山内経之 1339年の戦場からの手紙 その8

元弘の乱以降の関東の動乱と経之】

〈経之の所領についての検討〉 
経之の本領である武蔵国多西郡土渕郷(現東京都日野市あたり)は北は多摩川、南は浅川に挟まれた地域と推定され、川辺堀之内、石田、万願寺など約10ヶ村で構成されていたとみられている。その中には経之の従者として名前の出てくる大久保の弥三郎と関連がありそうな大久保や、経之が親しくしている新井殿の新井という地名も確認できる。経之の屋敷があったのは日野本郷あたりだろう。
経之はいくさ用途(費用)の捻出に苦労しているが、そもそも経之の本領である土渕郷からはどのくらいの年貢を期待できたのだろうか。史料上、全く明らかにできないので、ほかの資料から大雑把に推測することしかできない。
日野市の資料によると、土渕郷の近隣にある荘園では一つの村あたりだいたい1から5貫の年貢が取れたようだ。それを参考にすると10ヶ村ほどの土渕郷では10貫から50貫、平均して年間30貫の年貢が期待できそうだ。30貫と一口でいわれてもどのくらいの価値になるのか、どうもピンとこない。そこで現代の貨幣価値に直しみる。
ちょっと幅があるが1文を50円から100円と仮定すると、1貫(1000文)の価値は5万円から10万円。30貫だと150万~300万円ということになる。本領からの収入がこの程度とは今の時代の感覚からするとずいぶん少ないように思う。ただ経之はほかにも2か所、「ぬまと」(陸奥国牝鹿郡沼津、現宮城県石巻市)と、「かしハバら」(武蔵国高麗郡柏原、現埼玉県狭山市柏原)にも所領をもってたことがわかっている。手紙から判明しているのはその3つだけなのでもしかしたらそれ以外にも持っていた可能性もすてきれないが、それはともかく所領を複数持っているのなら経之は零細在地領主というほど貧しくなさそうだ。では所領から上がる年貢でいったいどのくらいの生活が営めたのかが気になるところだが、正直いって時代が違いすぎるし、自分の乏しい知識ではよくわからない。ただ経之の生きた鎌倉、南北朝期ではとくに驚くほど少ないというわけではなく、割と一般的な額だったのだろう。贅沢せずに平穏な生活を送るのであれば不足はなかった思われる。平穏であれば。しかし元弘の乱以降絶え間なく戦乱が続く時代にあれば、経之をはじめ武士たちが予期しない出費に悩まされたことは想像に難くない。

〈経之のルーツ〉
経之の山内一族についても簡単に説明しておきたい。
経之の一族(と、考えられる)山内首藤氏はもともと鎌倉の一角、山内(現在の北鎌倉あたり)を出自としている。山内家の家系図をみると「経行」なる人物の名前はあるが、「経之」はなく、「経行」は別人かもしれない。ただ「経行」の祖父「経通」は1265年に京都で逝去という記録が残っているので、時期は大きく隔たっていない。
山内首藤氏は平安の頃から名の知られた一族で鎌倉時代には源家からの信頼も厚かったようだ。山内首藤氏の一族は備後や土佐(土佐山内の祖)など日本各地に所領を所有しており、奥州(陸奥国桃生郡)にもその一つがあった。桃生郡は、経之の所領のひとつである「ぬまと(陸奥国牡鹿郡沼津、現宮城県石巻市)」と堺を接していることから、経之自身は元々奥州をルーツとしていて鎌倉末期頃には「ぬまと」を本領としていたのではないか。ところが元弘の乱により鎌倉幕府が滅びた。この出来事が、「ぬまと」の経之が武州土渕郷に本拠を移したのはことと関係しているかもしれない。わたしの勝手な推測に過ぎないが、このときのいくさで経之は討幕勢として参加して軍功をあげ、その褒賞として新たに武蔵国の土渕郷と「かしハバら」を宛てがわれた。そして新しく獲得した土渕郷を本拠とするために「ぬまと」から移り住んだ。こう考えることが許されれば、新しく入部した土地で百姓が経之に馴染まない理由を、外からやってきたまだ日の浅い領主に対する警戒感、で説明できそうだ。だが理由はそれだけではあるまい。

北畠顕家の上洛による土渕郷の被害〉
わたしの駄文の元となった胎内文書、つまり経之の手紙は暦応二年(1339)に書かれている。元弘の乱は元弘三年(1333)のことであり、それからもう6年も経っている。日の浅い領主といってもそれだけの期間があればいかに人付き合いが苦手でも、もう少し良好な関係が築けても良さそうなものだ。しかしそうはなっていない。経之の人間性に問題があったのだろうか、それともほかに原因があったのだろうか。ヒントはこの間も日本中で戦塵がおさまることはなかった世相にありそうだ。やむことのない戦乱は経之の所領経営にいい影響を与えなかっただろう。元弘の乱以降の出来事をざっと挙げてみると・・・

