえたり、武具を整えるのではなく、まず資金の工面から始めるあたりがリアルないくさの実態を示していて興味深い。
ところがこの領主の求めに百姓らは渋っている。点役に応じようとしない。そこで経之は百姓らに対抗して、農作物に札を挿す(差し押さえ)という強硬手段に訴えでた。「つくり物ニふたをさゝせ」とは田畑の畦に看板を立てて差し押さえの事実を公然に周知する事をいう。自発的に収めないのならこちらから出向いて強引にとりたててやるまでだ、というのである。札を挿された百姓は勝手に収穫することはできない。現代でも差し押さえられた物件には紙が貼られて債務者は自由に処分できなくなるが、いつの時代にも似たような世知辛い話があったのだ。
百姓らが応じないのは何も臨時の点役だけでなく、本来の百姓の義務である年貢も同様であった。3号文書によれば経之は百姓に年貢を申し付けているが(「ねんくともの事ハ▢やくしやうともニ申つけ候て」)、どうもそれにも応じていないようで、5号文書で留守を預かる家族に向けて、

 「たにもひやくしやうともゝ、とくふんのすこしもさたせす候あひた、いまゝてのひ候にもさはり候て、何事も申うけ給ハらす候御事、返々心よりほかに存候、ひ▢三郎をまいらせ候し、」(百姓どもが少しも年貢を納めないので支障がでている。なのに何も連絡してこないのは返す返す心外である。彦三郎をそちらに遣わして・・・)

と、経之が鎌倉出張中の留守宅で、所領の経営がうまくいっていない不満をつのらせている。彦三郎は経之の従者のひとりで胎内文書にたびたび名前が出てくる、従者の中でも経之が特に信頼をおいている者だ。