山内経之 1339年の戦場からの手紙 その9

【出陣までの出来事】

〈経之の帰郷〉
以上が経之が手紙に書き残した暦応二年(1339)よりも前、数年の間に起きた主な出来事である。しかしそれでもまだ兵革は止まない。高師冬の関東下向で経之は戦乱で困窮した百姓の尻を叩いてまたいくさの準備をしなければならなかった。
6月か7月ころのことだと思われるが、経之は彦三郎という従者を常陸下向までの間、休暇を与える目的なのかしばらく本領(武蔵国多西郡土渕郷)に帰らせようとしている。滞っている年貢徴収のためかもしれない。しかし実際には彦三郎を帰すことはなかった。
 「ひこ三郎をしハらくひたちへ下候まてもと存候て、まいらせ候へハ、五郎あまりにまいりたきよし申候」(21号文書)
常陸下向まで留守宅に彦三郎を帰すつもりでいたが五郎という従者があまりにも帰りたいというので五郎を代わりとしている。その理由として寺で奉仕活動をしたいからだそうだ。この五郎、信心深いのか高幡不動堂で宿直をしたい、と殊勝な申し出をしているのだ。が、どうも嘘くさい。本音は経之のそばから離れたかっただけのような気がする。この従者の行動を見ているとそんな風に思えてくる。五郎は6号文書で役に立たないと名指しされた従者である。
五郎を土渕郷に返したものの、その後、経之は自ら金策のために一旦帰郷している。やはり五郎では役に立たなかった。経之は帰郷して直接百姓らとの折衝に当たるつもりだったのだろうが、果たして百姓が聞く耳を持ったかどうか。実際芳しい結果は得られなかった。「しやうしん」という高幡不動堂の坊主への手紙(22号文書)の中で、
 「兼又こんともまいり候て、御てらをもみまいらせたく相存候しに、あまりにけしきもさたうけ(左道気)にて候しほとに、かへりて候御事、返々心よりほかに存候」(帰ったついでにお寺にお参りをしたかったがあまりに金策が思ったようにゆかず、そのまま鎌倉に戻ってしまった。返す返す残念だ)
と述べている。
この高幡不動堂は経之の手紙が発見された寺であり、経之との関係は深い。経之が土渕郷に入植してきて間もない1335年(建武2年)8月4日にこの寺の御堂は嵐で倒壊し、中にあった不動明王像も損傷している。その修理ために高幡氏を始め近郷の武士たちが尽力した。経之も近隣の好で手を貸していたはずだ。そういう縁もあって経之の手紙は不動明王像の胎内に残されることになったのであろう。
またこの時期、新井殿?に宛てた手紙には「ねうほう(女房)やせて候」(15号文書)とあり、妻の心配をしている。帰郷した際に見たのだろうか。経之が不在中の心労がたたって体調を崩したのかもしれない。

〈ぬまとへ〉
鎌倉でいくさ準備中の山内経之は、準備の一環として自身の所領の一つである「ぬまと」(陸奥国牡鹿郡沼津、現宮城県石巻市)へ下ろうと考えている。わざわざ遠く陸奥国まで行く目的としては、「ぬまと」からもいくさ費用を徴収し、軍勢を連れて来ることにあると考えられる。
7月19日付の10号文書によると、経之は「有本」という地から物見が帰ってきたら「ぬまと」へ行くつもり、とある。
 「身ハぬまとへまかり候ハんと存候也、有本よりの物見候ハヽ、▢▢▢のへまかり候へく▢」(ぬまとへ参ろうと思っています、有本からの物見が到着すれば・・・参るつもりです)
「有本」がどこかは不明。物見の存在は、関東以北の地域情勢が緊迫していることを感じさせる。経之が向かおうとしている奥州の「ぬまと」あたりは敵方である南朝が優勢であり、また利根川以北の北関東も北畠親房常陸入りして以来、南朝勢の活動が活発化している。道中は決して安全とは言えなかった。
「ぬまと」行きに関連して本領の土渕郷から息子の「又けさ」を鎌倉まで呼び寄せている(8号文書)。
 「ぬまとへ下へき事におもひ候て、子をもよひのほせて候し□とも、そかとのもはやたち候よし申候、又あまりにのりかいの一きたにも候ハてと存候て、下候ハて、これより子を下て候へハ」(ぬまとへ下ろうと思って子を鎌倉まで呼び上らせましたが、曽我殿も早々に旅立ってしまいましたし、また乗り換えの馬一騎すらいないので、同行して下ることができませんでした。鎌倉から子を帰らせました。)
経之がぬまとへ下る理由は理解できるがそのために又けさを鎌倉まで呼んだのはなぜだろうか。それらしい記述がないので推測するしかないが、おそらく又けさをぬまとまで連れてゆくつもりだったのではないかと思う。
武州多西郡土渕郷を本領とする経之ではあったが、百姓の抵抗もあって土渕では思うように所領経営がうまくいかず、領主でありながら経之一家は肩身の狭い思いを味わっていた。そこで経之が常陸で戦っている間だけでも慣れ親しんだぬまとへ又けさを帰そうと思ったのではないかと思う。
だが結局この「ぬまと」行きは沙汰止みとなった。経之は乗り換え用の馬を用意できず、また同行する予定だった「そかとの(曽我殿)」も経之を待たずにさっさと出発してしまったという理由で断念することになった。準備が整わず、同行者もいない状況下で、はるばる「ぬまと」までの移動は、道中の危険を考え合わせれば諦めるのが懸命である。そのあおりを受けてわざわざ呼び寄せた「又けさ」はそのまま土渕の家に帰されることになった。

曽我殿は曽我太郎貞光と思われ、同時期3月頃に、陸奥国にある同氏の本拠大光寺外楯が南朝方に攻められ奪われてしまっている。曽我氏がその奪還のために兵を集めて帰郷する際に、経之も便乗してぬまとまで帰る計画だったのだろう。