1333(元弘3年)
 5月  鎌倉幕府滅亡(元弘の乱) 後醍醐天皇を中心とする建武政権の誕生
 8月  足利尊氏が武蔵守、北畠顕家陸奥守に任じられる
1334(建武元年)
 10月 護良親王後醍醐天皇の命により捕縛
1335年(建武2年)
 7月  中先代の乱、鎌倉陥落 護良親王殺害される
 8月4日 嵐により高幡不動尊金剛寺倒壊、不動尊毀損
 8月  尊氏東下し鎌倉を奪還
 10月 尊氏、後醍醐の上洛命令を拒否
 11月 新田義貞、打倒尊氏のため下向
 12月 尊氏、義貞を破り西上
     北畠顕家、奥羽より尊氏を追って西上、斯波家長足利義詮を蹴散らし、一時鎌倉を奪取する
1336年(建武3年、延元元年)
 1月  尊氏、入洛 奥羽勢がすぐに奪還
 2月  尊氏、九州に敗走
 3月  顕家奥羽へ帰還、斯波家長、邪魔する
 4月  尊氏、九州で退勢を覆し東上
 5月  湊川の合戦で楠木正成敗死
 8月  尊氏、光明天皇を擁立(北朝の成立)
 10月 新田義貞、恒良、尊良親王と越前へ
 11月 尊氏、室町幕府を開く
 12月21日 後醍醐、吉野に逃れる(南朝の成立)。南北朝の動乱の開始
1337年(建武4年、延元2年)
 1月  顕家、陸奥国府から霊山に移る
 8月11日 北畠顕家、霊山から再上洛
 12月 斯波家長戦死、鎌倉攻略される
1338年(暦応元年、延元3年)
 5月 顕家、和泉国堺浦で敗死
 閏7月2日 新田義貞戦死
 8月 尊氏、征夷大将軍に任じられる
 9月 親房、顕信、義良・宗良親王とともに海路陸奥に向かうも遭難 親房、常陸に漂着 後醍醐天皇懐良親王を九州に派遣

鎌倉幕府崩壊後、誕生したばかりの建武政権足利尊氏の離反により僅かな期間で脆くも崩れ、南北朝に分かれて四海いたるところで争いが続いた。このうち、西国のいくさに経之が動員されることは、東国情勢が不安定なことを鑑みればさすがになかったであろうが、経之の所領が鎌倉街道にほど近い場所に位置していることから、鎌倉街道を伝って進軍してくる敵の侵掠、蹂躙は受けたであろう。なかでも重要なのが1335年の中先代の乱、奥州鎮守府将軍であった北畠顕家の上洛とその帰還、1337年の北畠顕家の再上洛である。中先代の乱信濃から、北畠顕家の上洛は奥州から軍勢が鎌倉に向けて北から下ってきた。鎌倉はこの1335年から1337年のわずか3年のあいだに、実に3度も占拠されている。とくに北畠顕家の上洛は鎌倉勢を壊滅的に痛めつけて蹴散らし、その通り道となった街道沿いの村々に大きな被害を与えた。北畠顕家の軍勢の通った後には草木も生えない、といわれたほどである。大軍による破壊、暴力、略奪は大いに住民を苦しめた。太平記には「その勢都合五十万騎、前後五日路、左右四、五里を押して通るに、元来無慚無愧の夷どもなれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を壊ちたり。惣てこの勢の打ち過ぎける跡、塵を払うて、街道二,三里が間には、家の一宇も残らず、草木の一本もなかりけり」とある。目も当てられぬ惨状というほかない。
顕家は遠く陸奥国からの遠征であった。二度の遠征はどちらも京近くまで進軍しており、この長行軍中の食料は呼び集められた武士どもの自弁である。当時としては食料自弁が基本であったのでそれ自体特別おかしなことではない。たださすがに奥州から京までは遠すぎた。自分でなんとかしろ、といわれても奥州から京まで重い荷駄を引きながらのいくさなど現実的でないし、兵站などという考えのない時代だから後方からの兵糧補給など望めず、つまるところ路次自らの手で調達して進むしかない。買い求められるのならそれに越したことはないだろうが、十分な銭の用意がなければ、褒められたことではないがあとはもう奪うしかない。その結果が「草木の一本もなかりけり」である。太平記はあけすけに「元来無慚無愧の夷ども」と、東国の武士に対する偏見を隠さない非難を展開しているが、事実は出自とは関係がない。そうでもしなければ飢えて死んでしまうのだ。いくさにおける略奪はいつの時代もどこの国でもつきものだった。それはともかく腹をすかせ略奪を繰り返しながら進軍する顕家軍に抱く印象は、威厳に満ちた勇ましい軍勢というよりは飢えた難民の群れに近い。

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このとき顕家軍は鎌倉街道上の武蔵国府(現府中市)に5日逗留している。武蔵国府は経之の所領である武蔵国多西郡土渕郷からせいぜい4,5キロメートルしか離れていないので、もし太平記の言う「街道二,三里が間には、家の一宇も残らず、草木の一本もなかりけり」が本当ならば、太平記一流の誇張を差し引いたとしても、被害は免れがたい。5日もあれば略奪には十分な時間である。
略奪の被害だけでなく、経之には軍勢催促の負担もあったはずだ。顕家の最初の上洛で鎌倉を追われた関東執事の高師茂、上杉憲顕らは顕家が西上するやすぐに東国の勢を掻き集め、八万余騎で顕家を追った。例によって数字はデタラメだがこの中に経之も動員されていたとしたら、経之はそのいくさ用途捻出のために百姓に点役を課したことだろう。
こうしていくさのたびに農村は疲弊していく。その重荷がすべて百姓の肩にのしかかる。不満が出ないはずがない。土渕郷においてもそれは同様で、しかも領主が入部してきたばかりの馴染みのない経之であればなおのこと、百姓らの不満は露骨に噴出し、経之を悩ませたことであろう。

 

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その7

〈経之の金策のこと その1〉
経之の手紙からもう少し金策絡みの話を拾いだしてみよう。経之の手紙からはいくさを前にして金策に駆けずり回る様子がよくわかる。
上記の4号文書では「かしハハら」なる地に人を遣わす、とも告げている(「かしハハらへも人とつかハし候て」)。「かしハハら」は武蔵国高麗郡柏原のことで、経之はこの地にも所領を持っていたようだ。人を派遣する理由は年貢やいくさ用途の徴収以外に考え難い。
また6号文書では、「家政をうまく取り仕切る者がいないので年貢を徴収できていない、五郎もきっちり仕事をしない」、と役に立つ従者がいないこと嘆いている(「あまり物さはくり候物候ハて、事さらふさたにて候、五郎をも、ちかくは人も、又これの事も、つや/\なること候ハねとも」)。手持ちの従者では埒が明かないと見切りをつけたのか、8号文書では、百姓に命じて費用を持ってこさせるよう従者にではなく、親しい関係にあると思われるどこぞの寺の僧(「▢▢房」)に依頼している(「とく/\して、ひやくしやうともにさたして、もち候てのほれと、仰せあるへく候」)。
ただそれでもうまくいかなかったとみえて別の手紙では、寺の食事のまかない料があれば4,5月まで貸してもらえまいか、などと奇妙なお願いをしている。なぜ寺のまかない料なのか、4,5月まで、とは今年のことなのかそれとも来年のことを指しているのか、手紙の日付が不明なのでそれすらわからない。それにしても寺の食事代をよこせとはずいぶんと大胆な頼み事だとおもうが、それだけ経之はやりくりに困っていたのだろう。実際にまかない料を借りられたかは明らかでない。だがこれだけあちこちに手をまわしていくさ費用を確保しようと奮闘しているが、それだけでは足りずに、さらに別の寺(関戸観音堂)の坊主(「くわんのんだうのバうず」)に兵糧米を1,2駄無心している(「返々ひやうらまいの事仰候て、もし候ハヽ、一二たほしく候」24号文書)。

〈新井殿にまたお願い〉
さらに「あらいとの(新井殿)」に融資の仲介をお願いしたりしている。

 「あらいとのゝかたへも申▢て見候はゝやと存候て、申て候へは、御心ニ▢候て、御ひけい候て給候御心さし、はし▢ぬ御事に候へとも、返々申給へし」25号文書

この新井殿は前述したが、近隣の「新井」という地に住む、経之が日頃から信頼を寄せている在地領主であり、経之の手紙に再々名前が登場する。(マップ 新井殿の説明)
ここに言う「御ひけい(御秘計)」とは何をすることなのだろうか。不案内のために正確なことはわからないが、御秘計という言葉には仲介、周旋、金策の取り持ちという意味があり、おそらくだが経之が観音堂の坊主から金を借りる際、新井殿を保証人としてお願いしたということだろう。寺院が金融業のようなことをやっていたことはよく知られているし、観音堂の坊主もきっと近隣の者に貸し付けていたのだろう。ただ返すあてのない人に貸すはずがなく、その場合は保証人が求められる。経之には残念ながらそれだけの信用がなかった。そのために保証人をつけるよう求められたと考えられないか。新井殿に保証人を依頼するのは初めてのことではないらしくそれまでにも何度かあったようだ(「はし▢ぬ御事に候へとも」)。新井殿とはそれだけ強い信頼関係を構築できていたのだろう。
保証人が求められたといってもこの観音堂の坊主と経之は金の貸し借りだけのビジネスライクな関係ではなく、日頃から親しい交流があったようだ。そういう話も後に触れる。ちなみにこの関戸観音堂は現在も多摩市関戸に存在する。多摩川に近く、多摩川を挟んだ対岸には府中、当時でいえば武蔵国国府がある。関戸には関戸宿と呼ばれた宿場があり、鎌倉街道を通過して多摩川を渡る際はここを避けて通れなかった。前述の元弘の乱(1333)のときも鎌倉を目指した新田義貞が大軍を引き連れて鎌倉街道を南下した際に関戸宿で待ち構える幕府軍とのあいだで激戦になっている。関戸観音堂も戦禍に見舞われただろう。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その6

【経之、いくさ準備に手間取ること】


〈軍勢催促はあったけど…〉

暦応二年(1339)6月、鎌倉に到着した高師冬は関東各地の武士に軍勢催促状を発した。軍勢催促は山内経之の下にも届けられたであろう。そこで経之はさっそく出陣・・・、というわけにはいかなかった。経之はまずはいくさ支度にとりかかるのだが、これにかなり苦労している。ちょっと話は変わって戦国時代の話ではあるが、一領具足という軍事動員の仕組みがよく知られている。平素は農作業に従事している半農半兵の下級武士たちは、いざ出陣の号令がかかったとき、農作業を放り出し、田畑の脇に置いておいた武具(鎧、兜、刀など)を手に取って城に向かった。まゆつばのような気もするが、本当なら効率的でよく整備された制度だとおもう。それが真実だとしても経之の南北朝期にはまだ一領具足のような国単位の、大規模な軍事動員制度は存在しない。経之の時代に存在していた軍事組織といえば、惣領を中心として庶子、家子郎党をまとめた家族的な集団くらいしかない。そんな家族的な小規模な軍勢であればすぐにでも行動にうつせそうだが、経之が軍勢催促を受けてすぐに家臣団を動かしたのかというとそうではない。最終的に鎌倉まで家臣たちを呼びつけるのだがその前に、別の準備が必要だった。ここからしばらく経之の右往左往が始まる。


〈耳慣れない点役とはなにか〉

いくさ準備と関連して、高幡不動胎内文書4号文書にはこんな記述がある。

 「ひやくしやうとも、てんニやくかけ候しを、けふ御さたせず候よしきゝ、八郎四郎、太郎二郎入道ニ申つ▢▢て、つくり物ニふたをさゝせ▢く候」(百姓どもに点役を課したが今日に至っていまだに支払わないと聞いた。八郎四郎、太郎二郎入道に申しつけて農作物に差し押さえの札を差させた)

点役とは通常の年貢とは別の、臨時に課される税、公事のことである。経之は臨時の税を百姓たちに課した。その目的はおそらくいくさの準備資金に充てるためだ。4号文書は損傷が激しく、日付もわからないため、師冬の軍勢催促との前後関係は不明である。ただ他の手紙の内容も加味すればこの点役はいくさ資金と考えるのが自然で、4号文書は師冬が鎌倉に着いた6月以降のものだろう。経之には高師冬から軍勢催促があり、それに基づき点役で資金を用意しようとしたと見るべきだ。いくさ支度のために最初にすることが配下の兵をそろえたり、武具を整えるのではなく、まず資金の工面から始めるあたりがリアルないくさの実態を示していて興味深い。
ところがこの領主の求めに百姓らは渋っている。点役に応じようとしない。そこで経之は百姓らに対抗して、農作物に札を挿す(差し押さえ)という強硬手段に訴えでた。「つくり物ニふたをさゝせ」とは田畑の畦に看板を立てて差し押さえの事実を公然に周知する事をいう。自発的に収めないのならこちらから出向いて強引にとりたててやるまでだ、というのである。札を挿された百姓は勝手に収穫することはできない。現代でも差し押さえられた物件には紙が貼られて債務者は自由に処分できなくなるが、いつの時代にも似たような世知辛い話があったのだ。
百姓らが応じないのは何も臨時の点役だけでなく、本来の百姓の義務である年貢も同様であった。3号文書によれば経之は百姓に年貢を申し付けているが(「ねんくともの事ハ▢やくしやうともニ申つけ候て」)、どうもそれにも応じていないようで、5号文書で留守を預かる家族に向けて、

 「たにもひやくしやうともゝ、とくふんのすこしもさたせす候あひた、いまゝてのひ候にもさはり候て、何事も申うけ給ハらす候御事、返々心よりほかに存候、ひ▢三郎をまいらせ候し、」(百姓どもが少しも年貢を納めないので支障がでている。なのに何も連絡してこないのは返す返す心外である。彦三郎をそちらに遣わして・・・)

と、経之が鎌倉出張中の留守宅で、所領の経営がうまくいっていない不満をつのらせている。彦三郎は経之の従者のひとりで胎内文書にたびたび名前が出てくる、従者の中でも経之が特に信頼をおいている者だ。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その5

南北朝という時代】

元弘の乱から南北朝分裂までの時代背景〉
高師冬が京を発ったのは暦応二年(1339)4月6日のことである。師冬は足利尊氏重臣高師泰、師直と同じ高一族であり、師直のいとこに当たる。師冬の東下の目的は関東、特に常陸から南朝勢力を一掃することにあった。この辺の事情を理解するために、鎌倉滅亡から室町時代に至るまでの、南北朝の内乱といわれる時代の歴史的背景から説き起こしてみよう。
元弘の乱による鎌倉幕府の滅亡と、それに次ぐ後醍醐天皇による建武の新政の誕生、崩壊は、60年ほど続く南北朝期の幕開けでもあった。
 元弘三年(1333)5月、鎌倉幕府の北条政権に反旗を翻した新田義貞上野国生品明神においてわずか150騎で挙兵、一路鎌倉街道を南下して武士の都である鎌倉を目指した。軍勢は路次、義貞同様に得宗北条家の専横、独占に反感を抱く御家人たちを吸収して雪だるま式に膨れ上がり、太平記によればその数20万騎を超えたというが実際は数百から数千騎だろう。それでも大軍であることに変わりはない。北条高時の弟泰家率いる鎌倉勢は、多摩川分倍河原・関戸宿で一度は義貞の進軍を食い止めたものの、反乱軍の勢いに抗しがたく、泰家は分倍・関戸から敗走した。義貞の大勝を聞いた東八ヶ国の武士たちはわれ先に、と義貞の下に集まり、雲霞のごとく膨れ上がった義貞勢は80万騎に達したという(太平記によれば)。要所である分倍・関戸の防衛線を突破されて以降、幕府の抵抗はむなしくなった。鎌倉東勝寺北条高時ら一族870人余が腹を切り、150年続いた鎌倉の政権があっけなく滅び去ったのは義貞の挙兵からわずか2週間後、元弘3年5月22日のことであった。

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関東地図ー「東国の南北朝動乱」より



 それを機に誕生した後醍醐天皇による建武の新政ではあったが、この政権は当初から抱えていた根本的な問題を解消することができず短期間で霧消してしまった。後醍醐が望んでいたのは自身がすべてを差配する独善的、独裁的な政治体制であったが、もとより後醍醐の天皇親政の夢と、後醍醐のもとで戦った足利尊氏を中心とする武士たちが直面する現実との間には大きな懸絶があった。両者が目指していた世界は決して相容れることのない同床異夢に過ぎなかった。いうまでもなく武士たちののぞみは貴族中心の世などではなく、ただ自分の所領を守ることその一心である。後醍醐天皇は綸旨を乱発し、不満を抱える武士たちを誘い、籠絡することで、武士を利用して武士の政権を倒すという離れ業をやってのけたが、両者の間の溝はけっきょく埋まることはなく僅か2年で修復しようのない亀裂が生じることとなる。
 元弘の乱から2年後の建武二年(1335)、鎌倉幕府の残党による鎌倉奪還を目指した中先代の乱が勃発する。この乱を鎮めた足利尊氏後醍醐天皇の帰京命令を無視する形で鎌倉に留まった。尊氏の狙いは後醍醐が望むような政治体制の手助けではなく、やはり自分を支えている武士たちの、武士のための武家政権の樹立にあった。尊氏はその翌年、後醍醐への対抗上、鎌倉末期から後醍醐の大覚寺統と対立関係にある持明院統光明天皇を擁立して京に幕府を開く。北朝の成立である。対し、後醍醐は吉野に遷幸して南朝を樹立した。南北朝の分裂はここに決定的となった。南朝北朝の争いは本来、天皇の座をめぐる持明院統大覚寺統の宮廷内部における皇位継承問題に過ぎなかったが、尊氏が朝敵のそしりを免れるために光明天皇を擁立したために日本中の武士を巻き込んでの内乱となってしまった。
 この南北朝の争いは当初こそ北畠顕家率いる奥州の南朝勢が奮闘し、尊氏から鎌倉を奪い、逃げる尊氏を追撃して西へと追いやるなど、南朝方に有利に進むように見えた。負け続けた尊氏は九州まで逃げている。しかし南朝の有力武将である楠木正成新田義貞、さらには北畠顕家までもが相次いで討ち死にすると、形勢はしだいに北朝方に傾いていく。
 後醍醐天皇は大勢の挽回を図るべく、随一の重臣である北畠親房を東国に派遣することにした。それが暦応元年(1338)9月、山内経之の一連の手紙が書かれた前年のことである。
 親房は南朝奥州将軍北畠顕家の父である。数ヶ月前に愛息を若くして失ったばかりの親房は、後醍醐天皇の皇子である義良親王宗良親王を奉じて伊勢国大湊より海路東国へ向かった。顕家の跡を継いで東国、特に陸奥国南朝勢の扶植、再結集を図るためである。ところが遠州灘を航海中に一行を乗せた船団は嵐に見舞われ遭難、義良を乗せた船は吉野に戻り、宗良は遠江国に漂着して失う中、親房はかろうじて常陸国東条浦にたどり着いた。親房はもともとは奥州に向かう予定だったのだがそれはあきらめ、以降常陸に腰を据えて、東国における南朝方の主役となった。
 親房は常陸国を中心に勢力を拡大し利根川以東における支配権を強めてゆき、徐々に下総国武蔵国にも手を伸ばしはじめた。そうした東国南朝勢の動きに危機感を覚えた北朝方は坐視できなくなった。
 翌暦応2年(1339)4月6日、北朝方の足利尊氏は東国静謐の総大将として高師冬を派遣した。師冬は鎌倉府執事、武蔵国守護も兼ねている。同年6月に鎌倉に到着した師冬は自身の管轄である武蔵の他、相模、上総などの武士を糾合しつつ、親房のいる常陸国を目指すことになる。以後4年半にも及ぶ常陸合戦の始まりであった。

この記事の主人公山内経之も常陸合戦に否応なしに巻き込まれてゆく。一介の在地領主に過ぎない経之には南北朝の争い(主に尊氏と後醍醐の主導権争い)に利害関係や強い関心があったとは思えない。自身の所領経営で頭がいっぱいだっただろう。しかし経之がなんと思おうと時代は戦乱の世であり、永世中立を宣言して泰然自若と孤塁を守っているわけにはいかなかった。敵か、味方か、息苦しい圧力は経之の身にもせまってきた。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その4

【経之の身辺】

〈ほかにも裁判が・・・〉
鎌倉まで訴訟のために来ていた経之、訴訟が済み次第すみやかに帰国し、その後なに事も起きなければ経之の手紙はここで終わっていたはずである。もしそうだったらたいして歴史的価値のないありふれた古文書という扱いだったろう。それが思いがけず、この滞在中に運命を左右する出来事(いくさ)に遭遇し、帰るに帰れなくなってしまった経之はその後、戦場の様子を手紙に綴り、はからずも後世に残すことになる。が、今は戦場の話題に触れる前に、鎌倉滞在中の経之の身辺で起きたこまごまとした揉め事について。
 「あまりにけひくはいして申さす候、ひこ六郎殿、かくしんかりやうないらんハうの事も、たかはた殿、あらいとのゝ御かたへも申たく存候へとも、あまりに/\めんほくも候ハす、中/\・・・はち入候」(あまりに忙しくて言ってなかったが彦六郎殿が「かくしん」の領内で濫妨をはたらいた。高幡殿、新井殿に言いたくても、あまりにあまりに面目なくて、なかなか・・・恥ずかしい)
経之の縁者と思われる彦六郎という者が、「かくしん」なる人物の領内に押し入って乱妨を働いたそうだ。「かくしん」という名前からすると寺の住職か隠居した武士とおもわれるが、地域でそれなりの地位を得た有力者だろう。乱妨を働いた理由が単なる喧嘩沙汰なのか、それとも金銭のやりとりのごたごたとか、土地の帰属争いのような面倒な問題なのかはわからないが、経之は対処に窮している。近隣の武士(在地領主)である「たかはた殿(高幡殿)」や「あらいとの(新井殿」に仲介を頼みたいと考えているが、どういうわけか面目ないとか恥じ入っているなどと困惑しきりである。この件のその後の顛末は不明である。ただ少なくとも経之が近隣の武士と一定の信頼関係を築き、何かトラブルが生じたときに助け合っている様子が見て取れる。「あらいとの(新井殿」はこののちもたびたび名前が出てくる、経之がもっとも信頼を寄せている近隣の在地領主である。「たかはた殿(高幡殿)」は経之の所領である土渕郷に隣接する得恒郷の領主で、高幡はその名前から察せられるように、胎内文書が発見された高幡不動堂の所在地である。経之は高幡氏とも親しくしていたようだ。南北朝の騒乱期は日本中どこへ行っても武士たちが所領所領争いを繰り広げている油断のならない時代という印象が強いが、ここでは相互に扶助しあう好ましい関係が築かれていたようだ。こういう関係がのちの国人一揆につながっていったのだろう。
問題を起こしたのは彦六郎だけでなく、経之の従者である彦三郎、紀平次の小者(つまり経之にとって又者)も何やら問題になるふるまいをしてこちらも裁判沙汰になっている気配なのだ
 「ひこ三郎▢▢との物にて候よしきゝ候て、さはくる人/\御きにも、きへいしかもとの物、かようの事をふるまい候をは、なにともおほせ候ハて候けるよし、うけ給し事、うたてくこそ候へ、」(彦三郎の従者と聞き、奉行に、きへいじの従者がこのようなふるまいをしたのは、何と言ったらいいのか、と言われて心が痛む)
若干意味が分かりずらいが、続けざまに問題が起こって経之は「うたてくこそ候へ」(悲しい、心が痛い)と嘆いている。

〈高師冬〉
経之にとって悩みの種は縁者や従者ばかりではなかった。経之の所領では百姓たちが命令に背いて年貢を納めず抵抗しているようなのだ。
 「ねんくともの事ハ▢やくしやうともニ申つけ候て、いかにつか・・・・つき候とも、さたすましきよし申候」
経之は鎌倉から手紙を書き、年貢を取り立てるよう息子の又けさに命じているのだが結果はあまり芳しくないようだ。後の話になるが経之は百姓たちに強硬手段をとることになる。
経之が鎌倉でも所領でも「あまりにけひくはいして(諸事が重なって難儀すると)」、あわただしさにてんてこ舞いしている折も折、経之にとってさらなる災難・・・いや、京から北朝方大将、高三河守師冬が軍勢を引き連れて鎌倉へ下ってきた。これがきっかけとなって経之の運命は決定づけられ、手紙は歴史的価値のあるものになるのだが、むろん当の本人はそんなことにはみじんも気づいていない。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その3

【経之の家族構成】

〈又けさ〉
まえがきのところで山内経之の手紙は家族へあてて書かれた、と述べたが、ここではその経之の家族構成について見てみたい。
経之の手紙は欠損部分が多くて差出人や名宛人のわからないものが大半を占める。ただ手紙の内容から判断すると経之から家族に、それも息子の「又けさ」に宛てたものが大きなウェイトを占めていることがわかる。そこでまずはこの「又けさ」についてみてみたい。
「又けさ」は漢字に直すと「又袈裟」だろう。袈裟はいうまでもなく僧侶が左肩からかけて着る法衣のことだ。今でこそあまりそういった例は見られないが、かつては子供の名前に宗教に関連した名前を付けるのはわりと一般的であった。又けさがまだ幼名を名乗っていることから推測するとまだ元服前だったのだろう。ただ一方で経之は又けさに、家長である父に代わってあれこれと留守宅の用事をこなすよう申し付けていること、また家事をうまく取り図ることができない又けさに「もう子供ではないのだから」と諭している様子から察すると13,4くらいのもう元服に近い年ごろだったのではないかと思う。経之は多くの仕事を又けさに任せているが、父が留守中というこの機会をとらえて成長、自立してほしいという親としての情愛が感じられる。
次に、又けさと比べると数こそ少ないものの、妻に対する手紙もいくつか確認できる。残念なことにこの妻の名前は判然としない。「はゝこ(母御)」や「ねうほう(女房)」の表記があるのみである。妻宛てと思われる手紙はどれも名宛人の部分が欠損していて判読できず、又けさや知人宛ての手紙の中で「はゝこ(母御)」、「ねうほう(女房)」と表記されている例はあっても具体名までは書かれていない。この妻も胎内文書では重要な存在であり、名前が不明なのは残念だ。
経之の家族として名前が伝わっているのはこの妻子のみであるが、ほかにも子供はいたかもしれない。

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「日野市史 史料集 高幡不動胎内文書編」 山内経之に関する唯一の史料

〈山内六郎〉
胎内文書ではもうひとり、家族ではないが親類と考えられる山内六郎治清なる人物の存在も確認できる。六郎は前章の〈山内経之は鎌倉で裁判中〉で検討した、経之と訴訟になっている親族である可能性も捨てきれない。それはどういうことか。
経之が鎌倉で訴訟中の暦応二年(1339)と同時期と思われる4月3日付け「しやうしん」宛ての、山内六郎治清の署名入りの手紙(51号文書)がある。これによると六郎は「これにての又けさ殿ゝ作法(ふるまい、態度)」に納得してないようで、「なにとあるへしともおほへす候」(考えられない、信じられない)と憤慨している。六郎の居所である「これにて」がどこなのかは不明だが、その地においての又けさのふるまいを六郎は問題視しているのだ。ただ具体的に何があったのかはわからないが、六郎はそれまで疎遠であった「しやうしん」なる人物にまで、又けさに対する不満を打ち明けているのはよほどの事情であったのだろう。以下は想像でしかないのだが、つまりこういうことではなかったか。
経之と六郎は兄弟で、六郎は山内家の旗印の下、惣領である兄の経之とともに戦場を戦い抜き手柄を立てた。戦場としては鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱が考えられる。その褒美として山内家はいくつか所領を下されたが、これは惣領である経之に下されたものであり、六郎個人が所領を得たわけではなかった。その後、六郎は経之からその所領の一部管理を任されたが、経之の跡取りである又けさが長ずるにつれ、所領からの立ち退き、返還を求められるようになった。惣領制においては所領の管理は惣領の判断にゆだねられており、庶子に過ぎない六郎にはどうすることもできなかった。
鎌倉幕府の衰退の理由のひとつとして所領の細分化による武士の一族間の相克があげられるが、惣領の下で被官化した庶子の不満は軍事的な衝突や訴訟として現れる。経之と六郎の関係も同様のものだったのではないだろうか。又けさが幼いうちは所領を任せることはできないので代わりに六郎に預けていたが、又けさが元服して一人前になれば、経之としては又けさのために所領を返してもらおうとするだろう。しかし六郎だって生活がある。もしかしたら六郎にも子もいたかもしれない。返せと言われて素直に返せるものではない。又けさが問題となっている所領で主のようにふるまったことが六郎の癇に触れ、訴訟へと発展した可能性がある。前章で経之の訴訟相手について検討したが、以上のように考えれば、六郎もその候補にふさわしいといえる。

山内経之 1339年の戦場からの手紙 その2


第1部

【山内経之の最初の手紙】

〈山内経之は鎌倉で裁判中〉
山内経之の最初の手紙は暦応二年(1339)の3月、鎌倉滞在中に家族へ宛てて書かれたものだ。経之はなぜ鎌倉にいるのか。手紙には「身のそしようの事も」とか、「ほんふきやう(本奉行)」という言葉が見える。どうやら経之は訴訟のために鎌倉に滞在していたらしい。訴訟の具体的な内容は不明である。いくさとは関係ないがとても面白いので触れておきたい。

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鎌倉 鶴岡八幡宮


 「ほんふきやうきやうとへ御つかいニのほられ候しのち、ふきゃうかハりて候か、身にハひころミた人ニて候ほとニ、さたもやかてゝひろすへきよし申候へとも、いまたさけをたにも一とかハす候ほとに、なに事も申しゑて候、このてニハ事さら人もあまた候ほとニ、いかにしてもさけをかひたく存候か、それもかなハす候ほとニ」(本奉行は用があって京都に上られた。新しく変わった奉行はよく知っている人で、すぐにでも判決を出すから、と言ってくれたが、お礼の酒をまだ一斗も買っていない。この人の配下にはたくさん人がいるのでなんとしても酒を買わなければならないが未だにそれも叶わないでいる。)
どういうことだろうか、いきなり唖然とさせられる内容である。奉行(裁判官)が交代するがその新しい奉行は知人である、という時点で現代の常識からすれば不当な判決がなされるおそれがあり、当該裁判官は裁判官として不適格である。それだけでも公平は裁判とは言えないのに、お礼の酒を買っていない?!・・・これはどう考えても賄賂である。経之は事もあろうに裁判官の買収のために賄賂を贈ろうとしていることを悪びれずに手紙に書き残しているのだ。知人である奉行も奉行で、裁判で手心を加える気配が濃厚である。こちらも罪の意識などなさそうだ。驚かされるがこの当時の人にとってはこれが常識だったのだろうか。・・・まあ罪の意識がないのは今の政治家も変わりはないが。
訴訟の結果はそれらしいことが別の手紙で判明するので後述するが、そもそもどのような内容の訴訟だったのだろうか。少し長くなるが時代背景も絡めて考えてみたい。

南北朝期の武士は生活苦〉
この時代を象徴する言葉のひとつとして「一所懸命」があげられる。武士にとって最大の関心事は一も二もなく所領を守ることであった。財産的基盤である所領を失えば武士としての本分である戦い以前に、その日の米塩にも事欠くようになり、生死にもかかわる重要な問題であった。
経之の手紙から遡ること六年、元弘三年(1333)に上野国御家人新田義貞が鎌倉を攻めて得宗北条高時を自害に追い込み、鎌倉幕府を瓦解させた。元弘の乱である。武家の政権である鎌倉幕府の滅亡と同時に後醍醐天皇を中心とする建武の新政が始まった。新田義貞挙兵の背後には後醍醐天皇がいたのだが、ここでひとつ疑問なのは、なぜ新田義貞をはじめ、足利尊氏楠木正成などの武士たちが天皇側に付き、武士の政権である鎌倉幕府を崩壊に追い込んだのか、という点である。
 この一文の趣旨から逸脱しかねないため詳しくは述べないが、土地所有をめぐる武士どおしの相克が、鎌倉幕府から武士の離反を招いた一因といわれている。
 というのも鎌倉時代、武士の土地相続は父から子への分割相続が基本であった。子供が複数いれば子供全員に土地を平等に分けるのである。ふたり子供がいればそれぞれが二分の一ずつを、三人いれば三分の一ずつを、という具合に分割して相続する。一見公平で妥当な措置だと思えるが、これだと相続した子供は父の代よりも小さくなった所領を頼りに生きていかなければならなくなる。所領は親から子へ、子から孫へと世代を経て受け継がれるごとに小さくなり、当然ながら生活は苦しくなる。当然の成り行きとして、少しでもほかの子より多く相続しようといがみ合うようになり、一族間での所領の帰属争いが頻発する原因となった。このような問題が生じたときに、幕府に期待される役割は調停や所領安堵(保障)であり、当事者同士で解決できない争いは鎌倉に持ち込まれて審議されることになる。しかし解決しようにもそもそも所領が小さいことが根本的な原因であり、増やすことなど不可能である以上、双方が納得する円満解決は望むべくもなかった。どちらかが満足すれば他方には不満が残った。結果として日々の米塩の資にも事欠く武士が増えていった。折しも貨幣経済が浸透し始める時代、借上(かしあげ)と呼ばれた高利貸しが現れはじめる。生活に困った武士は僅かに残った所領を借上に売って(所領を担保に金を借りて)糊口をしのぐことになるがそれがかえって所領を縮小を招き、さらに疲弊していく。そのうち借金がかさみ、掛け替えのない所領を寸土も余さず手放す者も現れるようになる。そのような武士は無足の御家人と呼ばれる。具体例をあげると、蒙古襲来の際に活躍した(と本人は言い張った)竹崎季長もそのひとりである。竹崎のように要領よく権力者の懐にもぐりこんで所領を授かることができれば良いが、行き場を失った武士の中には悪党と呼ばれる無法者になる者もあり、悪党の跳梁は治安は悪化を招き、社会を不安定化させた。武士の所領を安堵し、武士たちから信頼されることこそが鎌倉幕府の存立のよりどころ、存在価値であったが、武士の期待に答えられなくなった鎌倉の体制は御恩と奉公の関係が崩れ、徐々に土地を巡る争いは鎌倉の手から離れ、自力救済による武力衝突が日本各地で頻発するようになった。
 武士たちの不満は自然の成り行きとして幕府、とりわけ富と権力を独占する得宗北条家一族への憤りとなり、そこに後醍醐天皇がうまく便乗して源頼朝以来の武士の政権は終焉を迎えることになったのである。
 以上のような社会情勢を踏まえれば経之が、この一文の主人公である山内経之が鎌倉に滞在していた理由の「そしよう」も所領争いであろう。この時代の武士の争いといったらこれ以外に考えにくい。

〈経之の訴訟相手は?〉
 だが肝心の訴訟の相手は誰だかわからない。やはり同族である山内一族の人間なのだろうか。いや、金を返せ、返さないでもめている借上かもしれない。
元弘の乱鎌倉幕府が消滅して以来、得宗家に近い御内人御家人衆は死んだか、死なずとも土地を追われ、代わりに後醍醐側の武士が新しく入植した。しかしここでもすんなりと土地の譲渡が進んだわけではない。追われる者と新参者の間で争いは続いた。それぞれが正当な所有権者であると主張した。その根拠として綸旨を偽造することもあったという。綸旨とは天皇が発行する命令文書である。建武の新政において後醍醐は意欲的に自身に権力を集中させて親政政治をおこなったが、それゆえ必然的に天皇の発する綸旨の効力、権威が高まった。綸旨の効力の及ぶ範囲が公家の世界にとどまらず、本来幕府の所管事項であった武士の所領問題や守護地頭職の補任も含まれるようになっていった。しかし一人ですべての事柄を処理しようとしてもおのずから限界はあり、拙速に陥り、誤判、手違いが続出した。そういった混乱に乗ずる抜け目のない連中が後を絶たなかった。二条河原の落書に見るように「このごろ都にはやる物」といえば夜討ち、強盗、偽綸旨であった。追い詰められた武士どもは戦後の混乱のどさくさにまぎれて偽綸旨を掲げて所領の所有権を主張したり、場合によっては力ずくで奪い、あるいは守ることも辞さなかった。
 ということは経之の訴訟の相手はもしかしたら親族ではなく、借上でもなく、偽綸旨を持った所領の前所有者でなのだろうか。
経之の本領である武蔵国多西郡土渕郷である。この地の元々の所有者は土渕矢三入道跡とされ(跡は子孫の意味)、その一族は代々武蔵国府の在庁官人であった。土渕郷は武蔵国府に近く、土渕家の人々は武蔵守護であった得宗北条家の被官(御内人)であったと考えられる。得宗北条家の被官であれば残念ながら先の元弘の乱鎌倉幕府の滅亡とともに没落していったであろう。この土渕氏が経之の訴訟相手とも考えられなくもないが、あまり現実的ではない。生きてないだろう。であれば訴訟相手はやはり親族か借上なのか。この検討はあとに譲る。